眷属として
今回から二話ほどレーコ視点です
廊下の曲がり角で、唐突に邪竜様の気配が消えた。
レーコは思案顔になる。
確かに邪竜様は、自在に亜空間を創り出してその中を闊歩することができる。
しかし、邪竜様という強大な存在がこの世から一時的にでも消失することは、自然界の調和にとって好ましからざる出来事である。
大黒柱の消えた家が軋み、崩れ落ちるように、世界もまた邪竜様なしでは平静を保てない。
邪竜様は非常に思慮深い。世界に与える悪影響は熟知しているし、現にレーコを眷属としてから一度も空間歪曲を行うことはなかった。
――ならば。
レーコは廊下を小走りで駆け、曲がり角に着いた。
そこにあったのは、まるで雨漏りでもあったかのような水たまりだ。
しかもただの水ではない。魔力が溶けているのが感じられる。
指に触れてみるとすぐにどんな類のものかも分かった。
「対象を閉じ込める結界の罠。ということは――先の無礼者はやっぱりあの聖女もどき。どうりで人間にしては妙な気配だと思った。ここまで邪竜様に無礼を重ねるなんて、絶対に許せない」
おいそれと敵の罠に嵌る邪竜様ではない。ということは、自ら聖女の元へ乗り込んだと見える。
誅するためか、あるいは懐柔するためか。
その深謀遠慮なる心の内は見通せないが、自重を命じられた以上は眷属たる自分が下手な手出しをするわけにはいかない。
それでも、今すぐ罠を破壊したいという衝動を抑えるのはレーコにとって大変な苦労だった。
手元の短剣を振るうだけで、聖女の作り出した結界などたやすく突破することができる。
しかし、当の邪竜様がその手段を取っていないのだから、ここで手を出してはその意を無視することとなってしまう。
「いけない。ここで私が割り込みなんてしたら、まるで邪竜様を信じていないようになってしまう。それは駄目。眷属として出るべきでない場面は出ない」
だから決して手出しはしない。
水たまりの上から、聖女に向けて渾身の殺気を放つだけに留めておいた。廊下の窓ガラスがすべて粉々に砕け散った。
このくらい問題はない。
聖女は今、本物の邪竜様を目の前にしているのだ。レーコの放った殺気など、大海に紛れた雫の一滴のようなものである。
これで鬱憤は少し晴らせた。
あとは邪竜様に命じられたとおり散歩を敢行するとしよう。
「うわぁっ! なんだこりゃあ。窓が全部割れてやがる!」
宿の主人が狼狽する横をすり抜けて外に出る。寝間着代わりの絹衣に裸足のままだが、邪竜様も普段は特に何も着ていない。なら眷属の自分だって軽装で構わないだろう。
歩いていると、道の向こうから数人の子供たちがきゃあきゃあと騒ぎながら走ってきた。
見れば、野菜の切れっ端や木の根っこなどを手に持っている。
「ドラドラどこ行っちゃったのかなー?」
「どこかの宿に泊まるつもりって言ってたよね?」
「今日も会えると思ったのに……」
「まだいなくなったわけじゃないだろ。ほら、探そう探そう」
なるほど。会話から察するに、ドラドラという名の珍しい動物を探しているらしい。
そういえば叱られたとき、邪竜様が習俗を知るためにも人間の子供たちと遊べと言っていた。
丁度よいタイミングだ、とレーコは思い、ずいっと子供たちの群れに歩み寄る。
短剣を抜いて空にかざし、
「そこの人間の子供たち。私を遊戯の一員に加えて欲しい。そのドラドラというのを狩ればいい? 私に任せて欲しい。腕には自信がある」
子供たちがざわついた。
レーコは首を傾げる。おかしい、自然な物言いで誘ったはずだが、なぜ警戒されているのだろう。
野菜の切れっ端は何に使うのか分からないが、木の根っこはきっとチャンバラ棒の代わりだ。あれでドラドラとやらを叩いて追い詰めるつもりなのだ。
「あ、あのさ。違うよ。ドラドラを傷つけるなんて駄目だよ」
リーダー格らしい少年が言った言葉に、野菜の切れっ端の用途がひらめく。
「なるほど。傷つけたくない――つまり生け捕りにするのなら、その野菜はドラドラを誘き出す餌ということ。罠は落とし穴を掘る?」
「だから違うって! ドラドラは昨日からこの街に来てるドラゴンなんだ。野菜が好きで、とっても賢くて可愛いんだ。そんな風に虐めるつもりなんて全然ないよ」
そういうことか、とレーコは頷く。
ドラゴンにもいろいろいるらしい。邪竜様のように強大で偉大なものもいる一方、そんな風にトカゲに毛の生えたくらいの存在もいるのだ。
「分かった。私も一緒にそのドラドラを探す」
子供たちは不安げに目を見合わせていたが、心配はいらない。邪竜様から賜った能力、第三の目を開けば――駄目だ。
軽々しく力を使うことは禁じられている。
たかが遊びで使うなど論外である。
となれば頼るのは通常の五感のみ。目を閉じて耳を澄ませ、街中の音を拾う。人間や牛馬の足音は除外し、それ以外の特徴を持った足音を――
「これは」
聞き覚えのある足音を捉えて、レーコは眉をひそめた。
あってはならないはずの足音だったからだ。
「遊ぶのは少し待っていて欲しい。用事を済ませてくる」
「あっ、ちょっと」
短剣を抜いて、思いきり地を蹴る。全力よりはずいぶん遅いが、それでも景色がみるみる後ろに流れていく。
城壁代わりに張り巡らされた水路を何本も飛び越え、街の外周に向かう。その間に避難を促す半鐘が街の中に響いたようだったが、レーコには関係のないことだった。
石橋を渡って街の領域から出ると、すぐに目標のものが見えた。
警備兵の集団が騎乗したまま弓を構えて陣形を並べている。全員の視線が向く先に、そいつはいた。
「だから武器を構えるのはやめて欲しいッス。自分は街を襲いに来たんじゃないッス。戦うつもりなんてこれっぽっちもないッス。ただ今までの罪滅ぼしとして聖女さんにお詫びに……ってうわぁっ! 眷属の姐さん! ちちち違うんッス。自分は悪事を働きに来たわけじゃないッス。どうか、どうか話を聞いて欲しいッス!」
二度と人里を襲わず、故郷の森に帰ると誓っていた――いつかの三頭象がいた。




