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消せない



「雲類鷲さん」


 その声で顔を上げなくても誰かわかった。

 なんでもないような表情で顔を上げて本を抱えている彼女に向かって微笑む。


「どうしたの? 浅海くん」

「……大丈夫ですか?」


 俯いていたからか、心配されているようだ。浅海さんに「大丈夫よ」と返すと、どこか寂しそうな表情で浅海さんが眉を下げる。


「ふたり以外に誰もいないので、壁だと思ってなんでも話してください」

「か、壁……」

「口外しません。約束します」


 ぐっと指先に力をいれて、携帯電話を握り締める。口に出したら、消すことを躊躇ってしまっていた理由が見つかるだろうか。情けないくらい弱気になっているみたいだ。



「消したいのに、消せないの」


 薄く開けた唇から吐き出されたのは、かっこ悪いくらい震えた声。私の声じゃないみたいだ。こんなに弱かったかしら。



「消さなくちゃって思うのに、どうしてできないのかしら。簡単にできるはずなのに」


 連絡先を消すだけだ。たったそれだけ。押すだけで終わるはずなのに、どうしてできないのだろう。



「それは消したくないからですよ」


 浅海さんは優しく穏やかな口調で言うと、私の握り締めた手にそっと触れる。



「大切なものは、そう簡単には消せないです」

「大切……?」


 連絡先を消せないのは、私があの人を大切だと思っているから? 夜に電話で話していた日々を消してしまいたくないから? 本当は……隣にいたかったの?


「変よ、そんなの……おかしいわ」

「これは壁の独り言なので、雲類鷲さんがどんな答えをだすかは自由ですよ」


 私の手に触れた浅海さんの指先は華奢で、少し体温が低くてひんやりとしている。やっぱり女の子の手だった。



「あまり力にはなれないかもしれませんが、なにかあったらいつでも頼ってください。いつだってこの手を貸します」


 それでも彼女は頼もしくてかっこいい友人だ。


「ありがとう。浅海くん」



 けれど、笑った顔はとても可愛くて、温かくて、沈んでいた心を彼女に掬い上げてもらった気がした。



 その日、私は登録していた名前を<瞳>から<雨宮譲>に変更した。

 もうかかってこないとわかっていても、消すことはやめた。


 そう決めると少し心が軽くなったと同時に胸がぎゅっと収縮するように苦しくなる。この気持ちも、変えることができればいいのにときつく目を閉じて願った。






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