瓶詰めの蝶々 第七十八回(解答篇ノ五)
この迷路画廊の中が、異様に暑いのは確かだった。湿気の充満した、あまりにも狭い空間に、これだけの人数がひしめいているのだから。堀川はだらしなく、ワイシャツのボタンをくつろげ、私も何度、額の汗をぬぐったか知れない。
それでもさりげなく、美架が第三番めのボタンを外したときは、我が目を疑わずにはいられなかった。白い肌の間に、艶めかしい蔭が覗いた。
「あとはご説明したとおりです。紅葉ちゃんが、十一番めの作品……『妖精の鉄槌』に見入っている隙に、背後から忍び寄って来た犯人が、最後の小部屋へ先に入り込みました」
「そして、瓶詰めにされている死体のような、偽装をほどこした」
「はい。警部補がお考えになっていたとおりに」
ここへ来て初めて、高木はネクタイを弛めた。絞殺されている者のような、苦渋を満面に浮かべて。
「だが、しかし……!」
「はい。この部屋のどこにも、鏡はありませんでした」
彼女の視線につられて、私は壁画へ目を向けた。塀の上から、卵男が嘲笑うように、こちらを見下ろしている。
重々しく、堀川がつぶやく。
「そういうことか。水を抜いた瓶の中に犯人が入る。ライトアップされた瓶の前には、暗幕か黒い衝立が、あらかじめ置かれている。そうして、ちょうどあの絵の位置に鏡があれば……」
「目撃者の目に映るのは鏡像だ。そこに映し出された瓶の中の女は、左肩ではなく、右肩に蝶の刺青がほどこされている」
高木が後を受けた。
「……はずだった」
美架はもう一つ下のボタンに手をかけていた。
「いいえ、瓶の中の水は一度も抜かれてはおりません。いっぱいに、満たされたままでした」
そしてまた、どこか唄うような調子で言葉を継いだ。
「子供たちの間で、密かに囁かれているようなこと。けれど、大人になる頃には、いつしか忘れてしまう事実。それを、わたくしがこれから証明いたします」
ボタンが外された。
覚えず声を上げる間もないうちに、彼女は古風なワンピースの胸元を大きく広げ、肩をすべて、あらわにした。
次の瞬間、黒い布地が無造作に、彼女の足もとに滑り落ちた。
飾り気のないスリップを纏ったばかりの姿で、彼女は立っていた。私が息を呑んだのは、彼女の“左肩”が、蝶の翅の模様で、びっしりと埋め尽くされていたから!
それは私も写真で見た、被害者、由井崎怜子の肩に彫られた刺青と、全く同じ絵柄だった。ただ、色彩がないことを除けば。
まるで図案のように、見事な模様が暗緑色のみで再現されているのだ。噎せるような薔薇の香気が、彼女の肌から匂い立つようだった。
「きみ……まさか」
声を震わせる私に、彼女は首を振ってみせた。
「ヘナというインドで用いられる染料で、皮膚の表面だけを染めております。洗っただけでは落ちませんが、数週間で完全に消えてしまうでしょう」
息詰まるような表情で見守る高木に、向き直って言う。
「細かい点ですが、犯人が紅葉ちゃんを鏡の家の前まで導く間、フードを被っていたのは、顔、ではなく髪の毛を隠すためだったかと思われます。わたくしくらい短ければ、構わないでしょうけど。長い髪を逆立てるほどの整髪料を、あらかじめ塗っていれば、目に立ってしまいますから。また警察が来る前に、それは洗い落とされる必要がありました」
叩きつけるような雨音の中でも、淡々と語る彼女の声は、明瞭に響いた。ほかには誰も、口をきく者はいなかった。
水を満たした、巨大な瓶の前に、白いスリップ一枚でたたずむ姿は、失われた古代祭祀の生贄を想わせた。
「なくした鍵は、常に最も単純な所に、隠れているものです。ご覧ください」
次に勅使河原美架がとった行動は、彼女自身が言ったとおり、あまりにも単純なものだった。歩数にして、ほんの五、六歩……
彼女はゆっくりと足を進め、瓶の裏側に立った。
「あ……っ!」
誰が叫んだのかわからない。あるいは、私自身だったのかもしれない。
蝶の刺青は、左右が反転していた!
彼女のあらわな右肩に、たしかにそれは、びっしりと彫りつけられていた。水を透した蒼い光が、彼女の全身に映えて、まるで水中をたゆとうように見せていた。
いまや、瓶詰めの蝶々と化した美架の声は、遠い冥界から響いてくるように思えた。
「子供たちの間で、密かに囁かれているようなこと……水を満たしたコップの裏にものを置けば、その像は反転されます。大がかりな、鏡のトリックを用いるまでもなく」
引きつったような笑い声が響いたのは、そのとき。




