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瓶詰めの蝶々 第七十回

 またカップを口へ運び、宙を睨む仕草。高木の敗北は、彼女の敗北でもあったというのか。

「じゃあ、きみには警部補がなぜ、あれほどまでに打ちのめされたのか、わかるのかい」

「よく理解できます。あり得ないことですが、犯人はまるでこのことを予期して、“鏡の家”を建てたかのようです」

「密室殺人を遂行するために、あの家は設計された?」

「ですから、それは考えられないのですけど。十三番めの絵は、トリックを追って、瓶の据えられた最後の部屋まで辿り着いたわたくしたちを、嘲笑い、打ちのめすための仕掛けだった。そう思わざる得ないほど、悪魔的な意図を感じます」

(そんな、ばかな……あり得ない)

 一度も会ったことがない高木という男が、愕然とひざまずく姿を、私は目の当たりにする思いがした。

「鏡の家の設計は、ほぼカッシング独りの手によると聞いた。きみの言う悪魔的意図とは、つまり呪われた画家の意志ということ?」

 画家はすでに死んでいる。おそらくは殺されて。彼女はそう予言したばかりではないか。

 カッシングの怨霊は、意志を物理的に行使する力を保ったまま、今も鏡の家の中に潜んでいるのだろうか。美架は言う。

「建築家の意志が死後も生きていて、その家に棲む者を殺してゆく……一種の建築トリックと呼ぶべきものをご存じですか」

「小説でなら、幾つか読んだことがあるなあ。家そのものが、殺人のための装置となっているとか」

「風水や家相をわざと最悪のものにするという方法も、何かで読みました」

「そこまでいくと、現代の観点では犯罪とは呼べなくなるね。殺意はあったにせよ、何ら物理的な力を行使してはいない。昔は呪術を行った証拠が出ると、皇族でさえ流刑や、へたをすると殺されたみたいだけど。もはや、呪いは罪にならない。丑の刻参りを発見されたところで、せいぜい器物破損くらいじゃないか」

「催眠術や洗脳も、限りなくグレーゾーンなのでしょうね」

「でも今回のケースは、被害者を瓶詰めにするという、大掛かりな物理的演出をともなう。いくら密室だからといって、亡霊や機械の力では不可能だよ。生きた人間の手で行われたことは、間違いない。間違いないと、思いたいよ。ちょっと失礼」

 私はトイレに立ち、ついでに居間へ寄って、幾つかの電子メールを処理した。テーブルの上に、大きな青い蝶が一匹、止まっていることに気づき、覚えず息を呑んだ。

 昨日、上野の博物館にふらりと立ち寄った折、衝動買いした模型だということを、間もなく思い出した。多少値が張ったが、翅の薄さや光沢も本物そっくりな、ミヤマカラスアゲハ……

 無造作に、模型をポケットに入れて戻った。冷蔵庫を開けて、三本めのビールを手にした。ついに手をつけなかったチーズの代わりに、先ほどのスパイス料理が、小皿に盛られていた。

「何という料理だっけ?」

「南瓜と里芋と人参のサブジです」

 黄色と白と赤の野菜が、スパイスでしっとりと纏められたさまは、複雑な香りと相まって、食欲をそそった。上から散らされている緑の葉が、お互いを鮮やかに彩っていた。それはインドふうにコリアンダーリーフ、タイ料理ではバクチー、中国では香菜と呼ばれるらしく、彼女によれば、

「単独では悪臭以外の何ものでもありませんが、スパイシーな料理と合わせると、魔法のように香りが引きたちます」

 私はビールをひと口飲んでから、箸をつけた。南瓜はまだ温かく、ほっこりと箸に割られた。私もそうだったが、後で聞いた話によると、美架もこの時点で忘れていたという。

 例外的に大量の粉唐辛子が含まれていることを。

 最初は旨い、と感じた。ほんのりとした甘味に、スパイシーな刺激が絡みついてくる。この快感が、次々と不吉なカードをめくるように、苦痛へと変換されていった。

 言ってしまえば、快感とは、ほどよい苦痛なのである。愛撫されれば気持ち好いが、つねられると痛い。音楽にうっとりする一方で、工事現場の騒音は耐え難い。神経が同じプロセスで刺激に反応しているだけなのに、誰もがいっぱしの美食家を気どって、快と不快の分別に余念がない。

 とはいうものの、修行の足りない凡人の身に、辛いものは辛い。じわじわと、確実に、地獄の底から湧き上がる炎に胸を、咽を焼かれて、私はメフィストフェレスのように煩悶した。

「ぐっ、わ……」

 缶ビールに手が届く直前、美架がそれを引ったくった。

「な、なにを?」

「辛抱なさって。すぐに水をお持ちします!」

 大ぶりのグラスに、なみなみと満たされた水を、私はひと息に飲み干した。神経の火はしだいに鎮火して、汗みずくの自分が意識された。美架が二杯めを運んでくる頃には、ちょっとずつならサブジをつまめるくらい、回復していた。

「およしになったほうが」

「うん。咽もと過ぎれば何とやらで、食べずにいると、今度は口淋しく感じる。味覚的にマゾヒスティックな状態におかれるのだろうか。激辛には興味なかったけど、ジャンキーっぽくなる気持ちが、ちょっとわかったよ」

 肩をすくめて、美架はグラスをテーブルに置いた。結露した無地のロックグラスには、やはり水がいっぱいに湛えられたまま。

「そうそう、こんなものを見つけたんだよ」

 私はポケットから例の模型を取り出してみせた。

「なかなかよくできているね。最近の加工技術には、目を見張るよ。花壇にでも置いておけば、小さい子なんか、捕まえようとするんじゃないか」

 模造品であることを示すつもりで、片方の翅をとってみせた。そのまま手の内で弄んでいる間、勅使河原美架は黙りこんでいた。 

 沈黙は五分あまりも続いた。

 ようやく不審に感じて顔を上げると、これ以上ないくらい見開かれた、彼女の目線とぶつかった。

「どうか、した?」

 瞠目したまま、彼女は人さし指で、ゆっくりと下唇をなぞった。

「最後のピースが見つかりました」

「ええっ?」

「酒井さん、堀川さんにお伝えして、明日、高木警部補に会えるよう、段取りしていただけますか。それとできれば今夜じゅうに、被害者に彫られていた刺青の写真が欲しいのです。ファックスで構いません」

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