彼女が口にしたタイトル
あの後、替えの制服を借りて一足早く帰宅した。午後になり、スミレから借りた『初恋想』を読もうかなとカバンから取り出したところで、思わぬ訪問者が現れた。
今にも泣き出しそうだったので、他の人に話を聞かれない方がいいと思い私の部屋に通すと、彼女はカバンを握りしめたまま深々と頭を下げた。
「真莉亜様、申し訳ございませんでした!」
希乃愛は声を張り上げて謝罪をすると、そのままずっと頭を下げている。微かに肩が震えていて、いたたまれなくなりそっと肩に手を触れた。
「希乃愛、頭を上げて」
「私……っ、真莉亜様を疑ってしまうなんて。それにあのあとプールに落ちたと聞きました。本当に申し訳ございません」
ぽたりぽたりと涙が溢れ出したようで床に大きな雫が落ちていく。
「ええっと……泣かないで? 私なら大丈夫よ」
あのとき、二階にいたのが希乃愛ではないかと思ったけれど、瞳に聞いたところ彼女には終業式に出るように言ったそうなので、おそらくあの場にいた女子生徒は彼女ではない。ということは、私たち以外に何故かあの場にいた人間がいるということだ。もしかしたら、その人物が今回の件に関わっているのかもしれない。
「確かにプールに落ちたことは災難だったけれど、妙なデマが広まっていると知れてよかったわ」
「真莉亜様……っ」
顔を上げた希乃愛の頬には涙の筋ができていて、それをポケットから出したハンカチで拭う。なんか私、お嬢様っぽい。少し浮かれて緩みかけた頬を引き締めて、眉根を寄せる。
「それにしても誰がデマを流しているのかしら」
「私にもわからないんです。なにかわかり次第真莉亜様にご報告いたします」
「ありがとう。けれど、無理はしないでね」
「はい!」
中等部の知り合いは花ノ姫関連でいるものの、今回は花ノ姫ではない子達の間で流れたデマのようなので希乃愛から情報を得られるのは有難い。
一体誰がなんのためにこんなデマを流しているんだか。
「そういえば、真莉亜様は浅海先輩とは仲がよろしいのですか」
「同じクラスで時々お話をするわ」
友達と言っていいものなのか少し悩む。私は彼女の秘密を知っているし、時折スミレたちと一緒に放課後を過ごすことはあるけれど、一対一で話すことはあまりないのだ。
それに私としては友達の一人と答えたいけれど、浅海さんが私のことをどう思ってくれているのかがわからないしなぁ。
「その、浅海先輩は特待生なんですよね」
「ええ」
おそらく希乃愛からしてみたら庶民である浅海さんを前までの真莉亜なら蔑んでいそうなので、噂がデマで嫌っていないことが意外なのだろう。それもそれで酷いとは思うけれど、以前の真莉亜なら確実にそうだろうからなんとも言えない。
「優しい方よ」
「そうなのですね。なんだか真莉亜様、変わられましたね」
きょとんとした様子でつぶやくように言った希乃愛に対して微苦笑を浮かべる。
変わった理由を説明できない。言ったところでおかしくなってしまったと思われるだろう。けれど、変わったと言われるのはいいことだ。以前の真莉亜のままだったら確実に原作の道を歩んでいるだろうし、今回事件が起きてしまったけれど全てが原作通りというわけではなかった。きっと私の行動次第で未来は変えていけるはずだ。
「あ……お電話みたいですよ」
希乃愛の指差す方向に視線を向けると、ベッドの上で振動している携帯電話が目に止まった。受話器のマークと『瞳』という名が浮かび上がっているのを確認した瞬間、心臓が跳ね上がり、額にじわりと嫌な汗をかく。
「出なくてよろしいのですか?」
「あとでかけなおすわ」
希乃愛に怪しまれないようにいつも通りの微笑みを心がける。
今出たらまずい。まさかこのタイミングで電話をかけてくるとは思わなくて、心臓に悪いよ。けれど、『瞳』と登録した過去の自分に感謝だ。
「あら……真莉亜様もそれを」
「え? ああ、初恋想のことかしら。スミレに貸してもらったのよ」
「今人気のようですね」
どうやら高等部だけでなく中等部にも人気のようだ。スミレ効果もあるだろうけれど。
それに普段は日の目を見ない文芸部が一気に注目を浴びて、過去の作品も読みたがっている人も多いらしい。初恋想は何人かでテーマを決めて書いた短編集なので、お気に入りの人ができるとその人の過去の作品も読みたくなるとかスミレと浅海さんが言っていたな。
「真莉亜様はもう読まれました?」
「まだよ。これから読もうと思っているの」
「そうですか。私は有罪のメシアと月光の少女が好きでしたわ」
希乃愛はすでに読んでいるようで思い出すように視線を上げて微笑んだ。彼女が口にしたタイトルは私が気になっていた一つが入っていたので、その作品から読んでみよう。気になっていた理由は別にあるのだけど、おもしろいのなら楽しみだ。
「真莉亜様はレケナウルティアを知っていますか」
「れけな……?」
なんだって? 初めて聞いた言葉で首を傾げる私を見て、希乃愛がいっそう笑みを深くした。
「レケナウルティアという花の名前の短編がこの冊子のどこかの号にあったはずなのですが、それも私はお気に入りです」
「今度探してみるわね」
そんな名前の花、聞いたことないなぁ。まあ、私はもともとあまり花には興味がないからかもしれないけれど。
部屋の扉がノックされ、「姉さん、入るよ」と蒼の声が聞こえてきた。
扉を開けると、珍しくしかめっ面の蒼が親指を立てて自分の背後を指差した。




