ocean bigwave
海獣族とは、獣人族が陸に生きる獣の特徴を引き継いだ人間であるように。海に生きる獣の特徴を引き継いだ種族である。
同じく海で生活する海人族より、更に水中での生活に特化した身体機能の数々。主食は魚、陸上の生物の肉はむしろ苦手とした食生活を送り、海の魔獣から身を隠すために、頭髪の色は皆総じて薄く青の系統に染まっているという。
海獣族は総数1000にも満たず。誰からも干渉を与えられぬ島で育つ彼らは、代々幼少期から島の外に出ると不幸に見舞われると教え込まれて育つ。実際彼らのような希少種族は人攫いに目を付けられることも珍しくなく、島から外に出た大半の同胞は捕まって、金持ちに売られてしまったらしい。
故に生き残った海獣族の多くは外の生き物を激しく憎み、自らのテリトリーに侵入しようものなら容赦なく牙を向ける。
『おっおい!助けてくれ!もう、もう近づかない!あんたたちに干渉なんてしない!』
『黙れ!穢れた外の悪魔どもめ!我らが同胞と同じ苦しみを味わうがいいッ!!』
「あっ、ああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!』
島には潮の流れの関係で今まで何人もの漂流者が現れたが、一人として生かされた者はいない。だからこそ、その島は周囲から恐れられ、存在に触れることすら禁忌とされるようになり、いつからか島のことについて聞いたり話したりすることすらなくなったのも必然だろう。
例えばとある付近の人間が住む島では。
『おとーさん、どうしてあのしまにはちかづいたらいけないのー?』
『...いいかい。これから何があっても、あの島のことだけは口に出しちゃあいけないよ』
『どうしてー?』
『怖い怖い海の悪魔がお前を攫って食べちゃうからだよ』
更に時は流れて。
海以外の何物からも隔離された名もなき孤島に、一人の少年が生まれた。
少年に名前はない。彼の身近には常に暴力が付きまとっていたからだ。肉親は彼が生まれると同じ時期に外を目指し、裏切者として殺された。当時赤ん坊だった少年だけが島に留まり、父親の遠縁の親戚だという男の元に預けられた。海獣族は彼の両親を一方的に『屑』と決めつけ殺した癖に、この男の本性に気付くこともできない無能であった。故に少年は数年間、ただひたすらに苦しむことになるとも知らず。
『やあ先生、いつものお薬を貰えるかい?』
『いらっしゃいおばあちゃん、ほら、これがお薬だよ』
『ありがとうねえ。これが無いと苦しくって苦しくって...』
この男が屑だった。
隠れたルートを通して外の人間から薬物をこの島の近海でのみ見ることが出来る最高品質の岩塩で買い取り、何も知らない海獣族に『何にでもよく効く薬』として売り渡す。誰もその危険性に気付けないため、外では所持しているだけで裁かれる薬物も、男は堂々と使うことが出来た。その悪魔の白い粉末の危険性をいち早く感じ取り、何としてでも拒否した少年だけが純粋でいられたのも、彼が生まれ持った知力の結果だろう。
そしていつからか、彼はそんな大人たちを忌避するようになった。
『ひひひひひひひっ!ああ、島の連中はバカだらけ。おかげでこっちも商売が楽ってもんだ』
男はいつもそう言って、気分次第で少年を殴った。少年はもはや自分が男に殴られることは当然のこととして受け入れていたので、そこに疑問を抱くことすら長らく忘れていたのだ。だがそんなある日、少年にも転機が訪れる。
ただひたすら暴力に耐えるだけの生活を続けていた少年と島を、ある日巨大な嵐が襲う。
嵐自体は島でも珍しいことではなく、毎年頻繁に訪れる自然災害だったので彼ら島の住民はは特に対策も取ることはしなかった。
ただ運が悪かったとしか言いようがないが、その年の嵐はおよそ57日間にわたって島の付近に滞在し続けたのだ。当然何の対策も講じなかった島の海獣族は残された食料をばくばくと喰らい、魚を取りに行くにも嵐が阻むので、島全体がかつてない食糧難に苦しめられる羽目になったのは詳しく語るまでもあるまい。となると、当然食料を求めた海獣族同士の争いが発生する。中には同胞の肉を剥ぎ取り喰らうような輩まで現れたが、『薬剤師』と自分を周囲に偽っていた彼の義父は何とか生かされ続ける。が、ただ男はとことん堕ちたので、終わらない地獄の中で安らぎを求めるようになったのだ。つまりは薬を求めた海獣族に『食料と交換』という条件を突きつけ、無理やり嵐の海に狩りに行かせたことだ十数人程度の犠牲者を生むことになった。荒らまく海に流される同胞の姿を見て笑っていた男を見て、どういうわけか少年は堪えきれないほどの殺意を感じてしまった。
別に殺された人たちに同情したとか、正義の心に目覚めたとか。そんな甘っちょろい理由ではないと心の芯で理解していた。ただ、広く美しい海をこんな屑に汚されたくないと思ったのかもしれない。あるいは、今までの恨みがその瞬間に爆発したのかもしれない。
少年は崖から海を見下ろして大笑いしている屑の背後に忍び寄ると、隠し持っていた包丁を屑の背中に突き刺した。
今でもその瞬間の手ごたえと屑の顔を夢に見る日があるが、そんな日の朝は決まって気分がとても晴れやかだ。
始めて人を殺したというのに少年はとても清々しい気分だったので、少年はそれから同じように少年をいじめていた大人の指に釣り針を括り付けると、それを数人繋げた状態で岩に固定して焼いた。
当然のことながら少年は同胞を殺戮した罪に問われ、無限に続くようにさえ思えた嵐の夜に島で一番大きい木のてっぺんに縛り付けられて雷に打たれる刑に処されることになった。
正義を語る大人の一人は言った。
『同じ海に生まれながらも、分かり合えぬ命がある。人間と海獣族はまさにそれだ。悪しき人間と偉大なる海に産み落とされた我々、貴様は人間の心を持った生まれながらの悪だ』
しかしどれだけ雨風が激しくなろうとも、雷は逆に彼を縛り付けた大人の一人を打ち殺した。雷に打たれ、全身黒焦げとなって発見された大人は少年に正義を語ったあの大人だ。ほかの大人たちもそれを受けて、相も変わらず平然としている少年を更に気味悪がる。そのうち彼を恐れるあまり、おかしな妄言も生まれ始めた。
この子は『外』から我々を滅ぼすために送られてきたスパイだ。
この子は邪なる者に心を乗っ取られた器だ。
この子は人間の殺人鬼の生まれ変わりだ。
この子は歴史に埋もれた海獣族の怨念そのものだ。
『ならさっさと殺してしまえ!』
『オレは嫌だぞ!?まだ死にたくない...呪われたくない!』
『私だって嫌よ!早く......早くその子を殺してえええええええええええええええ!!』
誰だって『ここには幽霊が出ます』と言われた屋敷には住みたがらないように、広まった根も葉もない噂はどんどん少年を踏みにじっていったが彼は特に行動も起こしていない。殴られるときは自ら頬を差し出し、手足を縛ろうとする大人がいれば手足を差し出した。そうすることが正しいと思い込んでいたし、そうして暮らしてきたからだ。
海獣族はもっと早く気が付くべきだったのだ。そういう傲慢な態度が自分たちをこの広い海から隔離させ、小さい島の中でしか生きられないようにしてしまったのだと。
少年はただじっと耐えた。
ただの興味から恐れ畏怖する者の視線まで、遂には与えられなかった解答の中を彷徨った。彼は生まれた時から、あるいはもっと昔から、それともずっと後から?子宮の中で考え毛布に包まれ考え拳を受けながら考え育ての親の悪行を覗きながら考え凶器を突き立てながら考え嵐の中で考え大木の先に縛り付けられて考え獣の巣に突き落とされて考え酸の泉に突き落とされて考え自ら崖下に身を投げて考え......考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考え考えて............。
彼が自分に不思議な力があるとわかったのは、猛烈な嵐の中を偶然生き延び、無事付近の島に保護された直後だった。新しい島の人間族たちは彼が聞かされていたような人物ではなかったのは、彼にとって何よりも救いだったのは言うまでもなく。
少年を保護した人間族は自分の話を涙を流して聞いてくれた上に、温かいスープと住む場所を用意してくれた。最初は少年のことを怖がって遠目で見ているだけだった人間族の子供たちとも次第に打ち解けると、少年は笑うことの楽しさを初めて知ることが出来たらしい。暴力に耐え忍ぶ生活を送っていたはずの少年はいつの間にか友情を知り、喧嘩を知り、恋を知り、失恋を知り、感情の起伏を知ることが出来た。
だが不便なことに、彼には名前が無かった。
『おなまえ、欲しい?』
『......ぼくは...』
『じゃあ、ホード!』
『ホード?』
『そう!この島の名前だよ!あなたのおなまえは、これからホード!』
『ホード...』
ホードは地名。
ナイルは彼が好きな果物の名前からとった。
少年は醜い海獣族に産み落とされ、清い人間に育てられた。いつの間にか彼は海獣族である自分に酷く憂苦するようになった。そして、対極を目指し始める。
『清い』の反対は醜い。
醜い時分から清き自分に生まれ変わるために、彼は恩人たちの住まう島を出て『箱庭』という括りに属することになる――――。
......
「とまあこんな感じでして」
「さらっと笑顔で語るような過去ではないよ!?」
室内なのに雲がぬくぬくと泳ぐ大空の下にいるような気分に浸かることが出来るのは、ドーム型のプールの天井全体が特殊な液晶画面なうえ、リアルタイムで外部の映像を投影しているからだ。しかもこのプール、火災とか災害系のあれこれに備えて、塩素消毒水の貯水タンクはドーム天井の更に上部に敷かれているとのこと。
共に水着、共に海パンの二人はプールサイドで足だけ水に入れて話し込んでいた。驚愕の表情を浮かべる大和の背後では、まさに水着姿の栗色癖毛少女が飛び込み台から専用プールにダイブしている瞬間であった。ざばん!と大きく波立つ水面にひょっこりと顔を出した少女はいろんなところから飛び交う拍手喝采に無い胸を張りながら水から上がる。可愛らしいピンクフリルの水着がよく似合う。
「なあに?何の話ー?」
「大和さんに僕の過去を聞かれたので」
「ああー」
「ああーじゃないよ激重だよ!そんなストーリーの片手間に省略して話すようなお話じゃなかったよ!」
「流石に恋愛とかの下りはいらないわよね~」
「そこでもねえよ!」
ごく一般的な思考回路を持つ大和には、二人が首を傾げる理由が理解できなかったようだ。天才は常人に理解されないものとは言うが、逆もまたしかりである。この場合は一般的な方がまだ救いがあるというかないというか...もしこの場にタイムマシンが存在するなら気軽に聞いてしまった十分ほど前の自分をぶん殴りに行くところだ。
ちなみに『箱庭』の三人がいまこんなレジャー施設で遊んでいるのにももちろん理由があるわけで、色々あってあの後数日間は爆破テロリストのテの字も見つからなかったのだ。わざわざ深夜に飛行船内を徘徊し、警備員との追いかけっこを繰り広げたのにもかかわらず成果ゼロというのは流石に気が詰まってしまう。そこでシズクが提案したのが『探索ついでにレジャー施設にでも寄って気分転換しない?』である。冷静に考えればテロリストがいつ動き出すのかもわからない空上の島で呑気に遊んでいる暇なんて一分だってないはずなのだが、過ぎてしまった過去は仕方がない。
大和の隣に座ったシズクと反対側のホードの見た目が幼いせいで、相変わらず目付きが悪い海パン青年は保護者のような立ち位置になってる気がしなくもない。
「新参の俺が言うのはなんだけどさ...どうして普通の暮らしを捨ててまで人間になりたいなんて願うんだ?」
「自分でもよくわからないんですが、僕は一種の恩返しだと思ってますよ」
「恩返し?」
「確かに僕は新しい生活を捨ててまで『箱庭』に属することを選んだ。海獣族から教わった憎しむ心は人間が与えてくれた清らかな心に浄化され、新しい『僕』を形作られた。名前が無かった少年は死んで、ホード・ナイルが生まれた」
実は彼の話には続きがある。
ホードは自分の話の続きをを今まで『箱庭』のメンバーにすら話したことはなかったので大和にも話すつもりはないが、いつも自分の生い立ちを聞かれるたびに彼は思い出すのだった。透明な正方形の中を揺れる水の塊を覗きながら栗色の少女は再び飛び込み台に向かう。目付きの悪い青年は、少年の顔を不思議そうに眺めていた。
ある日、ホード・ナイルが住む島にとある人間の一団が訪れた。そのたった十数人の武装した人間が話す内容によると、この島は軍の施設を移設するために、住人の強制立ち退きを命じられて、自分たちはそれを伝えに来た使者だと言う。それと、現存する数少ない海獣族がこの島に在住しているとの話を聞きつけて捕獲しに来たとも言った。島が属する国は他国からも評判が悪く、目的のためなら手段を択ばないことを容易に想像できた島の住民は、国に逆らってまでホードを海岸付近の洞窟に隠した。結果的にホードは本土の人間に見つかることなくやり過ごすことが出来たが、立ち退きと異種に対する執拗な扱いに反対した島の住民が何人も連れていかれてしまうことになる。
そして国の掲げる理念の一つは『人間至上主義』
人ならざる種族生きる価値なし、人間こそこの世の頂点に立つ絶対的存在であると盲目的な信仰を掲げる珍しい国だった。連れていかれた島の住民はきっと今でも『反逆者』として国家の中枢で働かされているのだろう。身分を奴隷にまで落とされて。『箱庭』の力さえあれば彼らを助けることは簡単だ。
しかしそれでは、彼らは元通りの生活を送ることは絶対にできない。『人間』として国の戸籍を作って、彼らを買う必要がある。
「僕が抱える挫折は、言ってみれば『生まれてきたこと』です」
「人間が誰しもそんないいやつとは限らないけどな」
「そりゃそうですよ。この世界には誰一人として同じ人物なんて存在しないんですから」
「悪い人間のほうが世の中には多いだろ」
「かもしれませんね、ですが海獣族はその百倍は悪い奴らでしたよ」
「話だけ聞いてたらそうかもしれないけど...」
国の戸籍を作った人間が国の外に出ることは、軍人でもなければ許されない。彼の覚悟は本物だ。そのための手段として最も近く、最も早く彼に声をかけたのが箱庭だった。
『箱庭』はホードの力を欲しがった。利害が一致した。
施設から出た三人は帰りにまた別のレストランによると夕食を済ませ、改めて今晩の作戦を決めた。今までは大和一人であちこちを探索していたのに対し、残された時間の都合から三人がバラバラになって敵対組織のテロリストを探すことに。ほっと息を吐く大和と面倒がるシズクは置いといて、流石にそろそろしっぽを掴まないと間に合わなくなる。まずは組織の人間を一人でも多く捕まえて情報を聞き出さなくてはならない。
「それじゃあ、準備はいいわね?」
「ええ」
「ああ」
「発見者はまず残った二人に連絡、目標地点まで出来るだけ時間を稼いでから誘導して、連絡を受けた二人は速やかに目標地点で待機する。必要があれば追加で連絡を入れて応援を呼ぶ」
いよいよ本格的に始まった。
大空に浮かぶ島を巡るどろどろの戦いが。




