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瓶詰めの蝶々 第六十三回

  ◇

 国立天文台が発表したこの日の東京の月の入りは、十七時二十二分。それからとうに五時間は経過していた。

 空は晴れて、黒々と浮かぶ樹木のシルエットの間に、星が狂ったようにばら撒かれていた。

 部屋の灯りを消したまま、彼女は窓枠に寄りかかった。窓とカーテンを開け放し、何も身につけていなかった。

 左肩の蝶は夜気を呼吸し、闇の中で息づくようだ。

 陰火のように、それが冷たい炎を発しないのが、むしろ不思議だった。

 彼女は眉根を寄せ、吐息を洩らした。右手で刺青に触れ、弾かれたように引き剥がした。まだわなないている、その手を凝視して、彼女はつぶやいた。

「生きている……こんな姿になってまで、おまえはまだ、飛ぼうとするのか」

 再び手を左肩に添えた。そのまま彼女は、がっくりとひざまずき、星あかりの射す、冷たい床の上にくずおれた。

  ◇

 からん、

 と、氷の音が、どこか遠くで鳴ったように、うつろに響いた。

 なみなみと“クロキリ”が注がれたグラスは、さっきから手つかずのまま。反して隣の灰皿には、吸殻がうずたかく積み上げられていった。

 かれが、新しい灰皿に取り替えたがらないのを知悉しているため、狐顔の女将は放っておくのだ。

 濃紺の地に白く、「雨月酒軒」と染められたのれんを、彼女が取り込んだのは、午前二時近く。客はすでにかれ一人しかおらず、日付がかわって七月二十六日、火曜日となっていた。

 相変わらず呆けたように、かれは紫煙をくゆらせていた。

 女将以外の店員の姿はすでになく、厨房の火もとっくに落とされているようだ。ひたすら煙草を喫んでいるばかりの酔漢に、けれども彼女は苦言を呈するでもなく、カウンターの隅に腰をおろすと、自身も細いメンソールを一本抜いた。

「あれは、むしろ……」

「むしろ?」

「おれにとって、決定的な事実といえた」

 誰にともなく発せられた、戯言に過ぎない。そんなものに、相槌を打ってしまったことに苦笑しつつ、女将はライターを擦り、自身の吐く紫煙の行方を見守った。

 こんなとき、かれの脳がフル稼働していることを、彼女はよく知っていたから。

「刺青があったのだ。家政婦の肩にも。その場しのぎに描いたものでないことは、井澤絵莉子の場合と同じように、確かめさせてもらった。彫り物だった。本物の、蝶のスミだよ。被害者の肩にあったのと、瓜二つの」

「それが?」

「決定的な事実というやつさ」

 かれが何を考えているのか、むろん彼女にはわからない。ただ漠然と合いの手を入れることで、フル稼働しているかれの脳に刺激を与え、「事実」を整理するのに役立っていることは、なんとなく理解していた。

 かれは、まざまざと思い出す。

 常に首まできっちりと覆われた、ブラウスのボタンを一つずつ外してゆく姿を。井戸の中の三姉妹、その第三の娘、Tillieが、その正体をあらわすさまを。

 蝶の刺青は、櫻井晃子の「右肩」に彫られていた。

 由井崎怜子と同じ、右肩に。井澤絵莉子の刺青とは、逆の肩に。

 それが、「決定的な事実」なのだと、かれは言う。女将がつぶやく。

「でも、アリバイがあるのでしょう?」

「そうだ、アリバイがある。だからこそ」

「だからこそ?」

 かれは答えず、満杯の灰皿の縁で、煙草をぎゅっと揉み消した。

「姐さん、あんたも子供時代は夢中で読んだくちかい?」

「アリス、ですか?」

「まあね」

「最初は嫌いでした、気持ち悪くて。アンデルセンなんかのほうが、わかりやすくて好きでしたね」

「気持ち悪かった?」

「テニエルでしたっけ。あのおどろおどろしい挿絵を見て、不気味に感じない女の子がいるかしら。内容も、ひたすらアリスが、恐ろしい妖怪どもに苛められる話でしょう」

 あらかた氷の溶けたグラスを睨んだまま、かれは口をつぐんだ。

 似ている、のかもしれない。

 ただ、少女へのサディスティックなまでの欲望を、『アリス』の作者が紳士の仮面で覆い続けたのに対し、カッシングは、もはや「少女」でなくなった、生身の女にぶつけた。

 メタモルフォーゼ。羽化した蝶の刻印を捺すことで。

「いまでも、あの童話が嫌い?」

 煙草を指に挟んだまま、女将は首を振った。

「アンデルセンはもう読みませんけど、アリスならたまに。それもなぜか年を重ねるごとに、『不思議の国』より『鏡の国』のほうが、気になってしまうんですね」

「鏡の国……か」

 窮屈な椅子の中で、ハンプティ・ダンプティのような体躯をもてあましながら、かれは箱に残った最後の煙草に火をつけた。喜劇的な風貌と相反して、かれの目は獲物を前にした蛇そのものの、暗い輝きを帯びていた。

「怪物め、明日こそ化けの皮を剥いでやる」

 空になった煙草の箱を、力を籠めて握りつぶした。

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