私の英雄
時間は流れ、アルラ・ラーファが再入院してから一週間以上たったある日。夏ももう終盤に差し掛かり、涼しい風が町いっぱいに吹き荒れる時間帯に、アルラの主治医となってしまった不幸な男性医師は病院の廊下を重い足取りで歩いていた。何度注意しても態度を変えないとある青年のことで頭がいっぱいな男は何度も繰り返し溜息を吐いて、今日もまた彼の病室へと足を運ぶ。
患者のほうに反省の色が見えないせいでこちらも上から怒られる羽目になってしまったが、悪いのはほとんど彼なのだ。絶対安静のハズなのにふらふらとで歩いて他の患者とおしゃべりしたり、看護師の手が回らないときなんかは患者のハズの彼がしれっとお手伝いに回っている。そのためやたらと院内での好感度が高めだが、反面で犠牲になっているこちらのことも考えてほしい。
ちなみにこの患者。この院内の誰よりも酷い怪我を負ってるくせにこの院内の誰よりも元気なのは納得いかない。本人が言うには『自分で自分を回復できる異能を持ってるから、これと言って治療する必要はない』らしいのだが、彼の底なしの気力にも『異能』が関連しているのだろうか。自分は専門家でもないので便利な『異能』とやらについてはよくわからないが、とにかく医者の言うことは素直に聞いてほしい。
彼が不満を小声で漏らしながら廊下を歩いていると、唐突に背後から声が聞こえた。
「あの...」
声をかけられて振り返るとそこには、まだ10歳にも満たないような見た目の男の子がおずおずと立っていた。病衣を着ていることから入院中の患者の一人だろう。その少年はもじもじと何か言いたげにしながら、手にルービックキューブを握っている。もじもじと内気な雰囲気は男の子の元来の性格からだろう。
この病院では患者の性格なんかも医師の目に見えるように、大雑把に色分けされたタグで表示するようになっている。眼前の男の子は内向的な性格を示す青色のタグ。ちなみにアルラ・ラーファは外向的な性格を示す赤である。
そう言えば、こんな風に患者のことを観察するのも久しぶりだなと、妙な感覚に浸る医者の男へ向かって、ブルータグの男の子はおずおずと意思を言葉で口に出した。医者の男に妙な不安感を与えるような口調で、一種の負の感情を前面にアピールするかのように。
「お兄ちゃん...どうかしたんですか...?」
「お兄ちゃん?」
男は少し考えて、その少年がよく自分の患者と話していたことを思い出す。ということはお兄ちゃんとは例の患者のことだろう。彼は何度言っても勝手に抜け出しては子供たちや老人の相手をしていたし、ほんの数日であっという間に患者たちの信頼を得るに至ったのも、彼の放つ妙な安心感あってのことなのか。
とにかく、『アルラ・ラーファ』という青年についてだ。もうこの時点で次の文が読めるような気がしてきた。
「お兄ちゃん、もう退院しちゃうんですか?」
ぞわりと。嫌な感覚が背筋をなぞる。
とてつもなく嫌な予感がするが、その先を聞かないわけにはいかないだろう。彼の主治医として、また一人の医者として。曇った表情を向けるこの少年から目を背けることは出来ないし、許されない。
少年の目線に合わせるように、男は腰をゆっくりと下ろしてまっすぐ向き合った。
しゃがんだままこの男の子が怖がらないように、出来るだけ強張った声を和らげて尋ねる。いきなり態度を変えた男に男の子は若干たじろいだが、手元で以前とある青年からもらったルービックキューブをもじもじと手の上で動かしながらゆっくりと口を開いてくれそうだ。
改めて、出来ることなら聞きたくないその先を。
「どうして?」
「だって...」
男の子は手に力を込めて、泣きそうな表情になった。ぐいっと今度は自分がたじろぎそうになったものの、なんとか子供をなだめるよう時のような穏やかな表情(自称)を保ったまま男の子の言葉を待つ。こういう場面では不安を煽るような態度は厳禁。なるべく笑顔で、接しやすい態度を保つという医療学会で学んだ知恵を初めて生かす場面だ。まさか本当に知識を役立てる状況が訪れるとは思わなかったが学んでおいてよかった。
気持ち悪いくらいの笑顔を浮かべる医者の男と、あうあうとたじろぐ男の子。
しばしの沈黙があった。
少し待った後に、彼にとって決して関係ないわけではない言葉が飛び出した。普段は仕事以外にほとんど会話することも無いような人物が『はあ?』と口に漏らしてしまいそうになるくらいには衝撃的だったらしい。
「さっきお兄ちゃんが、病院のお外に出て行ったから...」
背筋に冷たい感覚が奔った。寝起きに氷嚢を詰められたような冷たい汗を流して、男は院内だというのに慌てて走り出してしまう。すれ違う看護師や清掃員の表情すら入ってこない。白衣とネームプレートを揺らしてようやくとある病室の前にたどり着き、上がった息をを落ち着かせたうえで扉を勢いよく開こうと扉に手をかけた。
そして一瞬開けるのをためらった。
もうほとんどどんな事態が起こったのか、頭の中では理解しているらしい。また上から怒られるに違いない。崩れた白衣を整え、覚悟を決めたアルラの主治医は勢いよく。横にスライドするタイプの扉を開いた。
開いて言葉を失う。わなわなと震える体を落ち着かせて頭を掻いてしまう。悔しそうに、それともやってしまったという懺悔だろうか。一言吐き捨てた。
「......やられた」
本来窓際のベッドに横たわり、無気力な顔でテレビを眺めているはずの青年がいない。いつものように面白いことを探し回ったり、隙あらば人助けに走るあの青年が持ち物ごとごっそりと消失しているではないか。
点滴は無造作に投げ捨てられ、床に広く広がった液体を、空いた窓から吹く風が広げているようだ。結果として彼が想定できる中でも最悪を引いてしまったようだった。そもそも彼のような性格の人間を一か所にとどめておくということ自体が不可能だったのかもしれない。
彼は瀕死の重傷患者であった。
目も当てられないような姿になっておいて、自分では大怪我の自覚がないのか口を開けば退院させろとのたまっていた青年。無理があったといえばそれまで。動物の習性のように理屈で抑えられるようなものではなかったのだろう。肉食獣に肉を食べるなと言ってるようなものだったのかもしれない。
男は手を腰に当てて呆れたように。
「本当にいつ死んでもおかしくない体だというのに...」
思わず言葉を漏らしてしまう。彼はこれから上から叱られるであろう自分の姿を予測して、もう一度頭を抱えてしまう。基本的に平和以外の何物でもないこの街の病院なのでアルラ・ラーファのような外部からの患者は稀である。普通の神経を持っていれば自分の体を第一に考えて医者の指示には従うものだ。もちろん悪いのは彼じゃなくて当のアルラ・ラーファなのだが本人ももう何処かへ消えてしまった後。残念ながらタグを使った追跡機能なんて都合いいシステムはなく、一病院の追跡力程度では自由気質な彼の足取りをつかむことはできないだろう。何も言わずに出て行ったのはむしろ彼なりの自分たちに対する配慮なのか。
頭を抱える彼は大きく息を吐いて、外から入る風に揺れるカーテンを覗いた。自分の精一杯の門出の言葉を聞く者がいない病室に向けて一言発した。ベッドのシーツの白に紛れた置手紙を手に取って。
「もう君がここに戻ってこないことを祈ってるよ」
一方でだ。
とある一人の医者が頭を抱えているとき既に、人の話を聞かず何となく出病院を脱出してしまった糞野郎アルラ・ラーファは、入院していた病院がある街から数駅離れた街の船乗り場にたどりついていた。『強欲の魔王』の城からの脱出時から約一か月。久しぶりに見る海は美しい青を奏で、自分の門出を祝福しているようにも思える。それほどまでに清々しい気分で、アルラの頭の中からは既に自分の主治医のことなどすっぽりと抜け落ちているようだった。『念のために感謝の旨を書き綴った置手紙も残したしなんとかなるだろう』の精神の元、案外気楽な気持ちでチケットを空に掲げるアルラ。
以前ウィアに調べてもらった時から豪華な船だとは思っていたが、まさかこれほどとは思わなかった。まるで元居た世界の最高級クルージング旅行が実はそんなにすごいものではないのかもしれないと錯覚してしまいそうだ。
「それにしても、ラミルもよくこんな高いチケット買えたよな。実はこっそり買った宝くじが当たったとか?」
話し相手はポーチの中の黒い端末しかいないので、取り出してみるといきなり船の詳細を細かく表示してくれているらしい。温水プールから景色を一望できる展望デッキに挙句の果てにはカジノやスポーツジム。アルラの前世の収入では考えられない、夢物語のような旅が始まると心が沸き立たせるアルラ・ラーファ。心なしか掌の上の『ウィア』も浮足立っているようだ。
しかしだ。
あの後一度もラミルと再会出来なかったのは心苦しい思いがある。
(見舞いにも来てくれなかったし、変な心配はいらないと思うけどさ)
彼女に関して変に心配する必要はないだろう。
『白の使い』の呪縛から脱し、己の人生を見つめなおして受け入れることを選択した彼女は強くなった。『世界編集』という特大の『異能』抜きにしても、これから彼女が人生で挫折することはないと確信するほどに。むしろアルラが心配すべきは自分のほうだった。
衣服の下にはまだ包帯でぐるぐる巻きにされたまま。道中でいくらかの『寿命』を刈り取ってきたものの、全身至る所の骨折やら裂傷も塞ぎ切っていないはずだ。関節を一カ所動かそうにも激痛が伴うし、輸血したとはいえ立ち眩みに苦しめられる瞬間も少なくない。
つまり相も変わらず重症状態。RPGゲームで例えるとするなら、100のHPが与えられたキャラクターで残りが10とか20とかその程度である。もしくはダメージを喰らい続ける状態異常だろうか。
しかしそんなことお構いなしと言わんばかりに。ぐるぐると回した肩の痛みを堪えて、青年はその凄まじい『船』を見上げた。
「しっかしこれ本当に船か?何ていうかもっとこう...タイ〇ニック号的なのを想像していたんだけどな」
沈まれてもかなわないのでタイタ〇ックはお断りだが、アルラの目の前にそびえる船はとても船という規模では形容しがたい代物なのには違いない。まずサイズが桁違いだ。排水量とかもきっととんでもない桁数になっているに違いない。よく観察してみると、アルラの周りの他の客も豪華な装飾品やらいかにもブランドもののバッグを身に着けているような人物ばかりだ。ここにきて『もしかして自分は場違いなのでは?』という不安感に襲われたアルラは、道中安く買うことが出来た古臭いがま口財布をぱかりと開く。
何と現在の所持金は驚愕の248リクス。
缶ジュース一本とパンでも買えればいいなレベルである。一応事件前にラミルのバイト先から受け取った彼女の給料は、封筒と共に全額残してあるものの、渡すタイミングを完全に逃してしまったので渡せずどうするか悩んでいたところだ。またいつか巡り合う日を信じて、とりあえず今は預かっておくことにしよう。
見るも無残な財布を早々と仕舞って、改めて船(?)に向きなおる。そしてアナウンスによると数十分で出航するらしい。続々と乗り込んでいく乗客たちの列に加わろうと歩き始めた時だった。
聞きなれた声が、アルラの耳に届いた。
「アルラさーん!」
少し離れたところからだ。
アルラが並ぼうとしている列から少し離れたところで、聞きなれた声の主はこちらに手を振りながら走り寄ってきた。
光にあたって煌めく、ウェーブがかかってふわふわと印象を与える白銀のロングヘアー。宝石のような二つの瞳。誰もが『美しい』より『可愛い』という感想を浮かべるような幼い体つきの少女。
ただし彼女が身に纏っているのは彼女のお気に入りの白いワンピースではなかった。何処で買ったのか、いっそコスプレにも見えるような、涼し気な印象を与える青と白を基調としたマリンワンピースだ。右腕の辺りには真っ赤なリボンが結んであるうえに、小さな水色単色のリュックを背負っている。
周囲の視線が白銀髪の少女に集まる。アルラはというと、驚きのあまり言葉を失ってぽかんと口を開けていた。アルラの表情を見た少女は不思議そうに首を傾げて、遂にはアルラのそばにまで辿り着いた。周囲の視線がどうしようもないので、とりあえず付近の誰もいない砂浜へと場所を移して。二人は再会した。
ラミル・オー・メイゲル
世界の数少ない妖魔族の少女が、確かにそこにいた。
「ラミル...!?どうしてここに!?」
「え?どうしてって、アルラさんがこのチケットを私に送ってきたから...」
そう言って彼女が取り出したのは、アルラが持つものと全く同じチケット。しかもよく見たらこのチケットに指定された船室。二人の部屋が一緒ではないか。
「どういうことだ?誰がこんなことを」
「それよりアルラさん。怪我の具合は...」
「別に何ともないs」
言ってる途中で少女の人差し指が、アルラの左手首にちょんと触れた。触れられて奔る激痛に悶絶して転げまわるアルラ。マリンワンピースと腕に赤リボンのラミルは呆れたように額に手をやった。何やら周囲の人物たちからの視線がやたらと刺さる中、なんとか起き上がったアルラはサムズアップをかましているが顔が笑っていない。
「だめじゃないですか、って言ってもアルラさんには無駄でしたね」
「よッよくご存じで...」
立ち上がったアルラはいまだぴくぴくと小刻みに震え、目の端に涙すら浮かべている。ラミルは口元に手をやって、くすりと笑っていた。普通の少女の笑みだ。今まで忘れていたが、彼女だって普通に笑える一人の人間。
アルラは誤魔化しの念を込めた表情を顔に作って、しばらくはまた楽しくなりそうだと思う。目的は違くとも、見知った人物が近くにいてくれるというのはとても心強い。
「目的地までまた一緒だな。楽しくやろうぜ」
「......」
「ラミル?」
「このチケット、誰が送ってきてくれたのかはわかりませんがおかげで決心できました」
「決心って、お前...」
「私もアルラさんについていきます」
だから巻き込みたくなかった。
自分でも歪んでいると理解してる復讐劇に、救われた人間を巻き込みたくはない。露骨にアルラの作られた笑顔が消え失せて、むしろ不安げな表情に早変わりしている。
「いいのか?」
「何がですか」
「せっかく自分の道を切り開いたってのに。俺なんかについてきたらまた怖い目に合うかもしれないぜ」
これはアルラなりの警告だ。
ついて来るなとは言わない。ただし来るならそれなりの覚悟が必要だと。向き合うことが出来たとはいえ、今まで失うことを恐れて逃げ続けた少女が更に恐ろしい結果を見るかもしれない道を自ら踏み出すことが出来るのかと。そういう問いかけだ。
できることならアルラは、彼女には自分と関わって欲しくない。
どこか遠い街で幸せに暮らせるのならその方がいいに決まってる。もう彼女は十分すぎるほどに苦しんだし、これ以上苦しむ必要なんてどこにもないはずだ。もしも彼女が付いてくると言う理由が、例えば恩返しだとするなら。安全な道を一時持ち合わせただけの理由で失わせてしまうのはアルラも嫌だった。アルラがこれから歩む道は、少なくともそういう苦痛が約束された道だ。踏み出したが最後、苦しむとわかっていて、踏み外した未来を選択できる人間がどれほどいるのだろうか。
「来るなとは言わない、だけど俺の道は確実に苦痛と隣り合わせだ。そんな道に、わざわざ踏み込む必要があるのか?もうお前が苦しむ必要なんてどこにもないじゃないか」
白銀髪にマリンワンピ姿のラミル・オー・メイゲルはただ静かに聞いていた。ただし今度は目を背けずに、しっかりとアルラの瞳を見て話を聞いていた。
「もうラミルは十分苦しんだじゃないか。これからは、自分だけのために幸せになろうとしていいんじゃないか?」
それもまた選択の一つだろう。
アルラの言うとおり、自分のために生きることは何も間違ってない。むしろそっちのほうが世間一般で言う『普通』の生き方だ。誰もが自分の幸福を得るために普通に働いて普通に家庭を築いて普通に人生を終えていく。アルラもラミルもその一歩目を踏み外してしまっただけで、歩き方次第でいくらでも修正が効くだろう。
それにラミル・オー・メイゲルは人並み以上に完成した人物だ。
彼女のような心の底から優しい人物なら、努力すればいくらでも望んだ結果を得られるはずだ。そのうえ彼女には『世界編集』もある。捻じ曲がってしまった自分の人生を編集するのだって、今からでも遅くはない。
「私は」
ゆっくりと目を閉じたラミルが、笑みを浮かべて目を開いた。海から吹く風が二人の間を通り過ぎる。続々と
「あの時あなたに助けてもらったんです。私はあの瞬間、この世界の誰よりも幸福でした。今まで一度だって出会えたなかった私の英雄に出会えたんですから。気付いてほしかった心を塗り固めていた絵の具を、あなたがこそぎ落としてくれたんです」
「一時の気の迷いかもしれない」
「後悔するつもりもありません。やるからにはとことん!それに何より『強欲の魔王』は私の母の仇でもあります」
潮の香りが辺りに満ちる。
アルラ・ラーファとラミル・オー・メイゲル。
交わるはずもなかった二つの道が混ざりあい、一つの道が誕生しようとしていた。
「恩返しじゃありませんよ。これが私の選んだ道です」
これ以上は何を聞かせても無駄だろう。
彼女の瞳には、アルラを諦めさせる程に強い信念が込められている。頭を掻いたアルラが振り返って、元居た場所へと歩き出した。その動作が照れ隠しだと気付いたラミルもまた、後ろについて来ながら笑っている。アルラもまた、薄っすらと笑みを浮かべていた。
「よろしくお願いしますね?アルラさん」
「面白い旅になりそうだ」




