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瓶詰めの蝶々 第二十回

「なんかやばいな」悟は竜也に耳うちした。

「何かって?」

「前から見ると、エプロンの下は、何も身につけていないようじゃないか」

 竜也はダイニングテーブルにかけ、スマートフォンをいじり始めた。いろいろと気になるらしい悟は、手伝おうかと口実をもうけ、紅葉の横に。大蒜と生姜をみじん切りにしていると、不意に竜也の声が響いた。

「あ、斎藤さん? 藤本竜也です。ええ、はい、こちらこそ。あの、親父って、そこにいます? ああ、やっぱり。もしつかまったら、電話くれるよう言ってもらえます。ええ、できるだけ早いほうがいいですね。高尾山の別荘の件だと、伝えてもらえたら。はい、よろしくお願いします」

「親父さんの会社に?」振り向いて、悟が尋ねた。

「ああ。考えてみたら、ホームページに番号が載ってるんだよな。今朝から音信不通だとさ。よくあることだけど」

「次はこれをみじん切りにして。ざっくりと、ね。あまり細かくしちゃだめよ」

 キッチンに向き直った悟の目には、三種類ほどの、大量のキノコが飛び込んできた。

 色合いも形も異なる茸が積まれたさまは、奇態な花を想わせて、美しいといえば美しい。けれども悟の脳裏には「マタンゴ」という単語が、ぐるぐると渦巻いていた。

「麻婆豆腐を作るんじゃなかったの? 挽肉が見当たらないようだけど」

「ふふっ。たまにはあなたたちも、血の滲むようなオトメの努力を、思い知るといいわ」

 何を混ぜていたのか、赤く染まった指の先を、紅葉はぺろりと舐めた。

「岡田くん、あなたなんかとくに覚えておくのね。茸にはビタミンB、D、そしてミネラルが多く含まれていて、お肌にいいのはもちろん。不溶性食物繊維が豊富で、腸の中でスポンジのように水分を吸収し、数倍~数十倍に膨らむの。つまり、少量でも満腹感が得られる、最強のダイエットアイテムってこと」

「えっ。ダイエットしてるの?」

 目をしばたたかせたのは、竜也。

 紅葉のほっそりとした体は、自然に身についたようにしか見えず、「血の滲むような努力」によって形成されたとは、とても考えられなかった。まして彼女は声楽科なので、肥る努力こそすべきであり、日頃教官たちからも、「もっと食ええ、食って肥れええ」と責めたてられている筈である。

「岡田くんに言っただけよ。さあ、饗宴を始めましょうか」

 これからキノコ人間にでもされるかのように、悟は蒼ざめていた。フライパンに、けっこうな量の油が、無造作に引かれた。すぐさま投入された大量の赤い粉末は、パプリカである。さらにタバスコがふりかけられると、悟は覚えず息を呑んだ。

「ひっ、なんで?」

「オマジナイ」

 しゅうしゅうと泡立ちながら、油が赤く染まってゆく。みじん切りの生姜と大蒜が投げこまれ、次に、みずから混ぜていた赤い塊が、ぼたりと落とされた。味噌にこれまた大量の粉唐辛子を、胡麻油で練りこんだもの。少しだけ、豆板醤も混ざっているだろうか。

 それが油を含んで、ほどよくペースト状になったところで、あらかじめ酒を含まされていた、みじん切りの茸が投入された。残酷なまでに、彼女がかき廻す木製のターナーのもと、ゴジラ対エビラにも比すべき南海の大格闘を演じるうちに、茸たちは侵食され、征服され、呑みこまれ、やがて赤いペーストに同化してゆく。ぶつぶつと、かれらの断末魔がせつなげに響く。スープストックを溶いたお湯が、鎮魂歌のように注がれる。

 切り刻まれた豆腐もまた、かれらと同様の運命とたどる。ただ主役なだけに、扱いはずっとソフトだが。また、短時間で豆腐の水けをきることに、彼女がかなり腐心していたと付け加えておくべきか。粗挽きの胡椒を振りかけて、彼女は味見をし、醤油を注いで、また味をみた。白ネギのみじん切りが加えられたところで、聴こえないように、悟がつぶやいた。

「何故だろう、麻婆豆腐に見える」

 水で溶いた片栗粉が入れられたところで、それは確信に変わる。最後に胡麻油を少しばかり流し込み、彼女はフライパンをコンロから外すと、素早く器に分けた。ご飯を炊く暇がないからと、八枚切りの食パンが、こんがりとトーストされた。挟んで食えというのだろうか。

 悟はすでに、見てはいけないものを見てしまっていた。これは何かと問われれば、百人中百人が麻婆豆腐と答えるであろう、「何か」の正体を。しかしここで文字どおり匙を投げるわけにはゆかない。そもそも、匙を投げる選択肢なんかない。切腹する武士の心境が、少しだけわかる気がする。悲壮感と脂汗を額に浮かべて、まがまがしい銀色に輝くスプーンを手にとると、覚悟を決めて、ぐさりと「何か」に突き刺した。

 辛い。

 といえば、たしかに辛いが、あれほど大量に投下された粉唐辛子の攻撃的な牙は抜かれ、心地好さの範囲にとどまっている。また、麻婆豆腐には飯。ほかの組み合わせは考えられないと信じてきたが、意外にパンと合うことも、新鮮な驚きだった。

「あれ? ふつうに食える」

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