瓶詰めの蝶々 第四十六回
◇
数時間前。
◇
雨は、止んでいるらしい。
玄関脇の、暗い小部屋で、少し待たされた。
ここへ案内したのは、“人狼”トビイだ。喉の奥に、かすかなうなり声を宿したまま、かれは扉を開け、扉を閉めた。
部屋の外で、今も番をしているのかもしれない。閉じ籠めた獲物が、逃げ出さないように……
剥き出しの床。アン王朝風の椅子がいくつか。小画廊をおもわせる、そこにはたしかに最近まで、絵がかけられていたはずだ。が、やはりすでに取り払われていた。
朦朧とした意識のなか、一筋の、蝋燭の炎が揺らぐ。
(大規模な売却が、行われようとしている?)
一部のコレクター以外に、絵を売ろうとしなかったのは、カッシングだ。森へ蝶を捕りに行ったきり、かれが不在のままならば、遺された者たちが、遺された絵をどう扱おうと、もはや咎める者はいない。
狂気の画家は、どこへ消えたのだろう?
ドアが軋んだ。
鴉女が、漆黒の翼を広げようとしていた。ひっ、と息を呑む瞬間。
「絵莉子です。ことさらに、驚かせるつもりはなかったのですけど」
お互い黒ずくめの、二人の女の姿は、奇矯な一枚の絵であったかもしれない。井澤絵莉子の衣装は、一見、ムスリム女性が着るブルカを想わせた。ただ目もとはレースで隠され、代わりに、真紅の唇ばかりが露出している。
「先ほどもお話ししましたとおり、肌を患っておりますもので。失礼して、この恰好でご案内させていただきます」
艶やかな虫のように、蠢く唇。宴席と異なり、囁くような話し声は、秘密めいた気分へといざなう。
真紅の背もたれを離れるとき、ふわりと足がもつれた。
身体じゅうの、血液の中に、ぽつぽつと鬼火がともる。
鬼火が、ともる。
酔ったのだろうか。
血の色をした酒だった。瓶を抱えた家政婦が、常に背後に忍び寄ってきた。が、それでもせいぜい、グラスに二杯くらい。それなのに、
足がもつれるなんて。
「だいじょうぶですか」
囁かれた。
耳朶に息がふりかかる。抱きとめられた瞬間の、記憶は飛んでいた。秘教の儀式に用いるような、黒い衣装。黒い翼に覆われ、意外に肉感的な身体を押しつけられていた。
病気だからか。陽光や雨が、肌に触れるのを厭うと言っていたっけ。ならばカラス女のマントの裏側には、薬が塗りこめられているのだろうか。籟を患った千夜一夜の王のように。
だからこの女の息は、こんなにも熱いのか。
「平気です。ごめんなさい」
全身を、海月に似た、奇怪な虫が這い廻るような感触。それも決して不快ではない感触から逃れるように、身体を離した。
鬼火が揺れる。
鬼火が。
先を行く井澤絵莉子が手にしているのは、古めかしいオイルランプだ。踵すら見えない衣装のせいか、彼女は地表より数センチ浮いたまま歩行するように見える。炎ばかりが左右に揺れて、濡れた葉叢に橙色の光を投げかける。
小型の鞘翅類や甲虫、蛾などが、鬼火に惹き寄せられ、脚や翅を焼かれては、闇の底へ落ちてゆく。灌木たちは悪意をこめて、剥き出しの腕にひやりと触れる。
急に視界が開け、「家」があらわれた。
ほとんど闇に溶けこみながら、背後の崖は、ごく薄く夜光塗料を塗ったように、蒼い光を宿している。そのため、いびつな茸を想わせる家のシルエットが、黒々と浮かび上がっている。
窓の中にはうっすらと、オレンジ色の灯が揺れていた。それがこの家に、奇怪な生き物じみた印象を与えていた。
覚えず咽を鳴らす自身を、はしたなく感じた。
「ここが?」
「“鏡の家”です。ご覧になりたかったのでしょう?」
赤い唇が、月の形に歪むのがわかった。
絵莉子はランプを置くと、両手を首の後ろに廻した。チョーカーを外す仕草。服に隠れて気づかなかったが、その「首輪」の先には、金色の鍵が繋がれていた。
「鍵は二本しかなく、主人とわたくし以外、だれも所持しておりません。主人の行方が知れない今となっては、事実上、これが唯一の鍵になりますわね」
黒い紗の手袋の上で、鍵を弄びながら、また生き物のような唇を歪めた。




