心のない言葉
翌朝、登校すると教室が少し騒がしかった。
声を潜めて会話をしている生徒の視線の先は、私のすぐ後に登校してきた浅海さんに集められる。もしかして昨日のスープ事件の影響だろうかとひやりとしたけれど、どうやら原因はまた別のことのようだった。
正面を向けば、深緑色の黒板に真っ白で乱暴な文字が書かれているのが視界に映り込んだ。チョークで書かれた心のない言葉に眉を顰める。
『消えろ庶民』
それはたった一人の人物へ向けられた言葉。誰もが浅海さんに向けられたものだってわかってしまう。
浅海さんは驚いた様子で目を見開いて黒板を見つめている。それにしてもクラスの人は誰も消そうとしないなんて……。ちなみに天花寺はまだいないみたいだ。これは確か……原作にもあったような気がする。それで真莉亜がヒロインを攻撃して笑うんだよね。「庶民なんて思い当たるのが一人しかいませんわー」って。
原作では真莉亜が誰かに指示してやらせたんじゃないかって疑われていたけれど、今の私はそんな原作通りなことをする気はない。だけど、昨日のことがあったからか私に疑いを向けられているっぽい。特に男子からの視線が痛い。このクラスにいる『花ノ姫』だと私が一番プライド高くて攻撃的に見えるだろうしなぁ。あとはパペットちゃんだし。『花ノ姫』と揉めた生徒は居場所なんてほぼないようなものだ。
「これはいつから書かれていたのかしら」
「ま、真莉亜様……」
私の斜め前の席の女子生徒が困惑したような表情で私を見た後、黒板に視線を移した。
「私が日直で一番に登校したのですが……その時は既に書いてありました」
「ですが、私が昨日の放課後に教室の日直で戸締りをした時にはありませんでした」
本日の日直は、登校した時には既にあったと言う。けれど、昨日の日直は戸締りする時にはなかったと言う。それなら犯人はいつこれを書いたんだ。うーんと犯人誰だったかなぁ。
「今朝は私が鍵を開けたのに……不思議ですよね」
「……そうね」
不思議だけれど、それよりも先にすることがある。
黒板の前まで歩み寄り、黒板消しを手にとって白いチョークで書かれた文字を消していく。
後ろが更に騒ついた気がした。
これで私への疑いが少しは消えてくれるといいんだけど、それよりも誰も消そうとしなかったことが腹が立つ。私が動けば、犯人も少しは焦るだろうか。おそらく犯人は私が浅海さんのために消すだなんて思っていないだろうし。
隣に気配を感じて振り向くと、薄茶色の髪の男子生徒がもう一つの黒板消しで文字を消してくれていた。
「て、天花寺様……」
「おはよう、雲類鷲さん」
いつの間に登校していたんだろう。あ、そっか。私が動かなくても、やっぱり彼が浅海さんを守ろうと動いてくれる展開だったか。
「さっきちらっと聞こえたけど、昨日の戸締りのときにはなかったんだよね?」
「ええ、そのようですが……」
天花寺の目が一瞬細められて鋭くなった気がしたけれど、それ以上は彼は口を開かなかった。
消し終わり、黒板消しを置くとその横にあるチョークに目がとまった。白、ピンク、黄色……その中の真新しい白のチョークの端っこが少し欠けていた。犯人はこれを使用したのだろう。……ああ、そういうこと。思い出した。
「あのっ、すみません。ありがとうございます」
こちらに駆け寄ってきた浅海さんは申し訳なさそうに眉を下げている。彼女が謝ることではないのに。
「信じられないわ。真莉亜様と天花寺様にあのようなことをさせるなんて」
「実は構ってもらいたくて自作自演というのもありえるわよね」
「育ちが悪い方ならその可能性もあるわね」
こそこそと話しているつもりだろうけど、丸聞こえなんですけど。
私が苛立っていることに気づいたのか、浅海さんは小声で「大丈夫ですから」と困ったように微笑んだ。
「全然よくない」
あっ。と気づいたときには、口に出してしまっていた。だけどさ、普通自作自演とか言う? 私としては何もしないあなた達の方がどうかと思う。育ちが悪いって、家が金持ちじゃないってだけで育ちが悪いとか言うのもただの偏見。
心ない落書きや、聞こえるような声でわざとらしく陰口言ったり、小学生とか中学生の頃にあるようなやつだよね。こういうのって前世と変わらないんだな。嫌な空気だ。
浅海さんはクラスの人たちになにも悪いことしていないのに、悪いことしたような空気が漂っていて、どうしてされた側が肩身の狭い思いをしなくちゃいけないんだ。
「本当、信じられないわよね。このような子どもじみた嫌がらせをすることも、今朝からずっと書いてあったはずなのに誰も黒板を消そうとしなかったことも。そう思うわよね?」
浅海さんのことを悪く言っていた彼女たちに微笑みかけると、青ざめた顔で硬直している。これを犯人はどんな気持ちで聞いているのだろう。




