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お腹を空かせた令嬢



「え?」


 男の子が不思議そうに振り向き、こちらに視線を向けてくる。私と目があうと、驚いた様子で声を上げて立ち上がった。


「だれ?」


 そうなりますよね。すみません。

 恥ずかしさで今にも逃げてしまいたいけれど、音を鳴らした犯人、腹部をぐっと抑えながらドアを開けて中へと入る。


「あの、すみません。いい匂いがしたのでつい……覗いてしまいました」

「へ? ……ああ、これかな」


 彼はカップに注がれたお味噌汁らしきものを見て、首を傾げた。あのいい匂いの正体はお味噌汁だったのか。なるほど。側に黒い水筒が置いてあるので、おそらくは家から持たされたのだろうけど、それにしてもお坊ちゃんがお味噌汁持ってくるって意外だ。


「よかったら一緒に食べる?」

「え!」

「これ、結構量があるんだ」


 ふわりと微笑んだ彼は控えめで優しい雰囲気を醸し出している。制服が高等部だけど、こんな人いたかな。顔も整っていて確実に目立っていそうだし。


「いえ、大丈夫ですわ。ありがとうございます」

「そう?」


 さすがに悪いと思って断ったけれど、再び腹の虫がグギュウウウ!と暴れだす。お願いだから、ちょっとおとなしくしてて!


 しっかりお腹の音は聞かれてしまったようで肩を震わせながら笑われている。


「あの、これは、その……」

「お腹空いているなら一緒に食べようよ」


 恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じながらも、言い訳も思いつかないのでここは素直にいただくことにした。



「そこ座って?」


 彼の目の前の席に腰をかけると、「まだ箸は口つけていないから」と言ってお箸を私に貸してくれた。しかも、お箸は一膳しかないようで彼は二人だけだからいいよねと微笑んで手でつまんでいる。お行儀悪いことをさせてしまって申し訳ない。けど、ものすごくいい人だ。


 それにしても、よく知らない男の子と向かい合って重箱をつついているなんて不思議すぎる。



「名前、聞いてもいいかな」

「雲類鷲真莉亜と申します」

「そっか、君が雲類鷲さんなんだ」


 なにやら私のことを知っているような口ぶりだ。あ、この出し巻き卵おいしい。お上品な味付けは薄味派の私にはかなり好みだ。あと肉じゃがも美味しいなぁ。和食最高だ。


「あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

「ごめん、名乗っていなかったね、桐生景人きりゅう けいとです」

「桐生……?」


 聞き覚えのある苗字に眉をひそめると、目の前の彼は付け足すように言った。


「拓人の兄です」


 見覚えがある気がしたのは、どことなく顔のパーツが桐生と似ていたからだ。桐生は笑わないし、表情や口調は全く違うからうまく結びつかなかったんだ。

 いっつも仏頂面をしているあの桐生のお兄さんがこんなに優しい人だなんて。……ん? いや、待てよ。桐生のお兄さんって確か原作でちょろっと出てたよ。


 浅海さんが幽霊と噂されている人物と遭遇したときに出会っていた。〝わけあり〟のカウンセリングルーム登校のお兄さんだ。

 手のひらに汗が滲み、顔が引きつる。私はヤバイ人に関わってしまったかもしれない。すっかり忘れてて、今更思い出した。


 桐生の一つ上の兄の景人は、不登校で留年してしまったため今は一年生だ。



「拓人、失礼なことしてない?」

「いえ……」


 失礼なことというか、腹立つことされまくってますよ。おたくの弟さんにね。


「拓人はね、いつも仏頂面だけど本当は優しいんだ。僕はちょっと病弱であまり学校に通えていなくて、いつも迷惑かけてしまっているんだけど、嫌な顔せずに僕の代わりに色々としてくれるんだ」


 雨宮よりももっと胡散臭くていい人オーラ全開の笑顔。よくもまあ、こんな演技ができるものだわ。彼が誰なのか結びついてしまった私にとって、もう彼の笑顔は作られたものにしか見えない。


 どうやら私はヒロイン(浅海さん)のイベントを横取りしてしまったみたいだ。原作だと桐生兄弟の問題に浅海さんが巻き込まれる。そして、最終的には兄である桐生景人も浅海さんを気に入っていた。

 ……この人、犯人じゃないよね? 浅海さんを気に入ったとはいえ、意地悪をしている真莉亜を殺すまではしないと思いたい。


「確か君にも弟がいたよね?」

「え……はい」


 急に蒼の話になり、箸を止めて視線を上げると景人が微笑みかけてきた。

 顔が引きつりそうになるのを必死に堪えて、「それがなにかしら」という意味をこめて微笑み返す。


 留年しているとはいえ、もともと一学年上であまり学校に顔を出さず、人と交流をほとんどしていない景人と蒼に接点があるようには思えないんだけどな。


「仲は良いの?」

「良い方だと私は思っていますわ」

「そう。羨ましいな」


 どうも本音で言っているようには感じない。一体、この男は何が狙いなのだろう。


「幼い頃、親族が君の家のことを話しているのを偶然聞いてしまったことがあってね」


 その言葉で彼が何を言おうとしているのか察した。

 つまりは、〝本当〟の姉弟じゃなくても仲が良いなんて羨ましいと言いたいのだろう。そして、その裏側に隠された意味は彼の性格を知っている私にはわかってしまう。


「貴方がここにいることを誰にも言うなということですね」

「そんな脅すつもりはないんだけど、内緒にしてくれると有り難いかな。彼だって学院の人に〝正統な〟雲類鷲家の息子ではないなんて知られたくないだろうし」


 何が脅すつもりはないだ。蒼と本当の姉弟じゃないということを内緒にしてほしければ、黙っていろってことでしょう。


「あ、それと君と弟くんの件は、拓人も知らないはずだよ。暗黙の了解っていうのかな、君たちのことは大人達があまり触れないようにしてるみたい」


 それに貴方は触れてきて脅してきたんですけどね。

 まあ、妙な噂を流せば雲類鷲家に睨まれることはわかっているだろうから、そんなことする人はほとんどいないみたいだけど、裏でこそこそ話す大人もいるんだろうな。けど、学院の生徒は私と蒼が義理の姉弟だということを知っている人は少ないはず。


「景人様」


 別にこの人がここにいることを言いふらす気なんてない。けど、脅しの道具として蒼との関係を使ってきたことは一番気にくわない。


「貴方がおっしゃっているのは本心ですか」

「……君にはどう見える?」


 試すように景人が口角を片方あげて頬杖をついた。


「先ほどから無理して綺麗な言葉を並べているように見えます」

「へえ」

「ここにいることを広めれば、お前が秘密にしておいてほしいことも広めるって仰りたいのでしょう」


 私のことをじっと見つめている景人から目を逸らさずに続きを吐き出す。


「言えばいいじゃないですか。桐生拓人のこともわざとらしく褒めてないで、馬鹿な弟だって。貴方が投げ出したものを全て背負わされて、逃げずに耐えているのでしょう」


 景人の目が警戒するようにわずかに細められる。

 本当は関わらない気だった。でも、桐生拓人には借りがあることを思い出してしまった。私がプールで溺れて、もうダメかもと思ったときに桐生は水に飛び込んで助けてくれた。その恩はきちんと返さないといけない。

 自らぶんどってしまったイベントをきっちりこなしてやろうじゃない!


「君は僕らのことをなにか知っているの?」

「いいえ、なにも知りませんよ」


 原作の知識以外はね。この世界がどこまで忠実なのかはわからない。でもきっとこの人は猫を被っている。瞳に宿った鋭い光が本当の彼が温厚ではないことを物語っているように見える。

 話しているとだんだん思い出していく。原作の三巻あたりで触れられていた桐生兄弟の話。そこまで深くは触れられなかったけれど、桐生が仏頂面なのは兄のことがあったからと天花寺が主人公に話すんだ。


「それとここに出入りしている〝幽霊〟はあなたに会いに来ていますね」

「お腹を空かせてやってきた子が、こんな怖い子だとは思わなかった」

「私もいい匂いにつられてやってきたら、こんな恐ろしい人が待っていたなんて思わなかったわ」


 景人は不敵に微笑んで腕を組んだ。威圧感のある鋭い視線が私を射抜き、必死に震えそうな手を抑え込む。

 こ、怖くないし。へっちゃらだし。むしろかかってこいだし。


「アンタの言う通り、馬鹿な弟だよ。俺が嫌になって投げ出したことを、アイツは全部背負わされている」

「病弱であまり学校に通えていないというのも嘘ですよね」

「小学校の頃は本当に嫌でたまらなくて引きこもってたけど、中学からは抜け出して遊び歩いちゃってさ。高校では出席日数が足りなくなって、親に戒めとして留年させられちゃった」


 桐生の家ならお金を積めばおそらくは進級ができるはずだ。けれど、桐生の両親もこのまま好き放題させるのはまずいと思っていたのだろう。原作でも、この人は夜に遊び歩いているような人だったはず。


「カウンセリングルーム登校でもいいから、とりあえず三年間出席日数を満たすくらい通って、テストもしっかり受ければ、好き放題遊んでいいって条件出されちゃってさ。それを飲まないと、色々面倒な制約つけられそうだったから仕方なく飲んだんだよね」

「で、監視しているのが〝幽霊〟ということですか」

「アイツは、拓人のためにしてるだけだよ。くだらない馬鹿なやつ」


 そんなことを言いながらも〝幽霊〟のことを嫌っていないのは、言葉の端々から感じ取れる。むしろ〝幽霊〟がいるから彼は両親に従い、ここに通っているのだ。

 そして、〝幽霊〟はきっとここに近づきそうな人がいたら追い払っていたのだろう。彼を誰にも見られないように隠すために。


「で、理事長の姪として僕をどうにかしたいわけ?」

「そちらの家の問題とやり方に特に口を出す気はございません」

「そうだろうな。アンタ、僕に興味なさそう」

「ええ、ないです。ですが、空腹な私に美味しいご飯を分け与えてくれたご恩があります」


 私のことを追い返すことだってできたはずだ。それなのにこの人はそれをしなかった。前世の記憶がある私だからこそ知っている桐生兄弟の関係がある。私が知っている通りなら、桐生景人はまだ本当の気持ちを隠している。


「ですので、ここにいることは広めたりしません」

「アンタ、変な人だね。お弁当分けたことってそんなに大事なこと?」

「当然です!」


 大事でしょうが! 空腹でふらふらしてたんだから! 作ってもらえる有り難みわかってないな、このお坊っちゃま。しかも、分けてもらったご飯は物凄く美味しかった。もっとください。


「じゃあさ、もう一つだけお願い聞いてくれない?」

「え?」

「————てよ」

「はい?」


 なんて難しいことを言ってくるんだ、この男。

 顔を引きつらせた私を楽しげに眺めながら、「できなかったら、お腹鳴らした雲類鷲家の令嬢が東校舎三階を彷徨いているっていう噂が流れるかもしれないな」と恐ろしいことを言ってきやがった。




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