薔薇の反撃
水谷川スミレ視点
放課後、真莉亜に言われた通りのメッセージを送り、カウンセリングルームに行った。今日は誰もいない。————誰もいないようにしたから、いるはずなんてない。
真莉亜曰く、今日は水曜日だから好都合らしい。
誰が犯人なのかは知らされていないけれど、真莉亜には犯人がわかっているみたいだった。
あらかじめ渡された薔薇のブローチを胸元につけて、準備は終わり。
『これはお守りよ。きっとスミレの助けになるわ』
そう言って真莉亜が貸してくれた。
誰が来るのかわからない。盗撮をしていた犯人が信頼している人だったらどうしよう。もしも身近な人だったらと考えると怖くなる。全く知らない人の方がずっとマシだ。
緊張と恐怖で指先が冷たくなって、鼓動が速くなっていくのを感じて呼吸が浅くなる。深呼吸をして心を落ち着かせようとしても、ちょっとした音に過敏に反応をしてしまう。
やるって決めたんだから、逃げるわけにはいかない。きちんと向き合って、終わらせないと。大丈夫。一人じゃない。叫べば待機してくれているみんなが来てくれるんだ。
恐怖を顔に出してしまえば相手は警戒してしまうから、できるだけ恐怖を取り除いていないと。
窓際に立って、外を眺めているとカウンセリングルームのドアが開いた。ゆっくりと息を吐いてから振り返ると、そこにはここの学院の生徒であれば一度は目にしたことがある人物が立っていた。
「水谷川さん」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
嫌な汗が背中を伝う。
信じたくなかった。男子生徒が犯人であったほうがまだマシだった。
他に人がいないか確認したその人物は、優しい笑顔の仮面をつけて近寄ってくる。
「……貴方が画像を送ってきた犯人なの?」
メッセージに書いたのは『貴方に会いたい。カウンセリングルームで待ってます』という文章。真莉亜から聞かされているのは、作戦の一部だけだから誰が来るのかはわからない。ひょっとしたら警戒してこないかもしれない。そう思っていた。
この人のことはあまり関心がなくても知っている。女子生徒から人気で、中等部の頃から騒がれていた。人当たりも良くて、気さくな人。けれど、裏では生徒の写真を撮って送りつけて、楽しんでいたなんて思いもしなかった。
「一木先生」
名前を呼ぶと嬉しそうに口元を緩めた一木先生に嫌悪感を抱く。バレても焦っていない。むしろ気づかれたことが嬉しそうだ。
ねっとりとした気持ち悪い視線を注がれて、全身が粟立つ。
「……なんのことかな」
まずい。怖がっていることが伝わってしまった。会いたかったから嬉しい。そういうフリをするって作戦だったのに。この様子ではこの人は認めない。
「い、いや……来ないで」
「落ち着いて、水谷川さん」
表情では肯定しているように見えても言葉では認めていない。証拠なんてない。いくらでも逃げ切れる。そう思っているのかもしれない。どうすれば自白させることができるんだろう。作戦が台無しになってしまった。
「それよりもなにか困っていることでもあったのかな。すごく浮かない顔をしているよ」
「こ、来ないで!」
「いやだな、僕は君の力になりたいんだ。大丈夫。誰にも言わないから。なんでも僕に話して」
そんなことを言いつつも薄ら笑いを浮かべながら、下心をチラつかせて距離を詰めてくる。伸ばされた腕から逃げるように身を引いても、すぐに捕らえられてしまった。腕を掴む力が異様に強くて、恐怖に身体が震える。
「顔色が悪いよ。水谷川さん」
怖い。気持ち悪い。嫌だ。触らないで。近づかないで。そんな目で見ないで。先生なのに、生徒に教える立場のくせにどうしてこんなことするの……?
「やっぱり具合が悪いんじゃないかな」
「や……っ」
パフッという力の抜けるような音がして、私の腕を掴んだ一木先生の力が弱まった。その隙に腕を振り払って、距離をとる。
「そこまでよ!」
大きな音を立てて、カウンセリングルームの灰色の棚の上段が勢い良く開かれる。まさか生徒がそこに隠れていたとは思いもしなかったのだろう。一木先生は唖然としている。
「か弱い女子高生の腕を掴んで、強引に密着している変態教師! 証拠写真はバッチリ撮ったわ」
上段の棚から飛び降りるように着地をした女子生徒は、スミレと一木先生の間に立った。彼女の姿を目にした瞬間、全身に鳥肌が立つくらいの衝撃が走る。令嬢らしくない登場の仕方は彼女らしくて、まるで漫画の中のヒーローみたいにカッコよく見える。
「もう逃げられないわよ」
艶やかな長い黒髪に血色のいい紅い唇。意志の強そうな瞳を縁取る長い睫毛。花ノ宮学院の生徒の中でも、高嶺の花と言われている彼女は強く気高く美しい。
決して盗撮魔である一木先生に臆することなく、堂々と立ち向かっていく。彼女は守られる花ではない。近づかせない。摘ませない。凛とした一輪の花。
「逃げる? 何を言っているんだ? 僕は偶然ここに来ただけだよ」
「偶然ここにくるなんてことありえないわ。ここへ来ることは教師たちの間では禁止されているはずよ」
真莉亜はスミレを守るように片腕を広げて、鋭い視線で一木先生を睨みつける。
どうやらここへ来ることを禁止されている理由は、カウセリングルーム通いという桐生景人に関係しているみたいだった。よくわからないけれど、彼の存在は生徒たちには隠されているらしい。
「桐生くんのことが心配になって覗きに来ただけだよ」
「あら? 先ほどは偶然とおっしゃっていましたよね」
「君が桐生景人くんのことを知っていると思わなかったからね。君はなにか勘違いしているよ」
一木先生は認めるつもりはないらしく、余裕のある口調であくまで真莉亜の誤解であると話している。けれど、先ほど二人で話していたときのあの眼差しで確信した。この人が犯人だ。向けてきた眼差しは教師としてではなくて、男としてのものだった。思い出すだけで、寒気がするくらいゾッとする嫌なものだわ。
「スミレに送られてきた画像の中で、放課後に撮られているのは水曜日だけです。それが何故だかわかりますか」
「さあ、知らないな」
「テニス部の部活動が休みの日だからです」
「へえ。でも、僕には関係のないことだよ」
「そうですわよねぇ」
真莉亜は口元に手を添えて、くすくすと笑い出す。その笑みは恐ろしいくらい綺麗で、残酷なほど冷たかった。
「あーんな、私利私欲の塊の盗撮が先生のわけないですよねぇ。一方通行で相手の気持ちを考えない独りよがりな勘違い男の気持ち悪さが滲み出ていましたし。あんなの純粋な恋ではないですわよね。決して実らない不純で汚らわしい恋ですわ」
驚くほど饒舌な真莉亜は、微笑みを浮かべたまま一木先生の表情をうかがいながら話を続ける。
「ああ、そもそも恋でもないのかもしれませんわ。だって、普通なら、盗撮なんてしませんものね。身勝手な欲を満たしたいだけだわ。スミレもとっても迷惑していましたの」
「……迷惑」
「ええ、スミレには心に決めた人がいるのに好きでもない、むしろ迷惑な相手に付きまとわれたら嫌に決まっていますわ」
「心に決めた人?」
一木先生の様子が明らかにおかしい。目が泳いでいて、頭をガシガシと掻いて指先が震えている。
「あら、ご存じありませんでした?」
「もしかして……君の弟が、その相手なのか」
掠れていて聞き取りにくかったけれど、確かに聞こえた。
君の弟というのは、蒼くんのことだろう。ちょうど今日送られてきたメッセージには、蒼くんのことを聞いてくる内容が書いてあった。もちろん真莉亜の言っている心に決めた人というのは、彼女が作った嘘だけれど一木先生を動揺させるには効果的だったみたいだ。
「……いって……じゃないか」
「なんですか?」
「会いたいって、言ったじゃないか……」
「貴方にスミレが?」
一木先生は血相を変えて、目を大きく見開いてこちらを見つめてくる。恐ろしいくらいの怒りで塗りつぶされた表情に身を強張らせる。今にも襲いかかってきそうなほどで、真莉亜がそっとスミレの身体を後ろに押した。
「ああ、言ったじゃないか! っそれなのにどうして別の男を見てるんだ!! 画像を送っていたのがキモい男だったら、嫌かもしれないが僕だぞ!? むしろ好かれて嫌がる女子生徒なんていない!」
「都合のいい自惚れね」
真莉亜の言葉には聞く耳を持たず、一木先生はスミレに向かって叫ぶように怒鳴りつけてくる。
「っ本当はいつもメッセージが来て、気になっていたんだろう? 関心が湧いたんだろう? それであんなメッセージを」
「ねえ、先生。それって自分が犯人だって肯定してしまっていますよ」
真莉亜は目を細めて、一木先生の胸ぐらを掴むと耳元でそっと囁く。
「〝貴方に会いたい〟って言われて、期待しました? 残念ながら、会いたいは恋しいからという意味だけではありませんわよ。————馬鹿な人」
それはぞくり背筋を撫でるように甘く冷たい声だった。普段の真莉亜からは想像がつかないほどの豹変ぶりに、スミレまで驚いてしまう。これも彼女の作戦の内なの?
「……僕はただ、彼女が、人形みたいに綺麗な彼女を見ていたかったから、だから、それで……なんで、こんなことに……」
人形みたい、か。そう言われるのは、幼い頃からずっとだったから、慣れてしまった。一木先生は、内面に惹かれたわけれはなくて、外見に惹かれただけ。きっとスミレ自体には興味がないんだと思う。
「写真の中に閉じ込めるのが楽しくて、それで……」
「も、もう聞きたくありません。二度とこういうことをしないでください! 誰かに見られているのかと思うと、ずっと怖かったんです! き、教師として恥ずかしくないんですか? 生徒の写真を盗撮しているだなんて!」
誰かに見られて、盗撮されているかと思うと恐怖に精神を削られていった。送られてくるたびに、怯えていた気持ちなんてこの人にわかるはずない。自分の欲のためにこんなことをしたなんて、被害者としても女としても許すことはできない。教師としても人としても最低だ。
一木先生は項垂れると、その場にへたり込んでしまった。これで先生がわかってくれたのかは微妙なところだ。真莉亜は「後は任せて」と言うと、カウンセリングルームから先に出るようにと促してきた。
「で、でも真莉亜は?」
「私は大丈夫。外に瞳たちが待機しているから、合流して。少しだけ話をしたら、私もすぐに出るわ」
こんな人と二人っきりになるなんて危険じゃないかと外に出ることを躊躇ったけれど、真莉亜は有無を言わせず外へと追い出して、ドアを閉めようとしたので咄嗟にその手を止める。
彼女には彼女なりの考えがあるのかもしれない。だから、せめてなにかあったら叫んでと言うと、借りていた薔薇のブローチを真莉亜が手に取り「これがあれば大丈夫よ」といつも通りの笑顔を見せた。




