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屋根裏の演奏者 第二十五回(解答篇ノ三 最終回)

「おそらく長峯氏は、永い間、緑館のいわゆる、『屋根裏の散歩者』であったと思われます。たとえばこの一〇一号室におきましても、クローゼットの天井板が一枚、容易に外せることは、以前より確認済みです」

 屋根裏の散歩者!

 言うまでもなく、江戸川乱歩の傑作短篇のひとつである。大正期にはまだ珍しかった文化住宅、すなわち集合住宅の屋根裏を這い回る男の話だ。乱歩が経営していた下宿と同名の、緑館という名称も、長峯の秘められた「散歩」の痕跡から、おのずから滲み出してきたのではあるまいか。ポオの『黒猫』における、壁の染みのように。

 竜也は何やら、床や壁や天井が、急に生き物じみた触手を伸ばしてくるような、居たたまれない気分になった。

「緑館に伝わる怪談噺は、あれは本当だったんですね」

「ほとんどが、長峯氏による屋根裏の散歩を暗示しています。氏がピアノを弾けるかどうかは未確認ですが、例の連弾の怪異も、そう考えれば、説明が可能なのです。氏は、緑館の各部屋を、自由に行き来していました。それがどの程度の犯罪にまで発展していたのか、わかりませんが」

「母屋のバルコニーから、時計塔の円い穴を通って侵入していた……」

「ええ。あれほど几帳面に庭づくりをする長峯氏が、喬木に限って、鬱蒼と茂らせたままなのも、バルコニーを跨ぎ越す自身の姿を、カモフラージュするためです」

「ぼくたちも、ずっと覗かれていたのかな」

 なかば独り言のように、竜也がつぶやく。紅葉を見れば、すっかり蒼ざめていた。美架は首を横に振った。

「おそらく長峯氏は、近年、屋根裏の散歩をやめていた、やめざるを得なかったと思われます。原因は肥満です。それは氏が紅葉さんに、近年まで痩せた体型を維持していたと、自慢したことからもうかがえます。また、紅葉さんの部屋にだけ、カメラつきのインターホンを設置しようという提案。それは散歩の代価案を実行しようと、計画していたのでしょう」

「インターホンにかこつけて、カメラを?」

「そうなりますね」

「なぜ、私だけ?」

 紅葉の問いに、うなずき返しただけで、家政婦は答えなかった。竜也には、情欲を掻きたてられた長峯の煩悶が、察せられる気がした。これまで、緑館の屋根裏を自在に徘徊していた「悪魔」としては、なおさら火に焼かれる思いだったろう。だから……

「林が弾くヴァイオリンの音を、利用したのですね。肥満した体で天井を這い回る、その音を消すために」

「林晴明くんは、必ず零時から演奏を始めました。ちょうど演奏が続いている時刻、隣室では、アルバイトから戻った紅葉さんが、シャワーを使っていました。駅が近いので、紅葉さんの行動パターンは、崩れ難いのです。それらを母屋から観察し、計算して、今夜の屋根裏の散歩が、実行に移されたのでしょう」

 ヴァイオリンの音に、悪魔が引き寄せられたように。

 二人の音大生は、言葉をなくしたまま、うなだれていた。美架はまだ半分ほど残っている、二つのカップを回収して、炊事場へ向かった。紅茶を荒い流しながら、彼女は眉をひそめた。

 不思議は美しい。

 そして現実は、あまりにも醜怪だ。

  ◇

「それから?」

 三杯めの紅茶を受け取りながら、私は尋ねた。勅使河原美架は、椅子の背もたれに軽く寄りかかり、もの問いたげな目を向けた。

「きみは目撃者として、長峯氏を告発したのかい?」

「まさか。一介の家政婦に過ぎない私に、人を裁く資格などございませんわ。もし、紅葉さんの身に危険がせまっていなければ、ことさら真相を暴く必要もありませんでした」

「いつもそんな調子だね。きみさえ、その気になってくれれば、ぼくが大っぴらに売り込んであげるのに。そうすれば、家政婦をやらなくても、充分食べてゆけるよ」

「探偵になれと仰言るのですか。冗談はやめてください。探偵ほど、おぞましい職業はございません。私はただ、美しい不思議に出会いたいだけなのです」

 この家政婦は、不思議を愛し、追い求めるうちに、みずからの意志に反して、謎を解いてしまうのだろうか。

 藤本竜也と北村紅葉は、間もなく、緑館を出た。本来は二ヶ月前に申請する規約だが、長峯は何も言わなかったという。二人が「散歩」に感づいたと悟ったのだろう。二人とも事を荒立てることなく、黙って退出した。そのほうが、長峯にとってもプレッシャーが大きいのかもしれず、当分の間、「屋根裏の散歩」は止むものと思われた。

 次の水曜日から、ヴァイオリンの音は聴こえなくなった。林晴明はぎこちないながらも、次第に現代ヴァイオリンに慣れ、ピアノを弾く女子学生の機転も手伝って、学期の終わる頃には、けっこう面白いアンサンブルが成立したという。出田健はこの二人に、「優」の評価を与えた。

「わたくし、これで失礼いたします」

 勅使河原美架は、エプロンの背中の結び目を、はらりと解いた。(終)

参考文献/石井宏「誰がヴァイオリンを殺したか」/池田理代子「47歳の音大生日記」/浅井郁子「音大志願」/田中千香士「CDでわかる ヴァイオリンの名器と名曲」/荻野恭子「家庭で作れるトルコ料理」/香取薫「はじめてのインド家庭料理」

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