3.居候・彼の秘密
白河家は両親に兄妹の四人家族だが、父親はよく海外出張に行くために家を空けている事が多い家庭である。
そのためという事もないのだろうが、夕飯は必ず家族三人で食べるというのが通例になっていた。
食卓の上にはスズメダイの塩焼きがメインとして鎮座している。
虎之助の母親曰く故郷の九州では別の呼び方があるという事らしいが、もう何度も聞いた話なので彼は完全に流していた。
「それじゃあいただきます」
「いただきます」
「いただきまーす」
母親――白河美雪(しらかわみゆき)の合図でしっかりと手を合わせてから食事に手を付ける。
虎之助は魚を頭からばりばり食べすすめ、二匹の内一匹を即座に口の中に放り込んでしまった。
「おにいって口に物を一杯含むの好きだよね」
「ふぉーふぁ?」
「こら。ちゃんと飲み込んでから話しなさい」
隣の小鳥からの突込みに軽く応じただけなのだが、虎之助は美雪に見咎められてたしなめられる。
年は四十を超えたところだが、小鳥の母親だけあって小柄な部類に入り、顔立ちも童顔であるために実年齢よりも若く見られる事が多い。
白河兄妹に並列思考能力を遺伝させた張本人であり、その能力は虎之助を遥かに上回っていた。
具体的に言うと、同時に二つか三つ、精度を落としてどうにか四つまでなら思考出来る虎之助に対し、彼女は精度を落とさず最低でも四つ以上の物事を同時に考える事が出来るのだ。
本人曰く大人になると日常生活で特に便利なものでもないという事だったが、四つ以上の物事を精度を落とさずに並列で考えるなど、虎之助には到底無理な領域だった。
「あ、そうだ母さん」
「なに?」
食事中にとある事を思い出した虎之助は、ちゃんと口に持っていた物を飲み込んでから美雪に話しかける。
話しかけられた彼女は、無造作に束ねた腰まで届く長い髪を揺らしながらちょこんと首を傾げてきた。こういう仕草は娘である小鳥にも受け継がれているものである。
「母さんってアドキャラ用の、もうあまり必要ない服とか持ってない?」
「アドキャラの服?」
「そうそう」
もともとは母親に打診するはずのものが妹に頼む事になったが、やはりいつまでも借りておくわけにもいかない。仮に長期間借りるにせよ、他にも何種類か用意しておかないとずっと同じ服というのもなんだと虎之助は思ったのだ。
「あ。そういえばおにいに服貸したままだったっけ」
「そうなの? ふうん。虎之助がアドキャラの話するのって珍しいわね」
「ちょっと必要に駆られる事があってさ。さしあたって二着ばかり貸しておいて欲しいんだけど」
場合によっては自分のお金で買う必要が出てくるだろう。どう考えてもあの家出少女はお金を持っていない。
放り出さずにしばらく付き合うとなれば、最低限の保証をしてやる必要が出てくるだろう。
「別に構わないけれど、好みの色とかデザインとかはないの?」
「んー、特別にはないかな」
鳳華には鳳華の好き嫌いがあるだろうが、さしあたってはどんなものであれ着てもらうより他にない。
元より、女子の服装など虎之助に分かりようがないのだから。
「今、おにいのアドキャラは黒髪のミニポニテになってるはずだから、どれでも適度に似合うと思うよ」
「そうねえ。あとで『ネーヴェ』に相談していくつか見繕っておくわ。データはメールでパソコンの方に送っておくから」
「ありがと母さん。助かる」
ぱんと手を合わせ、虎之助は美雪に頭を下げた。
ちなみにネーヴェというのは白銀の髪の毛と金色の瞳をした母親のアドキャラで、慎一郎のナタリアよりも若干年下の設定である。
なぜか美雪の趣味で漆黒の尖がり帽子に黒マントを着用しており、その風体はまさに魔女、もとい魔女のコスプレをした大学生くらいの女性という感じになっている。
「小鳥に借りたのは母さんからメール届いて着替えさせたら返しに行くよ」
「あ、うん。けど、別にしばらくはいいよ? 天鈴にしばらくは着ないだろうってものから選ばせたわけだしさ」
「いや、気持ちは嬉しいがセーラー服ってのがどうにもな。俺の趣味じゃなかった」
「えー……」
小鳥の中学校は女子の指定の制服がセーラー服であるため、それを否定されたような気分にでもなったのだろう。
彼女は箸の先をがしがし噛みながら「あと二年経てばブレザー」と虎之助には何の事だかわからない事を口走っていた。
「うし、ごちそうさま」
「お粗末様。服は洗い物が終わった後に選んで送るわね」
「分かった」
食器を流しに運び、虎之助はさっさとリビングを後にして自分の部屋に向かう。
時刻はちょうど八時半。慎一郎に連絡を入れなければならない時間帯だった。
「メール待つから今日は無理だな」
母親との約束をしてしまったため、この時間に仮想世界に行く事は出来ない。階段を上りながら慎一郎に送るメールをしたため、ポチリと送信ボタンを押す。
本来こう言った事もアドキャラを端末に入れておけば内容を伝えるだけでメール作成と送信までを代行してくれるのだが、虎之助はそこまで機械任せにするのもどうかと思っていた。
便利である事は否定しないが、この調子で行きつく先は古くから映画の題材になっているようなその場から一歩も動かない生活のような気がしてどうにも好かないのだ。
「これでよし、と」
ちゃんとメールが相手に届いた事を伝えるポップアップメッセージを確認し、虎之助は自分の部屋のドアの取っ手に手をかけようとして、
「う――……。へえ。虎之――ういうのが――だ。――。男――みんなこ――が好き――。パパ――マにこう――させてるし……」
「ん……?」
部屋の中から漏れ聞こえてくる誰かの声を耳にする。
現在部屋の中には鳳華しかいないはずなので、漏れてきているのは彼女の声に間違いないだろう。
だがドアの前に立たないと分からないとはいえ、廊下にまで聞こえてくる大きさで何かをしゃべっているのはいかにも不味い。彼がさっさと戻ってきたからいいものの、これで小鳥が勘付きでもしたら面倒な事になる。
「あの馬鹿……」
ドアの前で小さくため息を吐き、虎之助は音を立てないように慎重に取っ手を押し下げ、ゆっくりとドアを開いていく。
開いた隙間から覗くディスプレイではぺたりと座り込んだ鳳華が何やら本を読みながらしきりに言葉を漏らしており、興奮でもしているのか目を見開いて鼻をヒクヒクさせながら頬を染めていた。
「何やってんだ……?」
明らかに様子のおかしい鳳華を見て、虎之助は首を傾げた。
彼女の変化の原因があるとすればまず間違いなくその手に持っている本なのだろうが、虎之助はパソコンの中に本を入れた覚えなどない。本の類は全て電子書籍リーダーの方へ入れてあるからだ。
となると鳳華の持っているものは本であって本ではない物か、もしくは虎之助がリーダーに入れてない本という事になるわけで――
「っ! まさか――」
一つの可能性に思い至った虎之助は、それまで物音を立たせず息も殺していた隠密行動状態から一気に強襲行動に出た。
勢いよく開かれ、次の瞬間には閉められたドアの音に驚いた鳳華が虎之助を見て名前を呼ぶよりも早く彼はパソコンの前に到達。マウス操作ではなくタッチ操作で彼女の手にある本を掴むと、
「あ……」
有無を言わさず取り上げた。
彼女の手を離れた事により、見た目にも普通の本になっていた物が見慣れたアイコンの書籍データに戻る。同時にデータファイル名が表示され、そこには「メイドたちの秘密」という実にアレな文字列が踊っていた。
それは男子高校生ともなれば一つや二つ持っていても何の不思議もない代物であり、彼がパソコン内の奥の奥に鍵付きフォルダを作って厳重に秘匿していたはずのものだ。
加えて、その内容から趣味嗜好がばっちり分かる代物でもある。
ゆえにそれは他人に、それもどのような形であれ同年代の女の子に見られたら目も当てられない状況に陥ること必至のものでもあった。
「………………」
「………………」
部屋の中の空気が非常に気不味くてどうしようもないものへと変化する。
虎之助は鳳華から取り上げた書籍データを無言でフォルダの深奥にある鍵付きフォルダの中に放り込み、ついでに設定していたパスワードを変更した。
どうやったのか不明だが、破られてしまった以上は変更しておかなくてはならない。
それらの作業を終えると、虎之助は眼鏡を外しながらふらりとパソコンのそばを離れ、どさりとベッドの上にうつぶせに倒れ込んだ。枕に顔を埋め、このまま消えたい気分である。
「…………えっと、ご飯食べた後で暇だったからちょっとあれこれ調べてるうちにパスワードのかかったフォルダ見付けちゃって、中に何が入ってるのかなーって気になったから開けちゃって、開けたら中にこういうのがいっぱいあって――」
沈黙に耐えきれなくなったのか、すっかり赤味の引いた顔をした鳳華があせあせと言い訳を始めた。
その話を聞かされて、虎之助は自分がとんでもない事を失念していた事実に気が付く。
それは今、彼のパソコンの中にいるのがアドキャラではなく鳳華であるという事だ。彼女は自分の意思で自由に動き回る事が出来る。ゆえにしっかりとした釘の一つも刺さない状態では何をしでかしてもおかしくはなかったのだ。
大人しくしていろという言葉だけで、その興味を抑えられようはずもない。
「えっと、えっと……」
本人もテンパっているのか、ベッドに倒れて動かない虎之助を心配そうに見つつもこれ以上何を言っていいのか分からない様子である。
しかし、ふと何かを思いついたように「あ……」と口を開けたかと思うと、彼女は再び薄く頬を染めてもじもじとし始めた。
そうして少し躊躇った後で、
「……虎之助ってメイド好きな――」
「頼む! これ以上追い打ちをかけないでくれ!」
がばりと跳ね起きた虎之助は、即座にその場で土下座をして彼女に許しを請う。なんでそんな事をしたのか彼自身よく分かっていないのだが、ほとんど反射行動だった。
その行動に目を丸くして驚いていた鳳華だったが、すぐに我に返ってぶんぶんと首を横に振る。
「……えっと……だ、大丈夫だよ虎之助。こんなの普通だよ普通。わたしのパパもママにこういう格好させてるし、わたしとしてはメイド好きどんと来いっていうか――その……」
自分の理屈がおかしな事だと気が付き始めたのか、鳳華の語尾がごにょごにょと小さくなっていった。
出会ったばかりの女の子に隠していたエロ本を発見されてフォローを入れられる。それはいったい、どんな羞恥プレイだというのだろうか。
虎之助は恥ずかしさの余りまともにパソコンのディスプレイを見れない。
鳳華は鳳華で非常にばつが悪そうに身をよじらせていた。
再び重苦しい沈黙が部屋の中を支配していたのだが、
「あ、メールだ」
ふと何かに気が付いたように顔を上げた鳳華がそんな事を言い始めた。
「……メール?」
それに反応して虎之助も眼鏡をかけ直しつつ顔を上げ、彼女の方を見る。
「差出人は……Miyukiさん? これ、この家のローカルから送られてきてるよ」
「あ、そういえば母さんに頼んでたんだ。お前の服」
「え? 私の?」
驚いた様子の鳳華がばっと視線を虎之助に向けたため、
「う……」
「あ……」
二つの視線が見事に合う。それはほんの一瞬だけ維持されて、次の瞬間には双方ものすごい勢いで視線をそらしてしまった。
「……中身、確認してみてくれ。今着てるのは妹に返さないといけないから」
「う、うん。じゃあちょっと、中身確認して着替えてくるね」
互いに顔をそむけたまま会話をする。虎之助は相変わらず画面に背を向けたままだが、鳳華はそんな虎之助にちらりと視線を送ってから、一時的にディスプレイから姿を消した。
なんとなくの気配からそれを察した虎之助は、肩越しにちらりと誰もいないディスプレイを確認して、ばたりと仰向けにベッドに倒れ込む。
今日はゲームを含めいろんな事があり過ぎたせいか、脳がかなり疲れてしまっている。ベッドに寝っころがっているせいか徐々に瞼が重くなり、彼はそのままうとうとと居眠りを始めてしまった。
そうして時間の感覚が完全に消失してしまった頃になって、
「……虎之助?」
「んあ?」
自分の名前を呼ぶ声に反応して中途半端に意識を覚醒させ、虎之助はずれていた眼鏡を緩慢な動作で直しつつその声が聞こえた方向。すなわちパソコンのディスプイへ顔を向けて、
「っ……」
思わず息を飲んで固まった。
「どう……かな?」
少し恥ずかしそうにはにかんでいるのは間違いなく鳳華である。
しかしその服装は先ほどまでの赤いネクタイリボンがチャームポイントなセーラー服ではなく、なぜか虎之助の好みにドストライクなメイド服姿になっていた。
黒髪に映える純白のフリル付きカチューシャ。濃紺の素地にこれも純白のフリルが組み合わされた涼しげなパフスリーブのエプロンドレス。手首には白いカフスを身に着けており、その間に晒される素肌がいかにも健康的である。
ドレスの丈がやや短いせいかミニスカートの様になっており、そこからすらりと伸びる足は黒のオーバーニーソックスに包まれ、さらには魅惑的なガーターベルトまで完備されている状態だ。
寝ぼけて意識がはっきりしていなかったため、ほぼ不意打ちになった虎之助はかなりの衝撃を受けていた。そうしてじろじろ見るというよりは半ば呆けたようにじーっと鳳華を見つめ続ける。
「……えっと、その、あ、あんまり見つめられるとその……恥ずかしいよ……」
じっと向けられ続ける視線に羞恥心がオーバーフローし始めたのか、鳳華の顔がいよいよ赤味を増して行き、ぎゅっとエプロンドレスの裾を掴んで俯いてしまう。
そんな仕草もまた実に可愛らしくて、
「…………いいな」
虎之助は無意識のうちに感想を漏らしていた。
「え?」
「ん?」
その言葉に鳳華がうつむいていた顔を上げ、言った直後に意識を完全覚醒させた虎之助の疑問符が同時点灯する。
互いに視線を絡ませたまま身動きを止め、ややあってから二人とも顔をゆでだこの様に真っ赤にして――
「えっとえっと、と、虎之助にそう言ってもらえるのは嬉しいけど、ほ、ほほほらわたしたちってまだそういう関係には早いかなって思うし。で、でも虎之助がこういうの好きで、これが良いっていうんだったらこのままでも別に――」
「待て違う! いや、違わないけど違うんだ! 今のは服装が似合ってるってだけでそっちの意味はない!」
両手を頬に当ててふるふると身体ごと首を振る鳳華に対し、虎之助は支離滅裂な否定の言葉を口にしていた。
「ああパパ、ママ。わたしは今日、大人の階段を上るよ」
「いつの時代のボケだそれ! ってか勝手に上る覚悟決めるんじゃない!」
どうやら鳳華の方も自分で何を言っているのかよく分かっていないようだ。比喩的な意味合いだが、彼女の闇色の瞳の中で混乱がぐるぐると渦を巻いているのが虎之助には分かった。
「いいよ虎之助。わたしの初めては全部虎之助にあげるから」
「ちょっと待て。真面目にちょっと待て。落ち着け鳳華。そして帰ってこい」
物理的な次元の違いによって襲い掛かられる心配がないために比較的余裕はあるが、先ほどから彼女の声がどんどん大きくなっている。このままでは隣部屋にまで届きかねない。
いや、むしろもうすでに聞こえている可能性は十分にあった。エロ本騒動の時はまだリビングで食事中だったかもしれないが、この時間であれば確実に部屋にいるはずである。
そして虎之助のその予想は正しく、
「おにいうるさい! なに大きな声でしゃべってるの!?」
ノック無しに勢いよく開け放たれたドアの向こうに、プンすか怒り顔の小鳥が仁王立ちしていた。




