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瓶詰めの蝶々 第七十六回(解答篇ノ三)

 また雷鳴が、地を揺るがした。どこからか、鏡の割れる音が聴こえたような気がしたが、幻聴だったのかもしれない。

 激さを増す雨音にともない、不可解な薔薇の芳香も、いっそう香りを強くするようだ。

 今すぐに、ここから出るべきだ。

 そんな言い知れぬ危機感が、私を居たたまれなくさせた。

「鏡の家……」

 誰がそうつぶやいたのか、わからない。ひょっとすると、私だったのかもしれない。絵の前から、美架が振り返ると、高木は眉間に苦しげな皺を寄せた。

「あなたの仰言るとおりですよ、勅使河原さん」

「警部補、あなたはわたくしと違って、聡明でありすぎたのではございませんか。だから」

「だから?」

「この悪意に満ちた壁画の前で、すべてを投げ出された。それこそ、妖精の鉄槌に打たれたように、呪縛されてしまわれた。九十九パーセント真相に到達していながら、です」

 嵐を孕んだ雲のように、かれの表情に、動揺が広がった。

「何者が、私を呪縛したのでしょう?」

 かれを見据えたまま、表情を変えずに美架は言う。

「リチャード・カッシング」

「えっ?」

「悪魔の正体が、かれであることは間違いありません」

「でもきみは、カッシングはもう生きていないと断言したじゃないか。おそらくは、すでに殺されていると」

 うっかり口走ったあとで、後悔に苛まれた。高木と小須田が、驚きの表情を隠せないまま、私を注視していた。

 雨音を縫って、美架の声が静かに響いた。

「わたくしはただ一人の、本当の悪魔の名を挙げただけです。けれど、かれが芸術家だから、病んでいたから、悪だと言うつもりは毛頭ございません。それらである以前に、カッシングは悪の要素をはらんでいた……いえ、悪そのものであった」

「悪……そのもの」鉛の塊を吐き出すように、高木がつぶやいた。

「そうとしか、説明できませんもの。ですから、殺された由井崎怜子さんは、かれの贄として供せられた。そして殺した犯人もまた、画家の犠牲者の一人だったと考えます」

 あるいは犯人こそが、最も気の毒な犠牲者だったのかもしれません。美架は確かに、そう付け足した。

 高木が言う。

「では少なくとも、由井崎怜子を“物理的に”殺害した犯人に関して、私とあなたの見解は、完全に一致する。そう考えて宜しいのですね」

「その通りです、警部補」

「誰なのですか?」

 彼女は「鏡の国」の壁画から離れ、巨大な捕虫瓶と正面から向き合った。水を照らし出す光が、異界の生き物のように、彼女の肌を真っ蒼に染めた。

 哀しみを吐露するように、彼女はつぶやいた。


「井澤絵莉子」


 沈黙が続いた。


 奇形の屋根に叩きつける雨の音も、どこか次元を異にする世界で鳴っているようだった。調律の狂った、妖精の楽器を掻き鳴らすように。

 乾ききった声で、小須田が叫んでいた。

「ちょっと、待ってください! 本当に高木さんも、同じ意見だというんですか?」

 どこか放心したように、かれはうなずいてみせた。

「不可能だ……勅使河原さん、あなたは犯人が被害者を演じたと言った。北村さんが見た時点で、被害者はまだ殺されておらず、瓶の中にいたのは、彼女の背後から忍び寄ってきた、犯人自身にほかならなかった。そうですね?」

「そうです、刑事さん。不可能でしょうか?」

「あなたの言うとおり、可能だと思いますよ。北村さんの先廻りをして、瓶の中に入るだけなら。だけど……」

 由井崎玲子の刺青は、“右肩に”ほどこされていた。

 誰がつぶやいたのか、わからない。けれどもその一言は、鉄槌を頭から打ち下ろされたように、私に衝撃を加えた。

 だから……

(鏡ですわ)

 だから……高木は最後の小部屋に、“鏡”がなければならないと考えた。犯人は“その女”であると確信した以上、必ずそれは隠されているはずだった。

 そうだ。

 瓶の前面を暗幕か黒い衝立で覆い隠し、それを映しだすための大きな鏡を、横に設置する。ちょうど小部屋の入り口から覗いた時、黒い空間に瓶だけが、ぼうっと蒼く浮かび上がって見える。

 紅葉は、けれどそれが鏡像だとは気づかない。そして、肩にほどこされた蝶の刺青は、

 左右が反転しているはずだ。

 が、しかし、実際に“鏡”はそこになかった。高木の思惑を嘲笑うような、卵男の絵が出現したばかりで。

 私と同じ疑問を、小須田が口にし終えたところだ。凍るような沈黙の底から、皆が石化したように動かない、勅使河原美架を注視していた。

 ガラス玉を想わせる、虚ろな目をした彼女は、辺境の舞踏にも似た動作で右手を挙げた。

 人さし指で、軽く下唇をなぞった。

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