初めてのわがまま
家に帰ると普段と中の空気が違っている。いつもはにこやかに「おかえりなさいませ」と言う使用人がどこかぎこちなくて、深刻な面持ちで立っていた。
「真莉亜様。奥様と旦那様、蒼様がお待ちです」
「え、どうかしたの?」
「学院でのことでお話があるそうです」
嫌な予感しかしない。カバンを使用人に預けてお母様たちが待つ部屋へと向かう。このタイミングで学院の件で呼び出しなんて一つしか思い浮かばない。
扉を開けるとソファに腰をかけているお父様とお母様が一斉にこちらへ視線を向けてきた。
どきりと心臓が跳ねて、一瞬怯んでしまう。お父様たちと向かい合うように座っている蒼の隣に座り、普段通りを装って微笑む。
「どうしたの? みんなしてそんな深刻そうな顔をして」
「……真莉亜さん。学院での噂の件、聞いたわ」
蒼は自ら話したりしないだろうし、伯母様かしら。それとも久世? 誰かはわからないけれど、余計なことをしてくれたわね。まったく。
「その問題は私に任せてください。これ以上大きくならないようにします」
瞳や天花寺たちも噂を沈静化させるために動いてくれると言ってくれていたし、英美李様ももう動かないだろう。
「ふたりが本当の姉弟ではないと知れ渡ってしまった以上は、今後はパーティーなどでも嫌な思いをする可能性もあるわ」
お母様は私と蒼に現状をきちんと把握させるために呼び出したんだ。学院でのことだけの問題ではない。
社交界などで会う大人たちからも好奇の目を向けられることや、嫌なことを言われることもあるはずだ。雲類鷲家の長男だと思っていた蒼が実は養子だったなんて、面白いネタが見つかったと喜ぶ連中もいるだろう。
「……ごめんなさい。この家に恩返しをするどころか迷惑をかけてしまって……」
「っどうして蒼が謝るのよ!」
「姉さん、俺は拾ってもらった身だよ。それなのに養子であることがこんな形で広まって雲類鷲家に泥を塗るようなことをしてしまった」
別に蒼が養子であることを隠していたわけじゃないはずだ。それなのに泥を塗るなんて、そんなことを思うはずがない。蒼はお母様の弟の息子だ。血だって繋がっていて、他人なんかじゃない。
「蒼、顔を上げなさい」
ずっと黙っていたお父様が静かに口を開いた。蒼はおそるおそるといった様子で顔を上げる。
「自分の名前を言ってみなさい」
「え……蒼、です」
「苗字もだ」
「…………雲類鷲、蒼です」
戸惑いながら言う蒼にお父様が笑顔になる。こんなにも柔らかで、幸せそうな表情を久しぶりに見た気がした。
「そうだ。だから、なにを言われても堂々としていなさい。お前には父と母が二人いるんだ」
「ええ、そうね。蒼さんの両親は亡くなったあの子達と、ここにいる私たちよ」
ああ、そうだ。幼い頃に私が嫉妬してしまっていたくらい蒼はお父様とお母様に大事にされている。努力家で心優しい蒼を本当に可愛がっているのだ。そんなお父様たちが雲類鷲家に泥を塗ったなんて思うはずがない。
蒼は下唇を噛み締めて、なにかに耐えるように手のひらをぎゅっと握りしめている。
「蒼?」
「俺は……ここにいても、いい……?」
微かに震えた声は消えそうなくらい小さかった。けれど、私たちにはしっかりと届いていて、顔を見合わせて笑う。
「当たり前じゃない! 蒼は私の自慢の弟よ」
握りしめた蒼の手の甲にぽたりと涙がこぼれ落ちた。いい子でいるようにと気を張って、押しつぶされそうな不安をいつも必死に隠していたのかもしれない。
「ありがとう……俺を、この家に置いてくれて。亡くなった両親のことも忘れないでいてくれて、本当に……っ」
蒼の髪を思いっきりくしゃくしゃにして、俯きがちになった顔を上げさせる。
「蒼のことを傷つけるやつらから、私が全力で守るわ! 嫌なことを言ってくる人がいたらすぐに言って!」
「……けど、姉さん危なっかしいから」
「どこが危なっかしいのよ!?」
困ったように笑った蒼の目から涙がぽろりと零れおちる。この笑顔を守っていきたい。大事な私の弟なのだから。
「蒼はもっとわがままを言っていいんだぞ」
「そうよ。いつも遠慮してばかりじゃない。わがままの一つや二つ言ってほしいわ」
そういえば私も蒼のわがままって聞いたことがないかもしれない。私はあれが欲しいとか小さい頃からわがまま放題だったけれど、蒼は誕生日のときも欲しいものは特にないって言う。
「え、そんな……わがままなんて」
「蒼、この機会に欲しいものがあれば言っちゃいなさい!」
文芸部に入っている蒼のことだ。欲しい本の一冊や二冊あるだろう。そう思って悩んでいる蒼の横顔をじっと見つめること約十秒。
なにかを思いついた様子の蒼が少し恥ずかしそうに俯いた。
「えっと……その」
「なに? 教えて」
「い、犬が……飼いたい。……ダメじゃなかったら」
その瞬間、雲類鷲家に稲妻のような衝撃が走った。
蒼がようやく言ったわがままが『犬が飼いたい』。恥ずかしそうで、どこか不安げなその表情は心が浄化されるレベルで可愛らしかった。
お父様がどこかに電話をし始める。お母様は立ち上がり、使用人たちに「犬の図鑑を持ってきて!」と声を上げる。
私は戸惑っている蒼の肩を掴み、「小型犬か、大型犬どっち!?」と希望を聞き出す。
「え、いや、え!?」
「犬種は!?」
「えっ」
蒼の初めてのわがままは、雲類鷲家にとっての大事件となり、家の者たち総動員で蒼が希望する犬を探すことになったのだった。




