瓶詰めの蝶々 第二十四回
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夕刻が近づくにつれて、驟雨は一層激しさを増した。
森の中で聴く雨音は、それが永久に止まないような錯覚を、かれらに起こさせた。
「いよいよ、閉じ籠められたって感じだな」
巨体に似合わぬ情けない声を出した。悟の言葉には、居残りを決めた竜也への非難が、幾分含まれているのだろう。装飾音のように腹が鳴った。
「飯にしないか?」
「まだ五時を廻ったばかりだぜ」
台所兼食堂は、いつでも使えそうだった。この時間になっても、櫻井晃子が支度を始める気配はないので、食事に関することはすべて、「母屋」で賄わるのだろう。こちらの台所に使用感がまったくなかった謎は、あっさり解けたわけだ。
足音をたてない家政婦が、いつ出て行ったのかわからない。
トビイがどこにいるのか、それもわからないが、家政婦に従って、母屋で働いている可能性が高い。
別荘のほうには、この二人しか住んでいないと答えていたが、言葉どおりである保証はない。その証拠に、
「なあ、これ、どう思う?」
悟が指さした。
片翅の蝶の入った瓶は、まだそこに置かれていた。三人とも、何となくソファを避けて、めいめい硬い椅子を引き寄せたり、突っ立ったりしていた。
「どうって?」
「何者が置いたのか。どういう意味があるのか。もし、おれたちへの脅しだとしたら、ちょっと難解すぎやしないか」
「我コソハ、りちゃーど・かっしんぐデアル。我ガ領域ヲ侵セシ者ハ、コノ蝶ト同様ナ運命ヲ、タドルデアロウ」
壁の絵を眺めたまま、わざと片言で紅葉が言う。振り返ると、男子二人の顔に「洒落にならない」と書いてある。だいたい、居残ることになった原因のひとつが、紅葉の好奇心なのだから。
悪戯っぽく舌を出して、彼女は語を継いだ。
「という意味だとしても、難解なのよね、岡田くんの言うとおり。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』みたいに、インディアンの人形を私たちの人数ぶん置いておくとか、それが一つずつ壊されてゆくとか……メッセージを伝えたいのなら、もっとわかりやすくて効果的な方法が、いくらでもあると思うわけよ」
「人形は厭だな」
悟が肩をすくめた。逆さに掛けた椅子の背もたれをコツコツ叩きながら、竜也が言う。
「なぜ片翅の蝶なんだろう? というのが、最大の疑問なんだね。カッシングが昆虫採集狂だったとはいえ、果たして蝶々が、おれたちの変わり身になり得るかどうか。インディアンの人形のほうが、まだしもわかりやすい」
「おれと竜也はともかく、北村さんならあり得るんじゃないか。いや、脅かすつもりはないんだけどさ」
べつに顔を曇らせるでもなく、言葉を探すように、紅葉は視線を宙へ向けた。
「なるほどね。でも、私への殺人予告なら、カラスアゲハみたいな、まっ黒い蝶を選ぶべきじゃないかしら。真夏にこんな恰好をしているだけで充分変わってるし、目につくんだから」
「自覚してたんだ」二人同時に洩らした。
「でもこれは明らかにミヤマカラスアゲハだわ。しかも、こんなに青の光沢が強く出ているのは珍しい。今すぐ捕まえようと思って、捕まえられるものじゃないから、あらかじめ用意されていたと考えるべきね。もちろん、私たちが闖入するずっと以前から」
「カラスといえば、天狗……か」
ぽつんとつぶやいた、竜也の一言が波紋のように沈黙を広げた。
急に暗さを増したリビングの中で、雨音が虚ろに反響した。洞窟の中にいるような錯覚の中で、ここへ来る途中、長々と交わした「天狗談義」が、三人の脳裏に、有無をいわさず思い起こされた。
妖怪は、その名を呼べば発動するといわれる。天狗の名を呼べば、おのれが呼ばれたと感じ、そのものが活動を開始する。その場に引き寄せられ、実体化してあらわれる。
窓の外。
濡れそぼつ暗い木立の中から、鼻の長い男が、じっと覗き込んでいるような気がしてならなかった。補虫網を持ち、ぼろぼろの僧衣にも似たフロックコートを着て、金色の狂気を湛えた目を、爛々と輝かせながら。




