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瓶詰めの蝶々 第六十四回

  ◇

「……さて」

 自嘲的に、かれがそうつぶやくのを、小須田は確かに聴いた。

「皆様にはお疲れのところ、朝からお集まりいただいて、たいへん申し訳ない」

 律儀らしく頭を下げ、額の汗を手の甲でぬぐった。七月二十九日火曜日、午前九時ちょうど。空は薄曇りで、異様に湿気を孕んだ風が、ひやりと肌を舐めて通る。

「鏡の家」の周囲に張られた、黄色いロープが揺れ、そこにとまっていた一匹のカワトンボを舞い上がらせた。どうしても、浮遊する霊魂を連想せずにはいられない、黒い翅が陰気に震えるさまを目で追いながら、竜也はここが流れの近くだということを、あらためて思い知らされた。

「これから、密室の種明かしをなさるのですね」

 鴉女の声にもまた、どこか嘲るような響きが含まれていた。頭のてっぺんから踵まで、すっぽりと覆う黒い異装は、あの晩の再現といえた。ムスリム女性の着るブルカと異なり、目もとではなく、唇だけを覗かせて。

 その唇が、真紅の、三日月の形に歪んだ。

「そう願いたいですな」

 高木は鴉女から目を逸らし、寒そうに肩を寄せ合っている、三人の大学生へ顔を向けた。

 ショートパンツ姿で、男ものの黒いパーカーをざっくりと纏い、フードまで被った北村紅葉は、井澤絵莉子と同じ秘儀に、これからたずさわるかのように見えた。おそらく、一人は祭司として、もう一人は生贄として……

 高木は続けた。

「だが、その前に、二点ほど、確かめておかなくちゃなりません」

 再び正面を向いたかれの目は、けれど、絵莉子のかたわらに立つ、櫻井晃子へと向けられていた。なかば家政婦の後ろに隠れ、トビイはかれの視線に怯えたように、不安げな目を見開いた。

 黒いタテガミのような、ぼさぼさの頭髪。蒼い顔。異様に長い腕に、極端な猫背。手負いの野獣のように、今にも唸りながら、踊りかかってくるようだ。

 切れ長の目を眩しそうに細め、家政婦は言う。

「わたくしにお話しでしょうか」

「ええ。昨日は重大なプライバシーにかかわる件でありながら、勇気をもって捜査にご協力していただいたことを、たいへん感謝しております」

 勇気という言葉に反応して、彼女が薄く微笑むのがわかった。小須田の脳裏に、被害者と同じように右肩を埋め尽くした蝶の刺青が、生々しくよみがえった。

 薄暗い部屋で披露された、絵莉子の左肩の刺青と異なり、それは玄関ホールの灯りのもとに、さらけ出された。磁器のように硬質な、白い素肌が上気してゆくにつれて、蝶の翅はカメレオンの皮膚のように色を変化させ、より鮮やかになってゆくようだった。

 飾り気のない下着姿の晃子は、身体検査を受けるように、両手を脇に垂らしたまま、無表情を保っていた。右肩に食らいついた青色の呪い。それは由井崎怜子の死体の上で見るのと異なり、生きた肌から養分を吸い続けているように思われた。

 沈黙という名の長い睨み合いのあと、高木は背広のポケットをまさぐり、潰れかけた煙草の箱を取り出した。

「映画館にふらりと入る癖がありまして。とくに、仕事に嫌気がさした時なんかはね。たしかあれは吉祥寺でしたか、あの小屋が閉館になったと最近、耳にしましたが、それで思い出したんですよ。二十年以上も前です。ヴィム・ヴェンダースの映画をやっておりまして、いえ、私は映画通でも何でもないんですが、ばんばん撃ち合うハリウッドものよりは、ブンガク的なほうが落ち着きます。ま、眠るにも手頃ですからな」

 いきなり雑談を始めた高木を訝るでもなく、家政婦は相変わらずの無表情で見返している。かれは煙草を抜き、指先でくるくると弄びながら言葉を継いだ。

「風変わりな映画でしたよ。いわゆる近未来もので、筋なんかもうろ覚えなんですが。なんでも夢を録画する装置が出てきて、別嬪の女優さんがそれを手に入れて、自分の夢に、麻薬みたいに溺れてしまうんですな。で、作家とおぼしい恋人が別嬪さんに自作の小説を読ませることで、中毒から立ち直らせる。コトバには癒しの効果があるというオチでしたか、今となってはタイトルも出てきません」

「『夢の涯てまでも』」櫻井がつぶやいた。

「ほお。ご存じならば話は早い。ボブヘアというんですか、あの女優さんは、最初ハイカラなショートカットで颯爽と登場。真冬なのに路面が灼熱していたりする、終末感漂う世界を、冒険活劇みたく駆け回るわけですなあ。ところが、映画が始まってもうだいぶ経ってから、その黒髪の鬘、ウィッグというんですか、そいつを脱ぎ捨てた。続いて豊かな金髪の長い巻き毛が、ふさふさとあらわれる。あの演出には、度胆を抜かれましたよ」

「何が仰言りたいのでしょう。わたくしは、ソルヴェーク・ドマルタンの足元にも及ばない、凡庸な家政婦に過ぎませんわ」

 高木は指先の煙草から晃子へ、ゆっくりと視線を移した。

「ウィッグをつけたままシャワーを浴びることは、もちろん不可能ではありません。が、決して一般的ではない。そしてどう考えても、事件当夜、藤本くんが別荘の浴室に居合わせたのは、まったくの偶然と思われます。ならば、ソルヴェーク……ドマルタンでしたか、あなたもまた、女優でなければならない」

 櫻井晃子の顔にあらわれていた薄い笑みが、見る間に広がるのを小須田は見た。瞬く間に枯野を覆い尽くす、野火をおもわせて。

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