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瓶詰めの蝶々 第六十八回

「きみが神秘主義者だなんて、堀川さんに言っても信じないだろうね」

 フライパンに蓋をして、火をごく弱めに調整すると、彼女は振り向いた。わざと怒気を含ませた表情が、みょうに絵になる。指揮棒のようにターナーを振りながら、唄うように言った。


 きっぱりといいきろう。

 不思議はつねに美しい、

 どのような不思議も美しい、

 それどころか不思議のほかに美しいものはない。


 蒸し上がるまで、十五分程度だとか。ただ、火加減や野菜の種類・量で変わってくるので、失敗しながらセンスを掴むしかない。などという説明を聞き流しながら、私はダイニングテーブルに腰を据えた。

「しかし、わからないことだらけだね」

「極めてシンプルな料理かと。ただ、出汁を使わないという点で、和食の常識に慣れた日本人には、奇異に感じられるかもしれません」

 と、自身がインド人みたいなことを言う。

「いや、事件の話さ。実際、北鎌倉のあれを思い出すよ」

 食器を洗う彼女は振り向かない。

「そうですね。わたくしも、似ていると感じます」

「率直に訊くけど、きみにはもう、密室の謎が解けているのかい?」

 皿の触れ合う音が止まった。見れば流水に手を浸したまま、彼女は宙を睨んでいた。

「いいえ。最後の一つのピースが、どうしても見つかりません」

 逆に言うと、彼女の頭の中で、奇妙な密室のジグソーパズルは、ほぼ完成していることになる。

 けれど、ここで犯人の名を聞き出そうとしたところで、彼女のポーカーフェイスは崩せまい。手持ちのカードを覗かせてははくれないだろう。そのへんもまた、古風な小説の探偵を想わせ、必然的に私は、「愚かなワトソン」を演じざるを得なくなる。

「櫻井という家政婦ね、どうして彼女はずっと長い髪を、隠し続けてきたのだろう。ついに高木氏は、理由を追及しなかったようだけど」

 追及どころか、腑抜けみたいになってしまったという。

 堀川の情報によれば、十三番めの作品……『鏡の国のアリス』の挿絵が壁の中からあらわれた瞬間、かれはがっくりと、膝をついた。

(そんな、ばかな……あり得ない)

 まるでカッシングの亡霊に、頭上から鉄槌を振り下ろされたようだったという。敗北という名の鉄槌を。

「なぜでしょうね」

 美架にしては珍しく、煮え切らない言い草である。私は勢い込んで、考えに考え抜いた自説の披露にかかる。

「思うんだけど、櫻井という家政婦が、あらかじめ“鏡の家”に隠れていたんじゃないかな」

「事件の夜に、紅葉ちゃんの先廻りをして、という意味でしょうか」

「うん。そうして服を脱ぎ、ウィッグも取って瓶の中に入っていた。水を張らなくても、蒼い照明でぼんやりと照らされていたわけだし、整髪料を多めに使えば、髪の毛を逆立たせられるだろう」

「つまり、紅葉ちゃんが見た死体というのは……」

「家政婦だよ。顔は違うけど、曲がったガラスを透せば、歪んでしまうだろう。何といっても、右肩の蝶の刺青と、長い髪という特徴が一致するから、北村さんはそれが由井崎怜子だと思い込んだ」

 美架は振り返り、私の目をまともに覗きこんだ。我ながらあまりに突飛な考えだったので、一笑に付されるのを恐れていると、彼女は真剣な面持ちのまま、先を促した。

「それから?」

「紅葉さんが逃げ出すだろう。外で待っていた井澤絵莉子に、何を見たのか告げて、気を失うだろう。ただこのとき、絵莉子はカラスのお化けみたいなフードをすっぽりと被っている。だから」

「だから?」

「中身は絵莉子じゃなく怜子……被害者だった可能性だって高い。いや、そう考えるほうが自然なんじゃないか」

「なぜでしょう」

「次に鏡の家の中に入ったのが、彼女だからさ。紅葉さんが鍵を開けたドアから、ね。中で待っていたのは、カッシングのステッキを構えた櫻井晃子だった……」

 次に訪れた沈黙の中で、その情景がありありと浮かぶようで、私はぞくりと肩を震わせた。美架が言う。

「ただ、櫻井晃子のアリバイは、トビイという少年によって証明されておりますが」

「知能に障害があって、まず嘘はつけないというね。でも、何らかの方法で、暗示にかけることはできるだろう。家政婦と跡片付けをしたことが、本当のできごとのように、思い込ませるために」

「動機は何でしょう」

「有り余るほど、あるだろうね。彼女はただの家政婦でなく、井戸の中の三姉妹の一人だったのだから」

 美架は静かに目を伏せた。

「慧眼ですわ」

 意外なお墨付きに、私は胸を躍らせたことを告白しておく。すっかり名探偵の仲間入りした気分になって、彼女に疑問点をぶつけるのだった。

「それでもわからないんだなあ。櫻井が伸ばした髪を、ウィッグで隠していた理由が。以前からこの方法で、由井崎を殺害する計画をたてていた? それにしては、三人の大学生の来訪はあまりにも偶然すぎる」

「あくまで推測ですけど」

 美架は人さし指を、軽く下唇に添えた。

「櫻井さんが長い髪を隠すようになったのは、カッシングの失踪後かと思われます。画家が家にいた頃は、肖像画にあるとおり、ロングだったのでしょう」

「彼女なりに、喪に服していたってこと? 画家に愛情を持っていたから?」

「人情の機微については、深入りできませんわ。不可解なのは、なぜ伸ばした髪を、ウィッグで隠していたのかという点でしょう」

「そうだね。なぜだろう?」

 すっかりワトソンに戻って、私は尋ねた。蛇口をしぼり、両手をエプロンできゅっと拭いてから、彼女は答えた。

「責めるため、だったのでしょう」

 スパイスの香りが、妖しく漂っていた。

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