瓶詰めの蝶々 第十一回
「ちょっと珍しいかも。ここで、あなたたちのような若いグループと、行き逢うのは」
リュックを下ろし、眼鏡の位置を修正すると、爽やかな笑顔を見せた。
第一印象ほどリュックが巨大でなかったのは、相対的に彼女がかなり小柄だから。もしランドセルを背負えば、小学生と間違われても不思議ではない。巨漢である岡田悟の座高と、彼女の目線が、ほぼ同等である。
後ろから竜也に肩を小突かれて、悟は慌てて立ち上がった。
「ありがとう。お年寄りには席を譲るべきよね」
「そんなつもりじゃ……」
「もう二九よ。あなたたちからすれば、普通におばさんじゃない?」
竜也と同じ理由で、悟は返答に窮した。とっつきにくい印象とは裏腹に、人見知りしない紅葉が、素直に無遠慮な賛嘆の声を上げた。
「見えませんよ! 私たちと同年配か、化粧してなければ、中高生と間違えたかも」
それはそれで失礼な言い草ではないか。男子二人ははらはらしたが、彼女は機嫌を損ねたふうもなく、リュックに無造作に突っ込まれた水筒を取り出した。
彼女は、里見彩子と名のった。明京大の講師をしているという。
都立明京大学は、京王相模原線の、だいぶ神奈川寄りに位置する。ピアノ科の二人は、五月のチャリティーコンサートを聴くために、一度出向いている。駅から一度も地に足を着けず、陸橋をわたって行けるところに、まず驚いた。
陸橋の途中には様々な店が建ち並び、住宅展示場まであって、ちょっとした空中都市といった風情。その奥に鎮座する、広大で真新しいキャンパスは、花壇や並木も含めて、都立とは思えないほど、整備されていた。
「大学では、何を教えていらっしゃるのですか」
紅葉が尋ねた。福生あたりで買った払下げ品かと疑われる、シブい水筒を傾け終わると、里見彩子は手をひるがえして口をぬぐった。腕と比べて、そこだけ日焼けしていないことに、竜也は気づいた。
「生物よ。細かくいうと、生態系管理学。名前のイメージから、だいたいどんなことをやるか、わかるよね」
漠然とイメージを思い描きながら、三名はうなずいた。
「高尾山は、生態系保存の見本のような山だと、聞いた覚えがあります」
さっきまで、驚天動地の持論を開陳していた紅葉にしては、慎重な言い回しである。
「ええ。去年はあらかた表の山を回ったから、今年は裏を攻めているというわけ。こちら側の森は、かなり人の手が入っているけど、自由に歩き回れる利点はあるわね。もちろん、当局には届けてあるし、むやみに引っこ抜いたりはしない。でも、ほら、表では草木に指一本触れられないでしょう。天狗さまの逆鱗に触れちゃう」
「むかし、マナーを守らなかった男が、木の上に放り投げられたという話がありますね」
天狗と聞いて、黙っている紅葉ではない。彩子が笑うと、眉間にチャーミングな小皺が寄る。
「景色は好いでしょうけど。木にぶら下げられるのは遠慮したいところね」
「明京大の近くから、通われているのですか」竜也が尋ねた。
「高尾の町に親戚がいるから、調査中は、居候させてもらってる。貧乏講師にとっては、電車賃だけでもイタいし。まして『草枕』みたいな宿なんかとれないもの」
とかくに人の世は住みにくい。竜也は何となく、両界橋から眺めた古い旅館跡を思い出していた。閉鎖されているはずなのに、夜な夜な窓にぼうっと光が映り、着物姿であるらしい、小柄な女の影が揺れる……漱石というより鏡花の世界。どうも紅葉の怪談好きに影響されたようだ。
「やはり、地球温暖化の影響が出ているのでしょうか」
しゃちこばって尋ねたのは、悟。大汗をかくかれとしては、目下、死活問題なのだろう。真面目らしく、眼鏡の奥で講師の目つきになって、彩子は答える。
「この辺りはまだ気候が清涼だから。そういう意味でも、昔ながらの自然がよく保存されている。でも都心のほうへ行くと、確実に変化は起きているわ。ヒートアイランド現象。例えば、港区にある科学博物館付属の自然教育園を知っているかしら」
地方出身の二人は首を横に、悟だけ縦に振った。




