瓶詰めの蝶々 第五十九回
大正時代のポスターに劣らないほど、相変わらず顔色がよくない。私をみとめても、にこりともしない。
濃紺のワンピース。麻を混ぜた生地は涼しげだが、白い大ぶりの襟とカフスで、首と手首をきっちりと締めつけている。上からエプロンをつけるだけで、「仕事着」に早変わりしそうである。
地味なハンドバッグを握る手を、几帳面に揃え、彼女は軽くお辞儀をした。
「堀川さまから、肉を喰いに来ないかと」
辺りを見廻したが、かれらしい巨体はどこにも見当たらなかった。一時はとっくに過ぎていた。
しっかり遅刻する私も私だが、雇ってもいない家政婦まで呼びつけておいて、自身はなかなかあらわれない、堀川の面の皮のほうが、何十倍も厚いようだ。
堀川秋海と勅使河原美架とは、すでに面識があった。
例の不可解な事件が起きた北鎌倉で、かれらは初めて顔を合せた。私が彼女と、彼女の特別な才能を知ったのも、堀川という“妖怪”に媒介されてこそだ。考えてみれば、私たち三名が揃って突き顔を合せるのは、あの事件以来ではあるまいか。
「やあ、来ているな」
ハンカチで汗を拭きながら、堀川があらわれたのは、ようやく一時半。
「勅使河原くんも、お変わりなきようで。いや、前よりお美しくなられたか」
一言の詫びもなければ、美架にお世辞を言ったあと、馬鹿笑いする無神経ぶり。対して、彼女はやはりまったく表情を変えず、さっきと同じ角度で頭を下げた。
「ご無沙汰しております」
鳶色の夏スーツにアロハシャツ。白いハンカチをひらひらさせながら、堀川はさっさと店に入ってゆく。蝋細工の見本を横目で眺め、券売機に千円札を何枚も突っ込むと、勝手に次々とボタンを押した。
有名店なので、常に人でごった返しているイメージがあったが、この時間はみょうに閑散としていた。
入り口に近い、巨大な招き猫の隣のテーブル席に、堀川はどっかりと腰を下ろした。私と美架が肩を並べて座れば、かれの巨体越しに、ガード下を行き交う人々を眺める恰好。
普段入らないような店を選んだのは、堀川なりに、美架に気を遣ったのか。しかし、いったい何の用で? 疑問を口にしようとした私を、堀川は片手を上げて制した。
「話は飯が来てからだ」
間もなく、レトロなベストを着た「ボーイ」が、三人前の生姜焼き定食を運んできた。添え物の野菜が窮屈そうなほど、湯気をたてて肉が盛られている。すでにげんなりしている私の隣で、
「美味しそう」
と、彼女がつぶやくのを、たしかに聴いた。
「まあ食おうじゃないか」
勧めながら、堀川はもう肉を満載した大盛りの飯を掻っこんでいる。鉄面皮にして鋼鉄の胃袋。かれの食欲に反比例して、私のそれは半減してゆくのが常だ。
そしてかれの、ばりばりと食物を咀嚼しながら話すという芸当にも、常に身の縮む思いをさせられた。
「昨夜のことだ。八王子の呑み屋で、珍しい友人と出喰わしてねえ」
結露したコップの水を、がぶりと飲んだ。美架はというと、うつむき加減に黙々と箸を動かしつつ、時おり例の三白眼で、堀川を見上げた。右目のほうが白目がちなことに、私は気づいていた。
堀川は言葉を継いだ。
「もっとも、向こうじゃおれのことなんか、友達とも何とも思っちゃいまい。むしろ、疫病神と行き逢ったような顔をしていたなあ。ハッハッハ。ま、言っちまえば、そいつは高木という、本庁の警部補なんだがね。おれに負けないくらいの巨漢で、ほら、カーの小説に出てくる名探偵は、何といったけか」
「ギデオン・フェルでしょうか」控えめに、美架が答えた。
「そうだった。どうしてもHM卿とごっちゃになってしまうが、そのフェル博士を彷彿させるキレモノさ」
さっきからの疑問が氷解する気がした。と同時に、早くも私の背筋には、冷たい戦慄が這っていた。
カーといえば、有名な密室狂である。堀川は八王子でその“フェル博士”と行き逢ったという。あの辺りで、いま世間を騒がせている事件といえば、奇行で知られる画家、リチャード・カッシングの愛人殺し以外に考えられない。
その事件は、風変わりな密室殺人の様相を呈していた。似ているのだ、北鎌倉の事件の構図と!
美架はすでに音大生を通じて、なかば事件に関わっていると言えた。ここに“妖怪”堀川秋海が介入してくることで、北鎌倉の因縁が発動したとしか思えなかった。
ついに彼女は、二つめの密室と向き合わされることになるのではないか。
案の定、堀川の言葉は、私の予感へと肉薄してゆく。
「ご想像どおり、やつがあの界隈をうろついてたのは、例の事件に関わっているからさ。デカのくせに、尾行をマクのがみょうに上手いが、土地勘はおれのほうがあった。なに、最初は睨みつけていたがね。いざともなれば、疫病神だろうが化け物だろうが、利用して憚らない男だよ。ぶっきらぼうなわりに、えらく顔が広いのはそのためだろう。稲月警部とも、顔見知りだと言ってたな」
「えっ。神奈川県警の?」
私は思わず声を上げた。刑事らしくない、貴公子然とした風貌が即座に浮かんだ。
「そのとおり。だからおれが“若きミス・マープル”にツテがあることも、当然知っていたのさ」
美架に視線を向けると、妖怪的にほくそ笑んだ。




