瓶詰めの蝶々 第六十六回
黒いフードが後ろへ取り去られ、豊かな黒髪が、ふっさりと溢れた。じっと高木を見返す表情は、どこまでも生真面目だ。
「承知いたしました」
小須田は、驚き声を押し殺すのがやっとだった。高木がそこにあると確信したもの。その存在を、絵莉子は認めたのだろうか。
何があるのか、かれには見当もつかないが、もしそれがあった場合、彼女にとって、極めて不利な物証になる。櫻井晃子の頭髪の一件とセットになって、井澤絵莉子への刃となるであろうことは、高木の態度からも察せられた。
自身を貫く刃を、彼女はみずから刺客の手に委ねようというのか。
彼女は音もなく歩を進めた。家政婦といい、この家の女たちは猫のように、なぜこうも易々と足音を消して歩けるのか。最後の小部屋に入ると、まがまがしい、巨大な瓶の前に立ち、体ごと振り向いた。さっき高木がしたのと同じように、右手で壁を叩いてみせた。
「あなたはこう仰言りたいのですね。ここに、それがなければならない、と」
「ええ」
「国家権力の手で、壁を剥ぐことも可能なのでは?」
「できれば、あなたの手で」
彼女は薄く微笑み、瓶に近づいて身をかがめた。そこに水を抜くためのレバーがあることは、操作方法も含めて、すでに彼女から知らされていた。
彼女はレバーを、水を抜くのとは逆方向へ押し込んだ。外見上、そちらへレバーが動かせるようには、とても見えないのだ。高木の口から、小さな呻き声が洩れた。
急に地面が揺れ始めたような感触が、小須田を慌てさせた。
ワンス・アップオン・ア・タイム・ゼア・ワー・スリー・リトル・シスターズ……
アンド・ゼア・ネーム・ワー・エルシー・レイシー・アンド・ティリー……
ゆっくりと、黒い壁が持ち上がってゆく。
「油圧だ」呆然と、高木がつぶやく。
瓶をメンテナンスする装置に、巧みに組み込まれていたため、これまで発覚しなかったのだ。
持ち上がってゆく壁は、けれど厚さ五ミリにも満たない。どんな素材でできているのか、舞台の書割ように、天井近くで巻き取られてゆく。むろん、薄い壁の後ろには、厳然として厚い壁が存在する。
だから、抜け道ではない。抜け道ではないが、表皮を剥がされてゆく壁の表面には、異様なものが、しだいに全貌をあらわす。
「ああ……!」
薄い壁が全て巻き上げられたとき、驚嘆の声を上げたのは、小須田ばかりではなかった。
壁画だ。
ほぼ壁一面を覆い尽くして、明らかにカッシングの真筆と知れる、壁画が描き込まれている。
「鏡の……」
呆然と、そうつぶやいたのは、北村紅葉とおぼしい。この絵が、『鏡の国のアリス』の有名な挿絵を模したものであることは、童話に疎い小須田にも認識できた。
絵の前面には、後ろ姿のアリスの全身像が、左に寄って立っている。ふさふさと背を覆う金髪を、ヘアバンドでまとめている。これはアリスバンドと呼ばれ、ストッキングのボーダーともども、『不思議の国』では描かれていなかった。
少女は右手をうんと上げて、目の前の塀の上に座っている、得体の知れない怪物と握手しようとしている。
ハンプティ・ダンプティ……
かれは、目鼻のある巨大な卵にほかならない。小ばかにしたように少女を見下ろし、口を閉じたまま、にんまりと横一文字に広げている。どこからが頭で、どこが首かもおぼつかないが、大きな蝶ネクタイを締めて、塀のてっぺんに座る姿が、いかにも危なっかしい。
こんな高い塀から落ちたのでは、卵男はひとたまりもあるまい。世にも凄惨な光景が現出する、その直前を切り取った絵のようにも思える。
もしも、この豊かな金髪の少女が、そのまま卵男の手をとり、引きずり下ろしたとしたら……現にカッシングの筆致は、童話の挿絵を忠実に模しながらも、数秒後に起こる卵男の惨死を予見させるような、悪意に満ち満ちていた。
「これが『鏡の家』に隠された、十三番めの作品でございますわ」
井澤絵莉子の落ち着いた声は、けれど小須田の耳には勝ち誇ったように響いた。次の瞬間、あろうことか高木が、がっくりと膝をつくのを、かれは目の当たりにした。
「そんな、ばかな……あり得ない!」
両腕をだらりと垂らし、目を見開いて、かれは穴が開くほど面前の壁画を見つめていた。まるで卵男の運命と、自身の現状を重ね合わせるかのように。




