瓶詰めの蝶々 第七十四回(解答篇ノ一)
家から十メートルほど手前で、美架はまた立ち止まった。
「ここで、井澤絵莉子さんから紅葉ちゃんへ、鍵が手渡されたのですね」
「そうです。井澤はブルカに似たフード状の黒服を、頭からすっぽりと被り、北村の前では一度も脱いでいない」
敬称を略しつつ、高木が要領よく答える。すでに私のシャツは、肌に貼りつきつつあり、堀川は脱いだ背広を頭上にかざしていた。
「承知しました」
空想の鍵をつまむ仕草をみせて、さらに彼女は先へ進んだ。その虚ろな目を見れば、これほど降っている雨にも、気づいていないのかもしれない。
鋲が打たれた、御伽噺めいた扉もまた、いびつに歪んでいた。閉ざされているが、南京錠は鑑識にでも回されたのか、除去されたまま。
美架はなかば身を屈めて、錠を鍵で開ける仕草。
「鍵は確かに、かかっていたのですね。紅葉ちゃんがそれを開き、中へ入ります。鍵のほうは、南京錠とともに、ここに残されました」
高木が無言でうなずくと、彼女はみずから扉を開いた。ぎ、ぎ、ぎ、と陰鬱な音が鳴る。潜るときは、腰をだいぶ屈めなければならなかった。窮屈そうに身を縮めながら、堀川が減らず口を叩く。
「まるで江戸時代の銭湯だ。柘榴口だよ」
「十歳くらいの少女が、ちょうど立って通り抜けられる高さなのだとさ。ここへ入るのは、不思議の国のアリスしか許されない。そんな意味なんだろう」
たちまち蒼い薄闇に包まれ、前方にぼんやりと、ライティングされた絵が浮かんでいた。うわーん、と、雨音が低く反響している。
私がゾッとしたのは、洞窟に紛れ込んだように、外よりぐっと気温が落ちたせいばかりではない。人面の蜘蛛を描いた、絵のおぞましさもさることながら、高木の淡々とした説明が恐ろしかったのだ。
最初から“アリス”を捕えるために、この家は設計されたのか。
「いいえ、警部補。アリスは茸を齧るだけで、体が伸びたり縮んだりしますわ。もしもここが、不思議の国なら」
謎めいた指摘のあと、彼女は言葉を継いだ。
「再度確認しておきたいのは、紅葉ちゃんが鍵を開けるまで、誰もこの中へ入ることができなかったか? ということです」
「あなたが先に定義したように、鍵が一本しかなければ、イエスです。遅くとも晩餐会の開始以降、鍵の唯一の所有者である井澤絵莉子は、常に人目に晒されていました」
ゆえに高木を除いた刑事たちは、鍵が二本あった方向で捜査を進めている。そう若い刑事(小須田という名を後で知った)が付け足したが、まるで聴こえなかったかのように、ぽつりと美架がつぶやく。
「絵莉子さんが人前にいる間は、被害者もまた存命していたのですね」
昏い、迷路が続いた。
おぞましい作品の数々については、もうあまり触れたくない。そもそも途中から私は、意図的に視界に入れないようにしていた。ひとたび見入ってしまえば、二度と戻れない場所へ、引きずり込まれそうだったから。
現に、絵の中からこちらを見返す、生々しい視線を感じたのは、一度ではない。
美架は、一つ一つの作品を丹念に眺めては、次へ足を運ぶ。身体を使って紅葉の行動を再現し、確かめているかのように。
時おり彼女は、作品の前から不意に振り返る。怯えるように目を見開いたさまは、モノの気配を感じたようで、そのたびにハッとさせられた。いや私自身、招かれざる客への怒りを露わにした画家が、今にも追いすがってくるような予感に、始終苛まれていたのだ。
彼女につられて振り向くと、二メートルにも満たないところで、迷路の壁が視界を遮っていた。言い知れぬ閉塞感に見舞われ、何者もここへ紛れこんだ者は、先へ先へと進まざるを得ないのではないかとさえ、考えた。
角を曲がる。迷路画廊は、その先で行き止まりになっていた。
「十一番めの作品、『妖精の鉄槌Ⅱ』です」
行き止まりの壁に、絵がかかっている。一〇八匹の醜怪な妖精が描かれているという、遠目にも緻密な作品で、よほど顔を近づけなければ、鑑賞できないだろう。事実、彼女はぐっと身を屈め、鼻をくっつけんばかりに、カンバスに顔を近づけている。
そうして初めて、左側の壁に、ぽっかりと四角い穴が穿たれていることに気づいたのだ。
覗き込んだ瞬間、眩暈を覚えた。穴蔵の奥に、ぼんやりと、蒼白く照らされているものがある。
瓶だ。
水で満たされた巨大な補虫瓶が、闇の中にうずくまっている。右肩に蝶の刺青を彫られた、真っ白な女の裸身が、水の中で人魚のように揺蕩う幻影が瞬時、浮かんで消えた。
けれどもそれ以上に私を戦慄させたのは、次の美架の一言だった。
彼女は十一番めの絵に顔を近寄せたまま、こうつぶやいた。
「犯人はこのとき、わたくしの……すなわち、紅葉ちゃんの背後から忍び寄って、瓶のある小部屋へ入りました」
高木と堀川が同時に、首を絞められたような呻き声を洩らすのを、私は聴いた。




