瓶詰めの蝶々 第四十七回
「薄々お気づきかと存じますが、主人が遺した作品のほとんどは、すでに売却先が決まっております。それも決して画家が認めた、一部のコレクターばかりにではありません。もし主人が帰って来れば、たいそう怒るでしょうけれど」
自嘲的な笑みが宿るのを見た。怒る、くらいで済むのだろうか。『妖精の鉄槌』に描きこまれた、画家自身の恐ろしい顔。凍りつくような眼差し。それが女性を殴殺しかけ、精神病院に幽閉されている間に、描かれたことを思い合わせれば、おのずから肩が震えた。
「この家も?」
「まさか。単純にタブローを売るのとは、わけが違いますから」
「家自体が、ひとつの作品だから、ですか?」
「ゴヤの“聾者の家”」
「はい」
「鏡の家の噂を聞く者は、だれもが思い浮かべることでしょう。事実、家から切り離されたとき、ゴヤの“黒い絵”シリーズは、生命を失くしてしまったとも申します。現代もなお、衝撃を与え続けている作品群であることは、間違いありませんのに」
絵莉子は言葉を切ると、こころもち顔を持ち上げた。頭巾を縁取る、黒いレース。その下から、彼女を見下ろす眼が、片方だけ覗いた。
月光に似た光を宿した……
「この家が切り売りできない理由。それはゴヤの場合とは、少し事情が異なるかもしれません。鏡の家は、リチャード・カッシングの恥部であり、そしてかれ自身にほかなりません」
「カッシング……自身?」
いったい何を意味するのか。まるで難解な詩のように、彼女の言い回しは理解を拒むかのようだ。「詩」の底に黒々とわだかまる、得体の知れない存在を意識しながらも、恐怖感はいともたやすく、好奇心の疼きへと変わってゆく。
再び目を向けると、いびつな家は鬼火の瞳で、じっとこちらを見据えているようだ。
芝居がかった動作で、絵莉子は鍵を差し出した。
月光が、ここにも宿っていた。
「これをお渡ししますわ。わたくしが案内しないほうが、堪能していただけるでしょうから」
「部外者の私が、勝手に歩き廻ってもよいのですか」
「あなたたちが、突然訪ねて来られたときは、さすがに驚きましたけど……」
目の前で、軽く鍵が揺らされた。鈴が鳴るような音が、幽かに聴こえた。青髭公の妻たちは、鍵を持たされたまま、城に取り残されたのではなかったか。
「今では決して、偶然ではなかったという思いがあります。ある意味わたくしは、あなたたちが来る日を、心待ちにしていたのかもしれません」
またしても謎めいた「詩」とともに、それは手渡された。乳房の間に、ずっと埋められていたにもかかわらず、掌にひやりと触れた。
「どうぞ、自由にご覧になって。“中には誰もおりません”」
背を向けたとたん、背後で、笑みがこぼれる気配がした。
吸血鬼が、笑う。
樫の扉に、唐草模様の南京錠。鍵を刺す前に、把手を揺すって、扉が固く閉ざされていることを確かめた。何か本能的な直感がはたらいて、時間を確認した。締めつけられる感触を嫌って、めったに嵌めない腕時計を、なぜか今夜に限って身につけていた。
午前一時を、わずかに廻ったところ。
夕食に招かれてから、いつの間に、これほど時間が経っていたのだろう。小部屋で待たされているうちに、アン王朝風の椅子の上で、知らずに眠っていたのだろうか。竜也や悟と、いつ別れたのかさえ、思い出せない。
鍵の外れる音は、牢獄で鳴り響くようだった。外した南京錠は、把手に引っかけておいた。霧のような雨が降り始めていた。振り返ると、鴉女はこちらを向いたまま、石化したようにたたずんでいた。
家の中は暗く、足元もおぼつかないほど。前方にライトアップされた、四角い空間。窓ではなく、小さな壁画のようだ。
(鏡の家は、リチャード・カッシングの恥部であり、)
さすがに眉をひそめた。
悪趣味と呼ぶにはあまりにも幼稚だが、稚拙なゆえに秘められた狂気は深い。なるほど、ここまで剥き出しの欲望を、剥き出しの狂気を、画家は一部のコレクターにさえ、公開しようとしなかった筈だ。
(そしてかれ自身にほかなりません)
足が震えていた。まるでダンテの地獄の門の碑文を読んだように、一切の望みが、黒い羽音をたてて飛び去ってゆくようだった。引き返せと警告し続ける本能の声とは裏腹に、身体は呪縛されたように壁の裏側の空間へと、歩を進めた。




