subliminal
周囲を渦巻く蝶の群れ、天井に糸を張った蜘蛛、壁を這う蜥蜴に床から大蛇の如き全体を晒す竜。そのどれもが半透明な全身を液体で構成し、余すことなく純粋な害意を以て『箱庭』に喰らい付く。
竜は言うまでもなくその凶悪たる大顎を開き、水圧カッターのような何もかもを両断する水のブレスを噴出しようと力をため、舞い踊る蝶も自ら内側から爆ぜることによって強烈な水の棘を辺りに撒き散らそうとしていた。初見の『蜘蛛』と『蜥蜴』の攻撃方法は全くの不明とはいえ、今までの経緯からろくでもないものであることくらいは魔法や異能に疎い大和でも容易に察しが付く。
まず第一に、自らを『戦力外』と称した椎滝大和の右腕が反射的に動いた。鬱陶しい蝿を掃うような仕草で降り抜かれた右腕に触れた『蝶』が次々とその場から消えていく。これに驚いていたのは当の椎滝大和自身であった。
通常大和の『万有引力』は明確な形を持たない物体を転移させることはできない。
『万有引力』が働いたということはつまり、あの生物を模した水の塊は『明確な形』として世界に存在しているということになるはずだ。それはつまり世界の理を書き換えて発生している現象を意味するわけで、まず敵の攻撃が『異能』を介しているという証明にもなっているが、無知なる大和は気付くことも無いだろう。
味を占めたように白黒螺旋を描くミサンガを巻き付ける右腕で『蝶』に触れる。
大和とシズクが走り抜ける廊下から遠い場所、水風船に針を刺すようなくぐもった破裂音が炸裂した。
しかしだ。
(まずい、『竜』の方は足元の水と繋がってる。俺の『万有引力』じゃ飛ばせないっ!)
遂に大顎の中から放たれた超速の水圧カッターに対して、シズクの指先が空中で円を描く。唐突に廊下のあちこちへ充満する冷気が喰らい付いたように、足元の水はそのまま天井の『蜘蛛』、壁面の『蜥蜴』、そして『竜』が頭部からがちがちと凍っていった。あっという間に、急速冷凍された『竜』は身動きを止めた。天井からパラパラと落っこちる蜘蛛も、自身らの行動を阻害しない目的で無事なままの足元を覆う水に落下しては溶け去ってゆく。
シズク・ペンドルゴンに属性魔法の概念は存在しない。
彼女は魔法の最高峰にも位置する存在。指先一つで三態程度は自由自在に操る存在だ。
「今のうちに!」
「アレはやっつけた内に入らないのか!?」
「敵が操るのは『液体』よ。全世界どこにでもありふれた何よりポピュラーな元素の集合体、どうやら肉体を液状化させる『異能』なようだけど、あの程度で終わるようならはなから私たちに喧嘩なんて吹っ掛けてこないわ!」
まさしくその通り。
二人がこうして無駄な会話に時間を割いている間にも、『竜』の氷像の表面にはバキバキに亀裂が入り、水面から新たな『竜』の顔が現れようと泡立っている。
敵が自身を液体に変換する異能を操る『咎人』であるというなら、まず逃げ道は無いと考えたほうがいいだろう。水と言うのはつまり水素と酸素の集合体。この世における生命の継続に必要不可欠であり、空気中を普通に漂っている存在。二人が乗るトウオウ製巨大飛行船タイタンホエール号にももちろん莫大なまでの水が毎日のように使われていた。
通常通りの生活......つまり入浴やトイレに食事は勿論、都市部で幅を利かせるようなレジャープールを丸ごと詰め込んでもいた。火災に備えてスプリンクラーもあちこちに設置されている。敵はその気になれば、24時間いつでもどこでも『箱庭』を襲撃できる立場にあるはずだった。
そうしなかったのは、そうする予定が無かったからなのか。
それとも本当に『箱庭』という存在を危惧していなかったからなのか。
二人の足元を押し流すように流れる水から逆らうようにして走る大和の背後で、更なる飛沫が飛び散った。
思いもよらず大声で叫ぶ。
「『竜』が消えた!?」
ちらりと大和が後ろを覗くと、水面でぶくぶくと泡立ち、失われたボディーの代わりを生成しようとしていたはずの『竜』の痕跡がすっぱりと消え去っていた。もしかして、本当にやっつけたのかもしれない。
こんな状況に置かれてもそんな風に考えてしまう素人に、害意は容赦しない。
「馬鹿ッ!敵は『水』なのよ!?立ち止まったら...」
思わず速度を落とした大和へ向けてシズクが叫んだ瞬間だった。
ゴガッッッッ!!!と背後へと振り向いていた大和から見て右側の壁が、トラックに正面衝突されたかのような勢いで吹き飛んできた。当然大和程度では反応できたとしても対処することなどできるはずもなく、吹き飛ばされた鋭い壁の破片が大和の横腹から腕にまで幾つも体に食い込んでいく。
咄嗟に歯を食いしばっていなかったら、あまりの痛みで即座に意識を刈り取られていたかもしれない。
破片と共に吹き飛ばされた大和の体が、反対側の壁に十分な速度を保って激突する。
「ぐがああああああああああああああああああああああああ!!?」
体のあちこちがぐらりぐらりと揺れている。ぶち抜かれた壁から顔を出す『竜』が、今度は確実にと身をよじりつつ大和へと突撃するが、自身の体を押さえて必死にその場を離れようとする大和の寸前。水蒸気爆発のようなボッッ!!という音とともに爆ぜてしまう。
視界の端ではシズクが指先の光で宙に記号を描いていた。もうまともに走ることすらできないと判断されたのか、走り寄るシズクが一回りも大きい大和の体を掴んでそのまま走り去ろうと水面を荒げる。
が、当然阻まれる。
まずは手ごろな方からと『竜』は瞬時に再生させた大顎を開き、ただただ水を超圧縮させただけのブレスを放つ。たかが水とは侮れない。時にダイヤモンドをカットするのにだって使われる水圧カッターもある。圧縮という行為は、どこにでもあるような身近な物体をそれだけ狂気的に昇華させるほどの力を持っている。
それを消防車の放水レベルの規模で行うとなれば、人間程度簡単にカットされてしまうだろう。最初の一発を受けても大和があの程度で済んだのは、敵の放水が偶然にも『叩きつける』放水だったからだ。既にこれは『両断する』放水に転向している。今度こそ一度でも喰らってしまえば、椎滝大和がグズグズのサイコロステーキサイズに切り取られるのに、数秒もかからない。
直ぐ傍に寄り添う死が。
今まで遠い存在と特に気にしたことも無かったような概念が。静かに、撫でるようにただ一人の『異界の勇者』の肩を叩く。
「我こそは輪廻。循環を司りし悪神の破片にあり」
唄う。
負傷した大和を『竜』の結界の外へと放り投げて。栗色の少女が極彩色を身に纏う。世界の循環を担う魔法の破片が収束していく。『異能』とはまた別格にして、あるいはそれ以上の脅威を指先一つで振るう少女の周囲だった。水面が急速に熱せられたかのような様子でぶくぶくと泡立っていた。それも急速にその範囲を拡大させ、みるみるうちに大和の足元までが不思議な現象の中に引きずり込まれていく。
「死にたくなければ水から離れなさい。詠唱以下省略、顕現せよ!」
応じるままに大和が水面から飛び上がり、複数の首を持つ『竜』の群れから高圧のブレスが放たれ、更には少女を中心として莫大な閃光が何もかもを染め上げる。
ほとんど同時だった。
閃光の形は彼女が対抗意識でも持っていたのか、『竜』を模していたと思う。
大和の肩へと無責任に寄り添う死神が陽に焼かれていく。音もなく、『竜』が文字通り崩れ去る。それどころか、足元を濡らしていた水すらも消失する。竜巻で吹き飛ばす、核エネルギーで焼き尽くす。なんて生ぬるいものではなかった。
消失。
一つのつながりが、シズク・ペンドルゴンの怒りの片鱗に触れてしまったが故に消し飛んでいく。
大和が目を開けると、どうやら自分がさっき飛び上がったはずの地点から離れた壁にまで叩きつけられていたらしい。今更ながらにズキズキと痛む背中を押さえ、ヒリヒリと皮膚がやけどしたように苦痛を訴えていた。
当のシズク・ペンドルゴンはと言うと特に疲れた様子もなく、ただ元居た場所で突っ立っている。ただし、彼女を軸として公転する衛星のような光の玉が計二つ。それ以外は今までと何ら変わりない。軌道上に飛行機雲にも似た軌跡を残しつつ回り続ける球もやがて空気に溶けるように失われる。
残ったのは『箱庭』
水も『竜』も跡形もなく消し飛んだ空間で、天井を見上げていたシズクの舌打ちが小さく響く。
「今のうちにこの場を離れるわよ。距離はほんの少しでも稼いでおくに限るわ」
「え、だって今度こそ」
「『やっつけた』なんて思わないこと。言ったでしょ、敵は『水』...その気になればスプリンクラーだろうがトイレのウォシュレットだろうが水に関わるものならなんでも支配下に置くことが出来る生物に最も身近な存在よ。さっきのはその『破片』を消し飛ばしただけに過ぎなくて、きっと本体はまだどこかで私たちを探してる」
「危険を語るだけの根拠はあるのか」
「簡単でしょ。私の火力を何度も喰らって経験しておいて本体が出ずっぱるなんて真似は出来ないわよ。ほとんど自殺と同意義だものね、なんなら最初の一発敵が逃走しなかった時点でこの憶測は現実に置き換わってる」
とにかく二人はその場から離れることを何よりも優先した。
大和らが気付くことはなかったが確かに二人からは見えない位置で蠢く『何か』もあった。
まだ体のあちこちが悲鳴をあげる大和は傍らのシズクのの手を借りて、なんとかレストラン街の何層か下......子供向けの職業体験アトラクション施設が収まるスペースへと身を隠す。
しかし敵が操るのは『水』
化学式H₂Oで表される生体にとって最も身近な液体は、こんなところでもあちこちに根を張っているはずだ。見つかるのも時間の問題だろう。例えいつかは見つかってしまうだろうが、それでも回復のためより多くの時間を稼ぐことに越したことはないのも事実だ。
子供向けに作られた職業体験の施設とは言え、こういう『子供』をターゲットに絞った施設にこそ緊急時に備えた医療箱くらい設置されているだろう。それを見越したシズクが大和を置いて探索に向かう中、大和も壁によりかかるような恰好でそっと
息を吐く。本来ならこのまま敵本体を探しに行くところだが、流石に大和のこの負傷は見過ごせない。ナイフで刻まれた程度の傷だけならまだしも、外から見ただけでも右半身の至る所に腫れが生じていては動くに動けないという理由から来る寄り道だった。
「.........」
とっくに消灯時間を過ぎたアトラクションの影。一人でいることに対しての不安と主に『敵』へ浮かべたマイナス感情にじわじわと苛まれる感覚があった。自分が知らないところで『どうして俺がこんな目に』なんて思ってしまっているのかもしれない。だがそれ以上に、未だ連絡が付かないホードに対する不安も拭いきれなかった。
アレは本当にホード・ナイルだったのかもしれない。
表面では否定しようとしていても、まだどこかでそんな考えを捨てきれないという葛藤。考えれば考えるほど不安は増していくばかりで、そのうち重圧に耐えきれなくなって押し潰れてしまいそうだ。
「うぐっ!つぅ~...」
僅かに体勢を変えようと体を動かすが、たったそれだけで再び同じ衝撃に見舞われたかのような痛みが患部に走る。恐る恐ると脇腹を衣服越しに触ってみると、改めて自分の体の状態を思い知らされた。ぬちょりと手のひらへとこびりつく赤くて粘っこい液体。蛇口をひねったように駄々洩れと言うわけではないにせよ、痛みだけは本物だ。
取り合えずポケットから取り出したハンカチで抑える。みるみるうちに赤く染まっていくハンカチを眺めながら、元『異界の勇者』は『そう言えばあの時もこんな感触だったか』と縁起でもないことを考えていた。
「ほら、持ってきたわよ救急箱。とりあえず患部からそのハンカチをどかしなさい。滅菌しないとむしろ逆効果になるし、布は舌を噛まないようにするため咥えておいたおいた方がいいわね。それじゃ早速服をめくりあげて押さえておいてね。1、2の...3っ!」
「づっ...んんんんんんんんんんんんんん!!!?」
何やら瓶を取り出したので脱脂綿にでも含ませるのかと思ったがなんとこの鬼畜少女、封を開けるとそのまま血をにじませる傷口に直接ぶっかけてきた。突然のことなので思わず口に咥えるハンカチを落してしまいそうになるも、そこから少女は慣れた手つきで大和の処置を進めていく。
「男でしょ。これくらいの痛みにも耐えられないでどうすんの」
「痛いのに男も女もじいさんも赤ちゃんも関係ないんだよ、痛いもんは痛いし全人類誰もかれもがお前みたいに屈強じゃないの!ああダメだ。なんかもう水を見るだけで嫌になってきそうだよトラウマだよ」
「脇腹抉られてそんだけ口が利けるんだから問題なしと判断するけど?今すぐ苦痛から解放されたいなら私にも手段がないわけじゃないけど」
「『今楽にしてやるからな』ってことかそれ?冗談じゃねえよおっかねえ!まだ生きる気満々だよ死にたくないよここまで来て身内に背後から刺されるとか!」
「別にそう言う意味じゃないんだけど...魔法もそれなりに応用が利くってこと。まあ一番いいのは正規の治療をしっかり受けることなのは確かね。私の場合だとビームサーベルとワイヤーで手術するようなもんだし」
「うん。最初から受け入れる気はなかったけど改めてお断りするわ。発想力豊かな現代日本人が想像不可能な光景を片手間に再現する闇医者の治療なんて危険の範疇を超えてる」
「意外と評判良いんだけどねえ」
何やら不穏な付け足しがあった気がするが多分気のせいだろう。
気のせいじゃなければ『箱庭』のメンツのイメージが出会わずしてまた下がることになってしまう。ただでさえシズク・ペンドルゴンだとかホード・ナイルだとかいう奇人変人が集った枠組みと言う説明を受けてるのだ。一緒にいればいるほど関係ない連中のイメージまで同時に落下していくというのも珍しい。
「問題は山積みだけど、ようやくしっぽの先が見えてきたわね」
「そのしっぽの先を慌てて捕まえようとした結果がこれだよ。やっぱりホードとも連絡付かないし。そもそもあの『竜』はなんだったんだ...?」
「魔法的記号や龍脈術の痕跡は見当たらなかった。となると技術的には錬金術か咎人の『異能』ってことになるけど、十中八九後者でしょうね」
「......」
「明確な根拠を掲示されないと安心できないくらいなら自分で結論に至る努力をしなさい。まああの『竜』はわかりやすかったわね。アレの行動の一切に魔力の関連が無かった」
「?」
「通常『異能』の行使に魔力は必要ない。魔力を以て概念に従い異象を発生させるのが魔法なら、咎人が自由気ままに操る『異能』は自分の意思で概念そのものを歪めたり発生させる。似たように聞こえるけどやっぱり全然違うわけよ」
「ってことはあの『竜』は」
「咎人の異能......『罪』は原則一人一つ、重複することは決してない。ホードには『未来探索』があるわけだし、つまり『竜』もホードを装った別人ってことになる」
「そうか......」
大和の表情が少し明るくなったのは単に疑問が解消されたから、と言うだけではないだろう。こんな見た目でも彼は『異界の勇者』として最前線で戦う仲間たちを必死にサポートし続けた身。初見ではよくビビられるものの、打ち解けた人物に対してはその内に秘めたる優しさを遺憾なく発揮するような人間だ。
無事かどうかは不明として、敵が『ホード・ナイル』という少年じゃないとわかっただけ良かった。
「さて。あちらさんがようやくチラ見せしてくれたしっぽよ。この機を生かさなくっちゃね」
「今すぐ動くってわけにもいかないだろ。敵の素性はやっぱり不明なわけだし」
「まだわからないことは確かに多いけど、わかったことも少なからずあるでしょう」
「?」
「一つ、『敵』の用いる手段。二つ、私たち『箱庭』とは別の所で違ういざこざが発生してるって事実。三つ、そのいざこざに私たちが巻き込まれた結果として発生したのがさっきの『竜』」
「確か『ホードを装う何者か』も糸に引っかかったとかなんとか言ってたっけ」
「それはただ単純に、私たちが知らないところで敵の結界に触れていたって意味でしょうね」
シズク・ペンドルゴン。
栗色癖毛の少女は大和の体に適切な処置を終えると、汚れてしまった自分の両手をウェットティッシュで擦りながら何か考えているようだった。最初はズキズキと耐えがたい苦痛を訴えていた傷口もいつの間にか収まってきた。軽く肩を回して調子を確かめる大和の傍ら。
『箱庭』が誇る怪物は立ち上がり、鬱陶し気にこう言った。
「なんにせよ、私たちが『敵』の計画の一端に触れたってことでしょ」




