瓶詰めの蝶々 第三十九回
「可愛いらしいわ。たった一口のワインで酔うなんて。そんな時期があるのね。きっと私にも、あったのかもしれない」
こちらへ言葉を投げかけながらも、怜子の熱を帯びたような視線は、じっと紅葉に注がれていた。
いったい何がそうさせるのか?
ドレスを身につけただけで、紅葉の姿が昼間とは豹変したのは、たしかだ。そう考えながら眺めるうちに、記憶の中の映像が、言い知れぬインパクトで、彼女の上に重ねられた。
(似ている)
昼間は無造作に、髪を頭の後ろで一つに縛っていた。今はそれを解き、念入りにブラシをかけた上から、銀色の髪留めで、軽く横に流している。
ナオミ。
紅葉のほうがほっそりとしているし、顔立ちもより繊細である。にもかかわらず、『痴人の愛』に出演していた頃の由井崎怜子と、驚くほど似た印象を与える。少女の面影を残しながら、あるいはそれゆえに、妖艶さが強調される。
男を引き寄せ、破滅させずにはおかない“ファムファタール”。
過去を映しだす鏡をとおして、怜子はかつての自分を見つめているのか。
「お嬢さん、あなたも、一口だけ召し上がって」
とめるべきだった。止めようと思ったが、頭の重さは全身の痺れへと変わっていた。気がつけば、古風な絵を想わせるポーズで、紅葉は柘榴石の色をした液体を三分の一ほど、唇に流しこんんでいた。
「リックが見たら放っておかないわ。そう思わない? エル」
また、今度はさらにあらわな不快の色が、絵莉子の顔に浮かんだ。リックとはむろん、リチャード・カッシングを指すのだろう。
「やめてくださらない? そういう言い方」
「だってそうでしょう。この子はリックの絵に、魅されているというわ。私たちと同じように、魅されてしまうのよ。かれの絵が、出口のない迷宮の入り口に通じているとは気づかずに」
「入り口はあるのに、出口はないというのですか」
グラスをテーブルに戻して、紅葉が尋ねた。怜子はまた、夜鳥のような笑い声をたてた。
「最も単純な迷路は何だと思う?」
「わかりません」
「落とし穴よ。食虫植物がいるでしょう、サラセニアやネペンテスのような。哀れな虫たちは、蜜の香りに誘われて入ることはできても、二度と出られない。美しいほど単純な、あれこそが迷宮だわ」
「あなたには充分すぎるほど、才能がおありね」
珍しく皮肉を含んだ口調で、横から絵莉子が言う。由井崎怜子は、けれど気分を害したふうもなく、歌うように応じるのだ。
「女優だと考えているのなら、それは間違っているわ。あの頃の私と同じように」
彼女はゾッとするような視線を紅葉に送った。もし邪眼というものが存在するのなら、あんな眼差しではないだろうか。おそらく彼女も意識しているのだろう。紅葉が「あの頃の私」……ナオミにそっくりだということを。
奇妙な晩餐は続いていた。
目の前の皿が、何度も取り替えられた。グラスもまた、様々な色の液体とともに入れ替わったけれど、アルコールが入っていたのは、最初の一杯だけらしかった。それでも、体中のあちこちで、ぽつぽつとともる陰火は消えなかった。
消えないまま、増えてゆく一方なのだ。
周囲の会話が、シェーンベルクのピエロのように頭を巡り、自身の声もまた、十二音階技法による、無意味な合いの手と化した。いつ会が果てたのか、どうやって「別荘」の二階へたどり着いたのか、すっぽりと記憶から欠落していた。
雨は果たして降っていたのか。
雨は……
ざーっという音が、ごく小さく、けれどみょうに耳障りな響きで、耳の中にわだかまっていた。滴る水の映像が浮かんだとき、強烈な渇きに見舞われた。
野戦病院じみたソファベッドから、呻きながら這い出した。
灯りは完全に消えており、数歩で方角を見失う。自分以外は誰もいないかのように、真っ暗な部屋は静まり返っていた。
服のまま寝ていたせいか、汗が全身の毛孔を塞いでいる。自身の足音が、頭の中で悪魔のトリルを掻き鳴らす。
廊下に出た。水の滴る音が、急に増した。
(なぜ常夜灯が、ともっていないのだろう)
階下から洩れるかすかな灯りが、ぼうっと踊り場を照らしている。足がふらついて大きくよろめき、柱を掴まなければ、危うく階段を転げ落ちていた。瞬時、闇の底から蝋燭の灯に照らされた三人の女の顔の幻が、あらわれては消えた。
食虫植物の胃の中で、蜜を啜る女たちの。




