瓶詰めの蝶々 第五十四回
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七月二十八日月曜日。
玄関ホールは、レースのカーテン越しに射しこむ、午前中の柔らかな光の中で、まだまどろみを貪っているようだった。
たしかにこの家は、常に眠っているような印象があった。世俗的な目覚めからは程遠い。かといって、山の幽寂とした空気とも異なる。
ちょうど、化け物が好んで棲まうような。
「今日はここでいいだろう」
ネクタイを少し緩めながら、高木は辺りを見わたした。赤と白から成る市松模様の床の上を、制服や私服が時おり行き来する。けれども、一昨日ほどの慌ただしさはないのは、事件が膠着状態に入りつつあることを、如実に物語っていた。
ホールの隅に、アン王朝様式の簡素な応接セットがあり、シノワズリふうのパーティションを横に立てれば、ちょっとした個室の趣きを呈する。
「きみ、だいじょうぶか。朝から蒼い顔をしているが」
「ちょっと飲み過ぎたようです」
「化け物の気に当てられたのでなければ、幸いだよ」
小須田の肩をぽんと叩き、近くに立っていた制服に言う。
「音大生を呼んできてくれないか。女の子を除いた、二人だ」
警官の後ろ姿を見送りながら、小須田は眉をひそめた。二日酔いのせいばかりではない。これからまた、堂々巡りの尋問が始まるかと思うと、目が廻りそうである。聴取されるほうも、さぞかし厭だろうけれど、するほうもまた、疲労困憊させられる。
けれどもこれが、捜査というものなのだろう。徹底的に足を使う地取りと異なり、こちらは執拗に繰り返し訊き続ける。堂々巡りだとわかっていても、何度でも訊く。偽証をただし、隠していた事実をすべて吐き出させるまで。
「ぼくたち、いつまでここにいなくちゃいけないんですか?」
硬いソファに腰を下ろすなり、藤本竜也が口火をきった。基本的に礼儀正しい青年だが、さすがにうんざりした表情が覗く。揉み手をしながら、高木は言う。
「あくまで任意で、お願いしております」
「任意という名の、強制にほかなりませんよ。ぼくたちはまだいいんですが、クレハ……いえ、北村さんは、精神的にかなり参っています」
「ご同情申し上げます。この平和な日本で、一般のかたが他殺死体を目にすることなど、まず、あり得ませんからね。あなたも含めて」
竜也が唇を噛むのを、小須田は見た。高木は言う。
「お二人とも、いつ頃部屋に戻ったのか、覚えていらっしゃらないのですな」
男の子二人は顔を見合わせた。むろんこの質問は、再三繰り返されている。憤りより、困惑の表情が色濃いのは、なぜ覚えていないのかと、責められているような気がするのだろう。
「何度もお答えしたとおり、かなり酔っていたみたいですから」
「二人揃って、そんなに酒に弱いんですか」
小須田が尋ねると、また二人は困ったように目を見交わした。おずおずと、岡田悟が口を開いた。
「もともと未成年ですよ」
「これまで一滴も、口にされたことはなかった?」すかさず高木が噛みつく。
「コンパなんかで、むりに飲まされる場合はあります」
「ご安心ください。ケチな別件でしょっ引こうなんて、考えちゃいませんから。では、記憶が途切れるほど酩酊した経験はなかったと、そう仰言るのですね」
「はい」
「お二人とも、少なくとも記憶している限りでは、明け方まで一度も目を覚まさなかった。これで間違いありませんか」
悟はすぐにうなずいたが、テーブルの木目を凝視するかのように、竜也は眉間に皺を寄せたまま。高木の細めた目の底に宿ったのは、獲物を追いつめた野獣の眼差しにほかならない。
「お話し願えませんか。どんな些細なことでも構いません。完全に目を覚まさないにしても、何か不審なもの音を聴いたとか」
「すべて、夢だった可能性があります。いまでも、あれが現実に見た光景なのかどうか、とてもあやふやなんです。ぼくはもともと、幻覚みたいなものを見やすいタイプらしいですから。だから黙っていたんですけど」
「ほお」
高木に射すくめられ、掠れた声で竜也はつぶやいた。




