黄金の聖天 第十二回
嘆くように恨むように、アルベルヒは歌い続けていた。
ワイパーがいきなり、きゅっと音をたてた。雨ですか、と、つぶやいたきり、美架はもう、口をはさまなかった。彼女は私に体を密着させているらしく、カーブのたびに細い肩が押しつけられた。
『ラインの黄金』は場面が変わったらしく、山上の城において、神々が大げさに、何事かを騒ぎたてていた。どすん、どすんと、巨人が管楽器の足音を踏み鳴らし、ファンファーレとともに火の神ローゲがあらわれたとき、彼女がまたつぶやいた。
「何でも願いが叶う黄金。それが、盗まれる話でしたね」
アイマスクの裏側で、私は目を見張っていた。そうだ、ラインの黄金が盗まれたのを発端に、長大な『ニーベルングの指輪』の物語が始まり、さまざまな悲劇を引き起こしたすえ、ついに神々の衰退をまねく。
黄金の聖天に祈れば、何でも願いが叶うという。ただし、きわめて祟りやすい……
「到着いたしました」
車から降りると、雨を得た植物たちの、旺盛な香りがしていた。
やはりまだ、目隠しを外してはいけないらしい。車外に出ても濡れないから、何者かが傘をさしかけているのだろう。時おり、梢からしたたる雨粒があたり、派出な音をたてた。都心を離れてはいないはずだが、いったいどこに、これほどの「森」があるのか。私の手を引くのは、今夜も見知らぬ女の指。
目隠しを外すよう促す声に、聴き覚えがあった。髑髏の中で蝋燭が燃える、例の控え室である。仮面の上に片眼鏡をかけたトリスタン・ツァラが、数歩向こうに立っていた。かれの手には、刀身の極端に細い、西洋のサーベルが握られていた。
勅使河原美架の姿は、どこにもなかった。
「よくお越しくださいました。今宵は私がここで、お客様を一人一人、個別にチェックさせていただいております」
芝居がかった調子でそう言い、うやうやしく頭を下げたあと、いきなりツァラはサーベルの切っ先を、私の胸元につきつけた。ニヤリと、かれの唇が、仮面の下で歪んだ。
「貴方はフランボウでないことを誓いますか?」
「ち、誓います」顔面同様、声も引きつった。
「宜しい。これより先へは、この誓いをたてた者しか入れません。あちらのドアの前には、片岡が立っております。たとえ風蘭坊が、カラテの使い手であったとしても、片岡を抜くことは不可能です」
私が入ってきたであろうドアを指さして、ツァラはそう言った。片岡というのは、大入道以外に考えられない。それからツァラは、私に「右眼」の仮面を手わたすと、反対側のドアを開け、また芝居じみた礼をひとつ。
「では、これをつけて、会場でお待ちください」
私は早くも眩暈を覚えながら、細長い廊下へ出た。
前回と異なり、大きめの額縁と立体作品は、さっぱり取り払われていた。身を隠すところがないよう、配慮したのだろう。窓は一つもなく、壁、床、天井、ともに堅牢そうなので、この通路を破って侵入するのは、「片岡」をカラテで倒す以上に困難かもしれない。
仮面のせいで視界がぼやけ、まっすぐな廊下が歪んで見えた。突きあたりのドアにたどり着き、ひと呼吸おいてから開いた。八角形の部屋も、なんだか歪んでいるようで、仮面の位置をずらしたりしながら、呆然とたたずんだ。
中はもぬけの殻。
「だだっ広いとは、このことか」
寒気を覚えたのは、駄洒落のせいではない。外は汗ばむほど蒸していたが、この部屋に入ったとたん、思わず薄手のジャケットを掻き合わせた。だだっ広く感じたのは、部屋の中央に、何も置かれていないせいだろう。七つの椅子は、それぞれを象徴する作品を飾った壁の前で、主人の到着を待っていた。
周囲を眺め、天井を見上げ、また周りを見わたした。とくに、人が隠れられそうなところはない。が、ひとつの椅子の横だけ、隣の席とを隔てる布製の衝立が、二重になっており、前面に細長いカーテンが垂らされていた。
椅子のうしろの絵を見れば、『階段を降りる裸婦』。堀川の友人、マルセル・デュシャンの席だ。
これを怪しまずにいられようか。
足音を忍ばせ、ちょうどデパートの試着室くらいの空間に近寄り、そっとカーテンの隙間から覗いてみた。上部は筒抜けなので、ハンガーで吊るされている、ワインレッドの、古めかしい女物の衣装が、たちまち目に飛び込んできた。衣装の横には、帽子がかけられ、その中から長い、カールした黒髪が垂れていた。
ひっ、と息を呑んで、私はカーテンから飛び退いた。




