表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
123/125

瓶詰めの蝶々 第七十八回(解答篇ノ五)

 この迷路画廊の中が、異様に暑いのは確かだった。湿気の充満した、あまりにも狭い空間に、これだけの人数がひしめいているのだから。堀川はだらしなく、ワイシャツのボタンをくつろげ、私も何度、額の汗をぬぐったか知れない。

 それでもさりげなく、美架が第三番めのボタンを外したときは、我が目を疑わずにはいられなかった。白い肌の間に、艶めかしい蔭が覗いた。

「あとはご説明したとおりです。紅葉ちゃんが、十一番めの作品……『妖精の鉄槌』に見入っている隙に、背後から忍び寄って来た犯人が、最後の小部屋へ先に入り込みました」

「そして、瓶詰めにされている死体のような、偽装をほどこした」

「はい。警部補がお考えになっていたとおりに」

 ここへ来て初めて、高木はネクタイを弛めた。絞殺されている者のような、苦渋を満面に浮かべて。

「だが、しかし……!」

「はい。この部屋のどこにも、鏡はありませんでした」

 彼女の視線につられて、私は壁画へ目を向けた。塀の上から、卵男が嘲笑うように、こちらを見下ろしている。

 重々しく、堀川がつぶやく。

「そういうことか。水を抜いた瓶の中に犯人が入る。ライトアップされた瓶の前には、暗幕か黒い衝立が、あらかじめ置かれている。そうして、ちょうどあの絵の位置に鏡があれば……」

「目撃者の目に映るのは鏡像だ。そこに映し出された瓶の中の女は、左肩ではなく、右肩に蝶の刺青がほどこされている」

 高木が後を受けた。

「……はずだった」

 美架はもう一つ下のボタンに手をかけていた。

「いいえ、瓶の中の水は一度も抜かれてはおりません。いっぱいに、満たされたままでした」

 そしてまた、どこか唄うような調子で言葉を継いだ。

「子供たちの間で、密かに囁かれているようなこと。けれど、大人になる頃には、いつしか忘れてしまう事実。それを、わたくしがこれから証明いたします」

 ボタンが外された。

 覚えず声を上げる間もないうちに、彼女は古風なワンピースの胸元を大きく広げ、肩をすべて、あらわにした。

 次の瞬間、黒い布地が無造作に、彼女の足もとに滑り落ちた。

 飾り気のないスリップを纏ったばかりの姿で、彼女は立っていた。私が息を呑んだのは、彼女の“左肩”が、蝶の翅の模様で、びっしりと埋め尽くされていたから!

 それは私も写真で見た、被害者、由井崎怜子の肩に彫られた刺青と、全く同じ絵柄だった。ただ、色彩がないことを除けば。

 まるで図案のように、見事な模様が暗緑色のみで再現されているのだ。噎せるような薔薇の香気が、彼女の肌から匂い立つようだった。

「きみ……まさか」

 声を震わせる私に、彼女は首を振ってみせた。

「ヘナというインドで用いられる染料で、皮膚の表面だけを染めております。洗っただけでは落ちませんが、数週間で完全に消えてしまうでしょう」

 息詰まるような表情で見守る高木に、向き直って言う。

「細かい点ですが、犯人が紅葉ちゃんを鏡の家の前まで導く間、フードを被っていたのは、顔、ではなく髪の毛を隠すためだったかと思われます。わたくしくらい短ければ、構わないでしょうけど。長い髪を逆立てるほどの整髪料を、あらかじめ塗っていれば、目に立ってしまいますから。また警察が来る前に、それは洗い落とされる必要がありました」

 叩きつけるような雨音の中でも、淡々と語る彼女の声は、明瞭に響いた。ほかには誰も、口をきく者はいなかった。

 水を満たした、巨大な瓶の前に、白いスリップ一枚でたたずむ姿は、失われた古代祭祀の生贄を想わせた。

「なくした鍵は、常に最も単純な所に、隠れているものです。ご覧ください」

 次に勅使河原美架がとった行動は、彼女自身が言ったとおり、あまりにも単純なものだった。歩数にして、ほんの五、六歩……

 彼女はゆっくりと足を進め、瓶の裏側に立った。

「あ……っ!」

 誰が叫んだのかわからない。あるいは、私自身だったのかもしれない。

 蝶の刺青は、左右が反転していた! 

 彼女のあらわな右肩に、たしかにそれは、びっしりと彫りつけられていた。水を透した蒼い光が、彼女の全身に映えて、まるで水中をたゆとうように見せていた。

 いまや、瓶詰めの蝶々と化した美架の声は、遠い冥界から響いてくるように思えた。

「子供たちの間で、密かに囁かれているようなこと……水を満たしたコップの裏にものを置けば、その像は反転されます。大がかりな、鏡のトリックを用いるまでもなく」

 引きつったような笑い声が響いたのは、そのとき。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ