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瓶詰めの蝶々 第三十一回

「ナウマンゾウの墓場に埋もれて、このまま一生を終えるものだと思っていたけど。若い肉体を目の当たりにすると、眠りこんでいた血が、呼び覚まされるようだわ」

 キャミソールという語彙から、剃刀を連想しない男は、どれくらいいるのだろう。あるいはフランス風に、ビスチェと呼ぶべきかもしれないが。そのあたりの女性の服飾における複雑怪奇な事情など、かれらにわかろう筈もない。

 ただ明白なのは、濃紫色のブラジャーがほとんど見えており、濃縮された乳房の間の、様々な意味での涙の谷間が、否応なく、かれらの両目を射抜かずにはいられなかったということ。

「きみたち、音大生だって?」

 竜也もさすがに、返答に詰まる。口もとの人さし指を、女が小さく舐めるのを、確かに見たのだ。まるで獣肉を品定めするような視線が、かれの全身を這い廻った。

 緋色のキャミソールに、はちきれそうなショートパンツという姿は、いかにも奔放な現代女性ふうでありながら、どこか流行を超絶している。

 それはナウマンゾウ云々といった、芝居がかったセリフや仕草にもよるのだろう。けれど永いあいだ、下界から隔離された世界に身を置いていたためと勘ぐってしまうのは、ひとえに先入観のなせる業とも言いきれまい。

 瓶の中の蝶のように。

 そう、

「ああ、これね。きみたちには、ちょっと刺激が強すぎたかしら。ミヤマカラスアゲハというらしいんだけど」

 鴉天狗!

 後頭部が不吉に痺れるのを、竜也は意識した。

 彼女のあらわな右肩から肘にかけて、片方しか翅のない蝶のタトゥーが、金属的な濃い青も鮮やかに、刻みこまれていた。

 対して左肩は、日焼けを厭わず夏の大気にさらしたとおぼしい、健康的な肌のまま。それが病的なまでに緻密な刺青の絵柄と、奇怪なコントラストを描いていた。

 踊るように、手の甲を宙にひるがえし、赤っぽく染めている長い髪を、ふっさりと掻き上げた。両の腋窩があらわになり、男子二人の脊髄を電気的に刺激した。

 ひたすら気圧されている二人から逸らされた視線は、気まぐれな蝶のように、紅葉の上に止まった。小首を傾げて微笑んだ。

「はじめまして」

「あなたがアリスですか?」

「えっ」

「肖像画の……」

 紅葉が指した壁のすぐ近くに、それはかかっていた。

 絵の中の“アリス”と瓜二つの女は、瞬時、目をまるくしたあと、弾かれたように笑い声をたてた。ほとんど嬌声に近い声が、朝のリビングに妖しく響いた。

「面白い子ね。とっても綺麗だし、気に入ったわ。ぜひ、お友達になりましょう」

 艶のある、大きな瞳で見つめながら紅葉に歩み寄った。片方の手を肩に置き、もう片方の手は、いかにも自然に髪を撫でた。

「髪質が細いのね。身体つきも、まるで生贄として供されるために、生まれてきたみたい」

 さすがに言葉を失くしている紅葉の耳に、さらに唇を近寄せ何事か囁いた。

 右肩に彫られた蝶の翅が、生きているように蠢くのを悟は見た。金属的な青い鱗粉を、撒き散らさないのが不思議なほどに。気がつくと、女はかれらを真正面から見据えていた。

 挑発的な笑みが浮かぶ。

「自己紹介が遅れたわね。夜の温室に捕らえられた二匹めの蝶、由井崎怜子と申します」

 存在しないドレスの裾を、ちょっと摘むようにして小腰をかがめた。

  ◇

「見たか……あれ」

 ようやく悟がつぶやいたのは、彼女が立ち去って、たっぷり五分は経ってから。呪縛を解かれたように、竜也も応じた。

「ああ、見た。肖像画とそっくりだったな」

「いやむしろ、あの入れ墨さ。角度によって青く見えたり、黒く染まったりしただろう。どうやって彫ったんだろう」

 すっかり冷めたコーヒーを口へ運んで、かれは語を継いだ。

「でもあれはぜったいホンモノだぜ。おれにはわかる」

「おまえ、いつからタトゥーに造詣が深くなった?」

 竜也に茶化されても、かれは真顔のまま。

「案外、そういうの好きでさ。写真集とか、何冊か持ってる」

「じつに意外だなあ。もう入ってる?」

「いや、それとこれとは、また別の話さ」

 まだどこか夢見ているような口調で、唐突に紅葉が口をはさんだ。

「由井崎って、どこかで聞いた名前なのよねえ」

 ああそういえば、と、竜也は戯画的に手を叩いた。

「もしかすると、女優かもしれないなあ。このあいだ、テレビでやってた、ちょっと前の映画に、そんな名前がクレジットされてたような」

「おまえ、深夜映画好きだもんな。どんな内容?」

「谷崎潤一郎の『痴人の愛』を現代ふうにリメイクして、ホラーとミステリーの要素を加えたような」

「さっぱりわからん……」

「あ、それ、私も聞いたことあるな。じゃあ、ナオミ役の子が彼女なんだ。当時はまだ十七歳とか、それくらいじゃなかったかしら」撫でられた髪に手をあてた。

「解説者によると、ヒロインに大抜擢された無名の新人だったとか」

「ヒットしたのかな」

「あれではね。日本では受けないよ。商業的な成功からは程遠かった、というか、大赤字だったらしい。解説者も惜しんでいたけど、最近になって、ようやく再評価されつつあるとか。遅いんだよね、それでは。ヒロイン役の女優は、これ一作で、銀幕から姿を消している。おれも観ていて思ったんだけど、これはフランス映画かと」

「難解、という意味で?」

「いや、女優が脱ぎまくる意味で」

「それで、彼女の肩には蝶のタトゥーが入っていたの?」

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