ほんの少し、近く
医務室に着くと、ちょうど先生が中から出てきたところだった。今から職員室へ行ってしまうということだったので、事情を伝えて許可を貰って雨宮と室内へと入る。
「滲みる?」
血がにじんでいる手に消毒液を垂らし、耐えるように眉根を寄せた雨宮の顔を覗き込む。
「少し。けど、我慢できる程度だから大丈夫」
鼻を掠める消毒液の匂いが懐かしい。
前世では中学生の頃に部活で生傷を作るたびに保健室で消毒してもらっていた。女の子なんだからあんまり傷を作らないようにしなさいなんて先生に言われていたけど、膝にできた傷はなかなか消えなくて心配されてたっけ。けど、それも高校生で人生を終えた前世の私には関係なくなってしまった。
「……前世の貴方はどんな人だったの?」
「んー、全てにおいて平均って感じだった。できのいい兄よりも劣っていて親にはよくそのことを言われていた、かな。そういう部分は今の俺とも似ているかも」
雨宮が寂しげに微笑んだように見えた。
私も少し似ているかもしれない。虚しいことに特に秀でたものはなかったんだよね。それに周りに置いて行かれないように必死に流行を追いかけていて、勉強そっちのけだったから、妹よりも学力が低くて親からはそのことに関してよく言われていた。
「だからかな。俺は案外今の自分の環境も受け入れられているよ」
「それは我慢ができるということであって、傷ついていないということではないわよね」
「……そりゃあ、貶されるのは嫌だよ。できれば家の人に会いたくはないし、嫌味をのらりくらりとかわして反感をかわないように常に気をつけてるから疲れる」
雨宮の表情に影が落ちような気がして、つかみどころのなかった彼の本音にやっと触れられた気がした。
「だけどさ、正直ちょっと嬉しかったんだ。自分以外に前世を持っている人と出会えたとき。雨宮譲以外の記憶があって妄想じゃないか、頭がおかしいんじゃないかって悩んだこともあったから」
「……脅すようなやり方をしたのに」
思い返すと結構強引なことをしてしまったよなぁ。あんな状況で雨宮もよく協力するなんて言ったよね。
「うん、それはびっくりだったけどねー。まさか録音しているなんてねー」
「うっ」
「でもこうして秘密を共有できる相手がいてよかったよ」
「……私も貴方がいてくれて心強いわ」
前世を持っているなんておかしな話で、自分の妄想なんじゃないか、おかしいんじゃないかって悩む気持ちはわかる。こうして自分を殺そうとしている人物と向かい合っていくのも私一人では精神的に参ってしまっていたかもしれない。
「……桜の花びらが地面に落ちる前に掴まえることができるといいことがあるって本当だったね」
「桜の花びら?」
「中等部の卒業式の日、君が言っていたでしょ」
そうだ。桜の木のところで雨宮と会ったときに話した。前世で小学生の頃によくしていた遊びだ。桜の花びらが地面に落ちる前に掴む、桜キャッチ。それができるといいことがある。そんな子どもの遊び。
「覚えていたのね」
あのとき、雨宮は寂しげに微笑んでいた。家のことで悩んでいたのか、前世の記憶のことで悩んでいたのかわからないけれど。
「ねえ、私の前では自分を抑えたりしないでね」
私と雨宮の関係は協力者でしかない。だけど、だからこそ話せることがあるのではないかと思う。
「……雲類鷲さんは俺を甘やかしすぎだよ。そんな優しくされていい人間じゃないよ。家族に対してだって、相手によって態度を変えるようなずるいやつだよ」
「腹黒なのはとっくに知っているわよ。別にいいじゃない。人と上手くやっていくには仕方のないことよ。誰に対しても同じ態度なんて、私もできないわよ」
クラスメイトに見せる顔、親しい友人に見せる顔、家族に見せる顔。それぞれ違っていてもおかしなことではない。それにみんなに同じ態度なんてそんなことできる人なんていないんじゃないかしら。
「特に私なんて、学院の人たちの前では猫被りまくりよ? まあ、あなたは知っていると思うけど」
花ノ姫の紅薔薇の素顔を知られたら幻滅されるでしょうね。花ノ姫である者は憧れでいるべきだと考えている人も多いし。
「ねえ、雲類鷲さん」
「なに?」
椅子に座っている雨宮と視線の位置がいつもよりも近くなる。彼の目は真剣だった。
「俺は君に死んでほしくないから犯人のこと本気で捜すよ」
いつものおちゃらけた口調ではなくて、はっきりとした声で本気なのだということが伝わってくる。
最初はおもしろそうだから手伝うって感じだったのに不思議だ。少しずつ私たちの関係も変化している。こうやって親しくなるなんて思いもしなかったわ。
「……私だって嫌だわ。殺されるなんて」
無事に高校生活を終えたい。みんなと過ごす日常を失いたくなんてない。そのためには怖くても、犯人を捜して阻止しないと。
「手当て、ありがとう」
絆創膏を貼った手を掲げて、子どもみたいに嬉しそうに笑う雨宮につられて私も微笑んでしまう。
「やっぱり君は笑顔がいいね」
ほんの一瞬頬に触れた雨宮の手に驚いて肩が跳ねる。私よりも温度の高い手が先日の放課後を思い出させた。
「……急になによ」
「顔赤いよ?」
「あ、赤くなんてなってない!」
笑い出す雨宮を睨みつけて、乱暴に消毒液を押し付けた。その行動すらも雨宮にとっては面白いのか「ごめんごめん」なんて謝りながらも顔が笑っている。
「先に戻るわ!」
頬が熱いのを感じながらも、雨宮を残して医務室から出た。指先が触れられたくらいで赤くなっているわけない。ただちょっと今日は体温が高いだけだ。




