瓶詰めの蝶々 第六十九回
「ちょっと、失礼します」
少し慌てた様子で、フライパンの蓋を取った。中身を軽く掻き廻し、彼女はおもむろにポケットから小瓶を取り出すと、明らかにオリジナルとおぼしい、謎のスパイスを振りかけた。
たちまち爽やかな香りが、すっと鼻を刺激した。再びターナーで掻き混ぜたあと、蓋をして、火が落とされた。例の小瓶は、すでにポケットの中である。
「い、今のは?」
「べつに毒ではございません。ガラムマサラという名で、普通に市販されている複合スパイスですわ」
インド料理の仕上げによく使われるのだと、今さら知った。現地では、家庭ごとに代々、秘伝のレシピが受け継がれているという。ならば、彼女が隠し持っていた小瓶も、遥かなる天竺の家庭から盗みだされた秘法なのだろうか。
「何と何を混ぜたもの?」
おそるおそる尋ねた。拷問にでもかけなければ口を割らないと思いきや、彼女はあっさり白状に及んだ。
「カルダモンとシナモンとクローブを、十対七対三の割合でミックスしたものです。このまま食事になさいますか?」
「まだそんなにお腹が空いてない。できれば、話の続きが聞きたい」
「では、お茶を淹れましょうか」
「ビールが飲みたいな」
彼女は苦笑いして席を立ち、缶ビールを冷蔵庫から出してきた。爪楊枝を刺したチーズをそれに添えて、自身はティーカップの前に腰を落ち着けた。
私の不規則極まりない食事習慣は知悉されている。ほとんどの料理はラップがかけられ、あるものは冷蔵庫に収まり、あるものは温めるだけの状態にあった。
「責めるためだと、きみは言ったね」
「はい」
「櫻井晃子が髪を切ったのは、いったい何者に対する抗議だというの?」
プルタブを引く。この音を聴くときの、一瞬の快楽のために、夏場はどうしても、これが手放せなくなる。
「カッシングを殺害した者への」
私は泡に噎せかけた。
「画家はすでに死んでいると? しかも殺されて……?」
「それ以外の可能性は、考えられませんわ」
北半球では夏が暑い、といった当たり前の話をする口調なのだ。
「誰に殺されというの? 絵莉子? それとも、被害者の怜子に?」
「わかりません。それこそ、人情の機微というものですから。エルシーとレイシー、二人のうち、どちらが犯人でも不思議ではありませんし。あるいは二人が手を携えたとしても、驚くには値しないでしょう」
「いや、驚くだろう、おれなら驚く。二人が共謀して、画家を殺していただなんて」
軽くアルコールが廻り始めた私の頭に、二人の女の裸身が浮かんだ。顔はわからない。ただ二人とも、長い豊かな髪の持ち主で、肩には蝶の刺青が痛ましく、そして美しく貼りついている。
一人は右肩。もう一人は、左肩に。
二人の女の間にはベッドがあり、男が一人横たわっている。二人はお互いにロープの端を持ち、それはベッドの中で外国人らしい、男の首に巻きついている。すべてが終わった後であり、表情に断末魔を宿したまま、男はぴくりとも動かない。
女たちは、死体越しに顔を見合わせ、凄絶な笑みを交わす。
「自由を得るために、殺した?」
「無論ですわ」
そうして彼女は、誰に言うともなく、ぽつりと付け足した。
「片方の翅だけでは、蝶は飛べませんもの」
冷たい戦慄を背に浴びながら、私はビールを飲み干し、立とうとする彼女を制して、冷蔵庫へ向かった。たいして酔ってもいないのに、足がふらついた。
エルシーとレイシー。左肩と右肩に片方ずつ蝶の刺青をされた二人が、手を携えれば飛べるということか。暗い井戸の底から、花咲く地上へと……
「だが、一対以上の翅があっても、バランスを崩して蝶は落ちてしまうだろう」
またプルタブを抜く私を、カップをソーサーごと宙に留めたまま、美架は無言で眺めた。冷えすぎたビールをあおり、私は続けた。
「だから櫻井は、自分と同じ右肩にタトゥーのある由井崎怜子が邪魔だった。同様に翅を背負った“三姉妹”の一人でありながら、彼女ばかりが、家政婦の地位に甘んじなければならないことを、不公平に感じていた。だから……」
怜子を殺せば、自身が右側の翅になれる。絵莉子とともに手を携えて、自由に飛べるだろう。
我ながら論理性に欠ける推理だが、そもそもこの奇怪な事件に、どれほどの論理が通用するのだろう。美架が尋ねた。
「酒井さんのお考えになる、“自由”とは?」
「具体的には、カネだな。カッシングの遺作のほとんどが、売却の手続きに入っていたというじゃないか。井澤絵莉子が窓口となって。けれど、もし、怜子がそれに反発していたとしたら」
「山奥の屋敷とともに朽ちてゆくことを、由井崎さんが望んだ?」
「もと映画女優だからといって、派手な暮らしに戻りたがっているとは限らない。それこそ、きみの言う人情の機微というやつで」
「怜子さんだけが、画家を愛していたから? 愛している男を、かれを憎んでいる女と共謀して、殺したのですか」
「そこまでは言ってないよ。単純に、遺産の分配に関する三つどもえのトラブルと考えたほうが、自然じゃないのかい」
美架はカップをソーサーごと、静かに置いた。
「酒井さん、今夜はとても冴えていらっしゃいます」
受け取り様よっては、ばかにされたともとれる言い廻しだが、私はおおいに気分を好くした。
「一つわからないのが、高木警部補による第二番めの実験だよ。櫻井が長い髪を隠していたことに関しては、おおいに我が意を得たんだが。さっきも話したとおり、おれの考えでは、あの壁に何があろうとなかろうと、密室は崩せるはずなんだ。なのに、なぜ『アリス』の壁画が今さら出てきて、高木氏をあれほど驚かせたのだろう」
「『アリス』の物語自体に、三番めの妹は登場しませんものね」
謎めいた言葉をつぶやいて、紅茶をもう一口。それから美架は語を継いだ。
「じつはわたくしも、高木警部補と同意見なのです」




