瓶詰めの蝶々 第六十七回
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もしも、勅使河原美架が粉唐辛子を入れ過ぎなかったら、事件の真相解明はもう少し、遅れたかもしれない。
七月三十一日、木曜日。
不可解極まりない高尾山の密室殺人事件は、火曜日における、“フェル”高木警部補の決定的な敗北のあと、完全な膠着状態のまま、事件から一週間が、むなしく過ぎようとしていた。
もっとも、私にはいったい高木が何をもくろみ、どういうわけで敗北を喫したのか、皆目見当がつかない。堀川秋海も同様で、不可思議な“実験”の真意を、しつこく問い質しているようだが、頑として口を割らぬらしい。
結局、家政婦の髪の毛と、『アリス』の壁画という二つの新たな謎が、私たちの前に、奇怪なオブジェのようにごろりと転がり出ただけである。
「きみはどう思う?」
ちょうどこの日は契約どおり、「私の」家政婦が尋ねて来る日に当たっていた。彼女が料理を終えれば、話し合う時間はたっぷりあるのだが、私は待ちきれず、居間からダイニングに向かって声をかけずにはいられなかった。
「新たな事実だか謎だかわからないけど。それらは密室の謎を解く、重大な手がかりになるのだろうか」
そのときである、彼女がキャッ! と、あでやかな悲鳴を上げたのは。
勅使河原美架の悲鳴など、めったに聴けるものではない。元ラグビー部で網走帰りという新聞拡張員を、ひと睨みで撃退する女だ。包丁で指をざっくりやったか。あるいは、とある昆虫が予想以上に苦手なのか。
「おい、きみ。だいじょうぶか?」
ダイニングに駆けこむと、美架は蒼ざめた顔で、いやそれはいつも通りだが、私を振り向いた。背を丸め、庇うようにしている右手の人さし指が、真っ赤に染まっていた。
「怪我を?」
「いいえ、よくご覧になって。カイエンペッパーです」
エキゾティックな香り漂う名称だが、私には庶民が蕎麦に振りかけるそれと、区別がつかない。要するに一味唐辛子であり、彼女の指が赤い理由は、近くに置かれた小瓶を見れば、一目瞭然だった。
たしか買ったばかりのそれは、すでに三分の一ほど目減りしていた。
「内蓋が外れていたことに、気づきませんでした」
「よくある話だね」
「酒井さんは、激辛系は平気でしょうか」
「は?」
訴えるような三白眼が、間近で私を見上げていた。険しいばかりでなく、どこか言い知れぬ艶を含んだ眼差し。網走帰りの巨漢を睨み返す理由が、少しわかる気がした。彼女は言う。
「もったいないのです。ほかのスパイスは、すでに調合済みでしたから」
彼女が指し示したのは、いつか私が深大寺で落手した、大ぶりのぐい飲みである。焼き物への見識など全く持たない、無粋の塊のような田舎者だが、みょうに気に入って衝動買いしたシロモノ。その中で、赤、黄、茶、白の粉が、なかば混ぜ合わされていた。
赤組の圧勝であることは、言うまでもない。
後に聞いたところによれば、コリアンダー(茶)、クミン(茶)、ターメリック(黄)、塩(白)が、コリアンダーのみ二倍の分量で調合されており、予定では、粉唐辛子は軽く一振りか、二振り程度に留めておくつもりだったとか。
私は早くも、耳の後ろに厭な汗が滲むのを意識した。
「ま、まあ、たまあに、辛いものが無性に食べたくなるときは、あ、あるかな」
「それが今日であることを祈ります」
問答無用であった。
「でもだいじょうぶですわ。食材のほうは、南瓜に里芋に人参ですから、もともとたっぷりと甘味を含んでおりますでしょう。わたくしの予想では、酒井さんがこれを食べても、断末魔にのたうち廻ることはあり得ないと存じますわ」
と、何がだいじょうぶなのかわからない。おそらく冗談のつもりだろうが、彼女のジョークはロートレアモン伯爵の詩よりも難解である。
見れば、それらの食材はすでにカットされ、笊の中で色鮮やかに同居していた。南瓜と里芋はごろんとした乱切り。人参は薄めの拍子切りである。
「で、何を作るの?」
「サブジと申します、北インドの家庭料理ですわ。このように和食的な組み合わせは邪道なのですけど、美味しいのだから仕方ありません」
「それには大いに同意したいね」
スプーンも箸も用いず、彼女は自身の指でぐい飲みの中身をよく掻き混ぜた。それからフライパンに火を入れ、オリーブ油とヒマワリ油のミックスだとかいう、市販の油を多めにたらした。
ありふれた草の実のようなものを適量、油の中に落下させると、ぱちぱちと弾け、エスニックな香りが立った。
「それは?」
「クミンシード。好い香りでしょう」
ここで笑顔の一つでも見せてくれれば、じつに絵になるのだが、むろん彼女はニコリともしない。ターナーで器用に炒められてゆく、赤、黄、緑、白の根菜類を睨みつけたまま、魔女めいた手さばきで、ぐい飲みの中のスパイスを振りかけた。
「ノウマクサマンダバザラダンセンダマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン」
「呪文っ!?」
「不動明王慈救呪ですわ。こうすると失敗する確率が減り、滋味が増すのです」
フライパン下から炎が踊り上がり、憤怒相の鬼神の姿が、一瞬、ゆうらりと立ち現れた気がした。




