17、狐の本質
一本ヅノは言う。
「どうか、グレンだけは許してください。もちろん、俺はどうなってもいいです」
『……つまり、お前とグレンの命がつりあうと思っているのか?』
「いいえ、いいえ、思っていません。けれど、どうかお慈悲を。あなたは、グレンを殺して魔力を得ることが目的ではないのでしょう。ならば、グレンの命以外の、他の何かで許してもらえませんか。私の命でいいならもちろんそれで。今私が持たないものでも、必ずすぐに用意してみせます。どんなものだって、何をしてでも。ですから、どうか」
一本ヅノは、必死だった。一度たりとも顔を上げはしない。ずっと地面に擦りつけている。
所在無さげに立っていた他の鬼たちも互いに顔を見合わせてから、誰からともなく膝をつき、ザンギと同じ体勢になった。つまり、土下座だ。あれよあれよと言う間に、この場で立っているのは私だけになった。
「ザン、ギ……。テメェらも、自分が何してるか、分かってんだろうな。誇り高き鬼だと、分かってんだろうな」
グレンが怒り狂っている。五体満足であったなら、一本ヅノを引き裂きに行っていたかもしれない。ゾッとするような、地の底を這うような声だった。
「ザンギぃ! テメェは仮にも、次の頭領だろうが! 命乞いだァ⁉︎ ふざけんのも大概にしやがれ! プライドってもんはねェのか!」
一本ヅノは私に頭を下げたままだが、ギリ、と奥歯を噛み締めたのがわかった。
「矜恃など、忘れた。矜恃より、グレンの方が、群れにとって大事に決まってる」
「ざけんな‼︎ 惨めなことするんじゃねェ! 命乞いで得る命なんか要らねェんだよ!」
必死な一本ヅノと、一本ヅノを殺しそうなグレン。私はただぼんやりと、彼らのやり取りを聞いていた。
さっき、一本ヅノが止めに入ったとき。確かに私は、安堵したのだ。殺す前で良かったと、そう思ったのだ。つまり私は……。
「さんざん蹂躙してきておいて、蹂躙される側になったからって命乞いするなんてあり得ねェ。んなみっともねェ真似するなら、オレは自ら死を選ぶ」
「グレン! お前は、お前がどれだけ群れに慕われていると……」
「ピーピーうるせェんだよ! オレは負けた! 勝者が敗者を好きにできるなんて当然だろうが!」
『え?』
思わず声が漏れた。グレンも一本ヅノも、言い合いをやめてこちらを見る。
腹の底から、笑いが込み上げてきた。
『……は、はは。そうだったな。は、はははは!』
「……お、おい、狐?」
グレンがどことなく怯えたように声をかけてくるが、私は笑いが止まらなかった。
『はは、そうじゃないか。私ともあろうものが、どうして、感情に反する選択を〝しなければならない〟などと!』
「おい?」
『勝者が敗者を好きにできるのは当然だ。弱者の生殺与奪権は、強者にある。つまり私は、選べる立場だ。……エドワードたちの考え方に毒されたな。あいつは、選びたくない選択肢を強いられて、それに当たり前のような顔をしていたから。仕方ないと、受け入れていたから』
だから、殺すのが正しいのだと思い込んでいたけれど。殺さなければならないと思っていたけれど。そんなの私じゃないだろう。
『私は強い。だから私は、自分の感情に沿った行動をしてきた。いつだって、だ。私を縛るものなんてありはしなかったな』
私は、這いつくばる一本ヅノとグレンを見下ろした。
『一本ヅノ、お前、名前は?』
「ザンギ、です」
『そうか。ではザンギにグレン。お前たち、この森から速やかに出て行け。そして、いつの日か次に私に出会うことがあったら、私の命令を何でも一つだけ聞け』
「……は?」
グレンが間の抜けた声を上げた。ザンギも思わずといった様子で顔を上げ、私を凝視している。
『グレンの命を取るのはやめた。その代わりだ。グレン、勝者は敗者を好きにできるんだろう? なら、とりあえず出て行け。そして、命令を一つ聞け。今は特にさせたいことがないから、いつかな』
「は?」
疑問符を浮かべるグレンに、にやりと笑ってもう一度言ってやった。
『勝者は敗者を、好きにできるんだろう?』
「……ああ」
『ザンギ、お前、自分の命だって差し出せるんだろう? それに比べたら言うことを聞くくらい、安いものだと思わないか』
「え? あ、はい……」
さっきまでの重苦しい気分が嘘のように軽くなった。やはり、慣れないことはするものではないのだ。私の本質は自分勝手で我儘、かつ気紛れな魔物であり、それでいい。
『思えばお前も災難だな、グレン。ただ休んでいたところを急に襲われて、殺されかけたのだから。それでいて、殺さない代わりに言うことを聞け、などと。ふふ、我ながら迷惑な話だ』
グレンはまだ私の心変わりについて来られてないらしく、ポカンと口を開けて私を見ていた。
『ザンギ。お前には少しだけ感謝している』
「は、え?」
『私は私に背こうとしていた。馬鹿みたいに長命なのだから、それだけはしてはならないのにな』
もしもザンギが止めなかったら。後悔するような殊勝な感情が私に残っているかは不明だが、きっとふとした時に思い出して、自分に不快な気分を抱くのだろう。さんざん命を奪ってきている私だが、自分の感情に背いたことはほとんどない。少なくとも九尾になってからは、気紛れや我儘を通すだけの力があったからな。
さて。私は血まみれのグレンに目を向けた。治癒のような能力は私にはない、が。
『グレン、動くなよ』
私は尾を一本伸ばし、仰向けに横たわるグレンの左腕に巻きつけた。部位に意味はないがな。右腕は私が切り落としたためにないから、左腕にしただけだ。グレンは少し目を細めたが、されるがままだった。負けを認めたからかもしれない。皮肉げに口元を歪めた。
「やっぱり殺すのか? 今魔力を吸われたら本気で死ぬぜ」
なんでそのセリフを笑いながら言えるんだ。
『むしろ逆だな』
「は? ……っ!」
流れてくる魔力に、グレンが驚いたように息を詰めた。
巻きつけているのは供魔の尾だ。先ほど奪った魔力を返すことにしたのである。説明は面倒なので、まあしなくていいだろう。
「狐? これは……」
『返してやる。あまり一気に魔力を注がれると気絶するが……お前は頑丈だから、大丈夫だろう。多分』
グレンが眉根を寄せる。
「……おい、言ってるそばからすげー不快感が、つーか気分が悪い。肉体的な意味で」
『これだけ一気に注がれてその程度で済んでいるのはむしろ誇るべきだぞ。生物の体というのは、外部から魔力を注がれることを想定していないからな』
ひく、とグレンが頬を引きつらせた。顔色がかなり悪い気もするが、先ほどからずっとだし大量失血のせいということでいいだろう。ああ、どちらにしても百パーセント私のせいだな。
私はグレンの右腕……の付け根と、左足の腿の部分に目をやる。そこから下は私のせいで欠損していたのだが……。
『……やはり、魔力があれば治るか』
馬鹿げた再生能力を持つグレンの身体は、注がれた魔力を使って急速に傷を癒していた。先ほどまでは魔力が枯渇していて治せなかっただけであって、この男、本来ならこの程度の欠損は普通に治るのだ。何故知っているのかというと、戦闘中にも何度か切り落として生えてくるのを見たからだが。
傷が大体治ったのを確認して巻きつけていた尾を引くと、グレンは治ったばかりの右腕と左足を使って座ろうとした。しかし、バランスが取れずに転びかける。ザンギが駆け寄ろうとしたが、グレンは手で制して、何とか一人で座った。
『よく座れるな。頭痛と吐き気で平衡感覚なんてめちゃくちゃだろうに』
「テメェ……」
『ふふ。安心しろ、ほんの一時的なものだ。五分もすれば全快する。お前ならな』
グレンは射殺しそうな目で私を睨んだ。半死半生の状態までボロボロにされても唯一力を失うことのなかった赤い瞳が、更に力を増した気がした。
「……逆に気味が悪りィ。お前、なんで急に、そんなに友好的になった?」
『うん? ああ、気紛れなのが本来の私だよ。さっきまでは珍しく……そうだな、使命感のようなものに取り憑かれていた』
「……」
『気に入ったから殺したくなくなった、それだけだ。私はその感情こそを大事にすべきなのだ』
グレンは微妙な顔をして口を噤んだ。
まあ、グレンから見れば私は災厄以外の何者でもないだろうな。




