屋根裏の演奏者 第二十一回
光が洩れないよう、彼女は電灯を消したのだ。ドアが細めに開けられ、忍び足で二人は通路へ出た。鋳物の常夜灯が、ぼんやりと辺りを照らし、人の気配はまったくない。微風で葉叢がざわめき、母屋の薔薇が、強く香った。
美架は、ゆっくりと通路を進み始めた。換気扇が回っている、一〇二号室の前を通り過ぎ、一〇三号室もやり過ごした。時計塔を見上げると、屋根の部分は梢にさえぎられていた。時計のあった側は、母屋に面しているため、ここからでは望めない。美架は鉄扉に手をかけた。
「それ、開きませんよ」
小声で言う竜也に目配せをして、ノブを回すと、極めて慎重に、内側へ押した。ドアの隙間が少しずつ広がり、漆黒の闇の中から、黴とも錆ともつかぬ臭いが洩れた。
開いている? 以前、調べたときには、たしかに開かなかったのに。
美架と体を密着させながら、中を覗きこんだ。がらんどうで、壊れた自転車や古い電気製品が、埃をかぶっているばかり。錆びた螺旋階段があり、そこが機械室なのだろうか、上部の床に開いた穴に、吸いこまれていた。
その機械室で、かすかなもの音が聞こえたように思われた。やがて、演奏が始まった。
いつものシャコンヌだ。塔の内部で、それは意外に大きなこだまを返した。まるで機械室の中で、何者かが弾いているかのように。美架に軽く背を叩かれて、竜也は顔を引っ込めた。彼女はまた音をたてぬよう気遣いながら、鉄扉を閉ざした。塔を離れ、一〇三号室のドアの前に立つ。演奏は、その部屋の中から聴こえてくるとしか、考えられない。
(やっぱり、似ているんだ……)
脳裏に、駅前で見た演奏者の姿が、鮮烈に蘇るのを感じた。よれよれのチューリップハット。蓬髪から突き出た耳に、鷲鼻。ゼンマイ仕掛けの自動人形のように、体を小刻みに震わせながら。嘆くように、訴えるように。
「おれは何をしているんだろう? おれは何でここにいるんだろう? おれは何で理解されないんだろう? おれは何をすればいいんだろう? おれは……」
腕が粟だつのがわかった。間違いなく、林晴明の声だ。
演奏が、ふっつりと止んだ。
「おれという人間は、失敗作なのか!」
途中で演奏が放棄されたのは、今夜が初めてだ。いきなり訪れた静寂をつんざいて、北村紅葉の悲鳴が響いた。
ちょっと指を切ったとか、虫が出たとか、そんなレベルではない。切羽つまった、血を絞り出すような悲鳴。竜也は反射的に、一〇二号室のドアに駆け寄り、深夜であることも忘れて、チャイムを鳴らした。
「北村さん、どうしたの? 北村さん!」
三度チャイムを鳴らしたあと、ノブを回してみたが、もちろん鍵がかかっている。彼女の名を呼びながらノックするうちに、内側からドアにぶつかる音が響いた。驚いて、身を仰け反らせたところで、がちゃりと鍵が外され、ドアが開いた。
まだ滴のしたたり落ちる、濡れた髪。バスタオル一枚だけを、体に巻きつけた紅葉が、竜也にしがみついてきた。
「私見たの、換気扇の穴から覗きこんでいる、蛇のような怖い目を!」
震える声。震える肩を、わけもわからずに抱いた。このしなやかな、不思議な生き物は何者だろう。どうしてこんなに、甘美なまでに柔らかいのだろう。原始的な、暗い密林の奥にある、衝動の塊のようなもの。瞬く間にそこへ引き込まれるようで、恐怖すら覚えた。
「とにかく落ち着いて。中に入ろうか」
ドアを閉める前に、ふと気になって、通路を見わたした。勅使河原美架の姿はどこにもなく、時計塔の鉄扉が、わずかに開いていた。
◇
北村紅葉の部屋は、竜也の目を見張らさせるに充分だった。黒い。もちろんアパートの部屋を、勝手に黒くすることはできないが、雰囲気が黒いのだ。
たとえば画家のフランシスコ・ゴヤは、晩年に移り住んだ家の、一階の食堂と、二階のサロンの壁を、みずからの奇怪な壁画で埋め尽くした。これらのシリーズは一般に「黒い絵」と呼ばれているが、強いて言えば、そういった「黒さ」である。
ぬいぐるみの代わりに、ヴードゥーの呪いの人形が座っている。天井の電灯は消されたまま、複数の間接照明が、真紅のシェードの下から光を投げかけている。古城のポスター。あっちこっちに散りばめられた、スカルたち。それらが少女趣味的なレースのカーテンなどと、共存している。
こういうのを、ゴシック・ロリータというのだったか。




