行ってきます、明日へ―――
「その...ごめんなさい」
「気にすんな。大したことないって」
大した傷である。
青年は顔でこそ笑ってはいたが、ふらふらな足取りは隠しきれていなかった。一歩一歩丁寧に、着実に段差を降りて、ようやく列車から二人の目的の土地に下り立った。彼の後から下りてくる白銀髪の少女に目立った外傷はない。強いて言うなら、まだ少しだけ弾かれたおでこがヒリヒリしているのを本人だけが感じていたぐらいだ。
一方で青年は列車から下りてすぐに辺りを見渡して、前世の日曜お昼時に放送されるような旅番組の気分を味わっている。呑気なものだと感心しつつも、少女は自分がやったことの申し訳なさに再び苛まれる。
街と聞いていたが、どちらかといえば田舎の村という表現が正しいだろう。辺りにこれといった人工物はほとんどなく、何とか畑や田んぼなどが点々と張り巡らされて、むしろ駅から離れれば手付かずの自然があちらこちらに残っているくらいだった。
ちなみに白銀髪の少女のほうは着替えをおえて、こっそり短髪の男が回収して持ってきていたお気に入りの白のワンピース姿を取っている。本人は依然放置されたままだがまあ特に問題ないだろう。
「ヘイウィア、ラミルの家」
ポーン!と。
アルラのポーチの中から、電子的な音が響いた。橙の短髪男からアルラが受け取った黒い円盤状の端末......男が"自立進化型補助魔装システム"世界地図『ウィア』と呼んでいた機械からだ。
”過去のログを検索中......完了。アカウント名『white』の検索履歴を復唱します”
マジで前世の大手メーカー製スマートフォンに搭載されてた人工知能みたいだな、とアルラは正直に思った。後ろについてくるラミルは、ズタボロという表現では足りないほどの重傷を負った(彼女も負わせた側なのだが)アルラをおどおどと心配する反面、真新しいものを見たような表情も隠しきれていない。
ちなみにアルラの傷は特に両腕が酷い状態だ。左の手首はぽっきりと折れていて、右に至ってはあちこちの皮が剥け、肉が露出し、その肉がまた裂けて大量出血を促すというR18Gな状態になっている。とりあえず両腕とも包帯でぐるぐる巻きにはしてあるが、そんな応急処置程度で意識を失うことすらできないほどの激痛が和らぐはずもなく。仕方なく残り20年も残っていない寿命を使って『神花之心』を発動。
再生力効果でじわじわと傷を癒している状態だ。
「少しずつでも新しく寿命を手に入れないとなあ...完全に治癒しようとしたらマイナスまで行っちまうよ老衰だよ」
「ごめんなさい......」
申し訳なさそうに俯いて指をこねこねしていた白銀髪の少女の姿は新鮮だったのでもう少し弄ってやることにする。さらにゲス野郎アルラ・ラーファは自分のポーチから黒い円盤状の端末を取り出して、辺りをきょろきょろと見回していた。
”完了しました。目的地までの案内図を表示します”
もう一度、ぽーんという電子音が鳴って、記号や簡単な色分けされた地図が表示される。目的地までの距離はざっと4、5キロ程度だった。歩いてでもそう時間はかからないだろう。むしろ手ごろな『生き物』を探す時間が増えたとアルラは内心喜んでいたが、後ろをついてくる少女の不安げな表情は一向に晴れない。
というかこんな状態なのに呑気なのは、寿命の使い過ぎですっかり髪の色が抜けてしまったアルラのほうなのだが。
「こんなもんか。よし、行くぞ」
「あっあの...」
「どうかした?」
「先に、病院に行った方が...」
手元のウィアが震えて、その通りだと言わんばかりに今度は最寄りの病院までのルートを表示した。こっちの距離は1キロもない。十数分程度で十分到着できる距離だろう。
包帯で真っ白になった人差し指をラミルに向けたアルラは、もう一度彼女の額をつんと突いて。
「こっちが先だ。助けてほしいんだろう?病院なんて後でいくらでも通うさ」
「でも...」
「なんか妙に臆病になってないか?自分を優先しろよ。ラミルは人のために泣きすぎだ」
あなたが言えることじゃない、とはっと浮かんだ言葉を噛み殺して。今は黙って彼の言うとおりに行動することにする。まだラミルは『アルラ・ラーファ』を100%知ることが出来たわけではないが、彼の優しさには最も近くで触れている。少し以前に知り合った少女のために命を張れる人なんて、世界中探してもアルラくらいだろう。『普通』なら泣き叫んで気絶して、失禁していてもおかしくないレベルで痛いはずなのにまだ他人を優先するとは、もうバカの領域に達しているのだが、相手が相手なだけに口に出すのは抵抗がある。しかも自分が加害者なだけあって余計に。
「痛いのは慣れた、ってか慣らした。死ぬほど痛いこともあったし、実際死んだ。だからこれくらいなんてことないのさ」
無茶苦茶だ。
痛いのが嫌だから今のうちから痛みを経験しておく、というのを実践したなんて。意味的には『晩御飯に嫌いな食べ物が入っていたから、最初のうちに我慢しておこう』というようなものだがまず次元が違う。かつて実際に死を経験して上で、その上からさらに死ぬほどの苦痛を味わったアルラだからこその理論ではあるが、そんなこと知らないラミル・オー・メイゲルの目にはさぞ目の前の青年がおかしく思えただろう。
肩をすくめて言い切ったアルラは視線を手元に戻して、空に昇る日の位置を確認したうえで進む。『アルラ・ラーファ』の故郷を思い出させるあぜ道を歩いて、やがて遠くにうっすらと深い緑が現れた。近づくにつれて田畑の数は減っていく。照り付ける夏の陽の光で滲み出た汗が、全身の細かく傷に染みて痛んだ。
ラミルもその森の入り口に近づくにつれて込みあがる何かがあるのか、不安げな表情は相変わらずだ。少女の脳裏によぎるのは少女が『世界』なんてしがらみにとらわれることも無く、幸せを謳歌していた頃の自分だった。失われた過去を嘆いた。泣いて悲劇を受け入れるだけだった少女が、覚悟を決めたようにまた一歩踏み出した。
もうピクリとも動かない左手首から先に、森の中から吹いた涼し気な風が当たる。簡単にすまなかったが、確かにアルラはその手を握り返すことが出来たのだ。
「母は静かな人でした」
まだ森の入り口付近で。
ぽつりと少女が呟いた。
アルラは振り返ることはせず、それについて言及することも無く静かな表情で聞いていた。そしてまた、上を見上げる。全てを失ったあの日の夜中。くたくたになりながらも、母と共に歩いて見上げた星空を眺めたように。確かその時は父や死んだ幼馴染のことで頭がいっぱいで、未来のことなんてちっとも考えていなかったはずだ。あの日の自分には、今の自分のことなど想像もつかないことだろう。
「本名は知りません。ただたまに買い物のために外に連れて行ってもらったときは、いろんな人にディロフさんと呼ばれてました。よっぽどリンゴが好きだったんですかね。買い物の度にリンゴをどっさりと買い込むんですよ」
他愛のない話のように振る舞っても、ラミル・オー・メイゲルにとってはその一文字一文字が重要な意味を持つ文だ。明るい雰囲気で話そうとしているのか、はたまた静寂のままただ歩くことに耐えられないのか。白銀髪の少女はようやく笑顔を表情に出して、昔の思い出話を話続ける。道が急な坂になっていて、振り返ったアルラが差し出した手を取りながら、ラミルもまた傾斜を上がる。既にラミル・オー・メイゲルに見える景色は、自分の過去のものと重なっている。
記憶と現実が重なり合う。堪えきれず、掻き消すように話で塗りつぶす。
「母はお料理がとても上手で、私もお手伝いするんですけどなかなかうまくいかなくって。それでも母は美味しそうに残さず食べてくれたんです。えっとそれから狩りも得意で、どんなに遠いところにいる獲物も弓で簡単に仕留めてしまうんですよ」
今度は草木を掻き分けて進む二人の前、にシカのような二本角の魔獣が現れた。黒い毛並みに逞しい角。近づいた二人をじっと見つめたと思ったら走り去ってしまったが。すると気が利く万能AI(?)ウィアは急に地図の表示を停止して、ロード中を示す画面をその場で映し出した。しばらくすると画面に先ほどのシカもどきの画像と、生物としての記録が細かく記されている。
さすがは世界地図。ラミルの話とアルラの考えを簡単に読み取ってくれる。涼風に特徴的なウェーブがかかった髪をなびかせながら、ラミルも横から覗き込むような形で画像を眺めていた。
一部の国や地域ではその柔らかく臭みのない肉質が広く親しまれる...という文もあるが、今食欲を刺激されたら本格的にどうなるか本人にもわからないので、それ以上読み進めるやめておくことにする。心なしか、アルラには彼女の笑顔に作り笑いが消えていくようにも思えた。
「私はいつも母の言うことを聞かずにわがままばかりで、外に出たら怪我して帰ってくることもしょっちゅうで」
「イメージ付かないな」
「そうですか?」
「なんかラミルは小さいころから大人しそうなイメージがあった」
「偏見ですよ。私だって子供の頃くらい子供らしかったです」
「今も一部子供らしいけどな」
アルラはタブーに触れた!
自分の体つきを指した言葉だと瞬時に悟ったラミルが蹴りを入れようとするも、相手が怪我人だったことに気付く。しかもほとんどが自分で負わせた傷なので、余計に気を使った。それをいい気に弄り散らすアルラには後で蹴りを叩き込もうと少女は固く決意する。
なんやかんやあって、話しながら二人は歩いた。
とにかく深い緑の中を掻き分けて進んだ。何度も傾斜を登り、静かに流れる綺麗な小川も歩いて渡る。濡れた靴も歩いてれば途中で乾いたし、もはやアルラの体の痛みなど慣れに慣れたおかげでほとんど気にならなくなった。その間ラミルは、ひたすらアルラに思い出話を聞かせ続けていた。
食べ物の好き嫌い。
さっきの小川で遊んで溺れかけたとこ。
初めて二人で作ったシチューの味のことや。
誕生日にこっそり用意したプレゼントを渡したら泣き出してしまったこと。
一つ一つのどれもがラミルの大切な思い出で、失われた過去だ。失われたということはもう戻らない。どれだけ他人に話そうとも、歴史に形で刻もうが、過ぎてしまった結果は復元できない。焼け焦げた灰を集めても元には二度と戻らないように。同じ形でも同じ色でも、使われるうちに刻まれた小さな傷までは似せれないように。
ラミルの話を聞くことでしか、アルラにはその過去を見ることはできないのだ。だから全てを知るのはラミルだけ。今までかけがえのない時間を母と共に過ごした少女だけ。
やがてアルラも話の中に混ざって、懐かしそうに緑を目に浮かべて二人で語り合った。
「俺も母さんの料理が大好きだったよ。いつもは何気なく食べてたけど、食べれなくなってから母さんのありがたみに気付いた。中でも俺はレッドボアって言う魔獣の肉の丸焼きとお隣のおばあちゃんからもらった卵で作るエッグサンドが大好きでさ。夢中になって食べてた」
「やっぱり私はシチューが好きです。母と初めて作った料理というのもありますけど、母が一番得意だったのがシチューでしたから。この森に出かけて、帰ろうとすると家の方角からいい匂いが漂ってくるんです。それで母はいつも」
草を掻き分けて広い所へ出た。
差し込んでくる光から目を一瞬反らして、アルラは改めてその美しい空間を目の当たりにする。
「この家で待っててくれました」
ぽつりと佇む木製のおしゃれで小さな家と、それを囲むように色とりどりの花が咲き誇っていた。花畑の蜜を吸いに来たのか、たくさんの蝶が舞い踊っている。辺りの枝には小鳥が。先ほどのシカ魔獣がその奥で木の実を食べていて、おとぎの国にでも迷い込んだようだった。あっけにとられて立ち呆けるアルラの手元でウィアが振動して、今度は花の名前やら蝶の種類やらを表示するが、口の端に笑みを見せる少女がアルラの前に出て歩き出したことで忘れられる。
ここまでの道は簡単ではなかった。
なにせ道を知る少女は暗闇に迷い込んで自分を見失っていたのだから。それにこの行動も、『強欲の魔王』を討伐するという明確な目的を掲げるアルラには寄り道にしかならないだろう。
アルラは、自分は間違っていなかったと確信できた。
少女のあの笑顔を見れただけで、損得なんて関係なしに『成し遂げた』と実感することができる。世界を救うなんて勇者の大業な目標に比べれば小さいかもしれない。
失われた笑顔を取り戻す。
我儘で始めた行動が氷を溶かした。傷だらけになりながらも差し出した手を掴ませることが出来た。あの時ラミルを見捨てていたら、アルラは一生後悔していただろう。
ラミルは建物の入り口に近づいて、『ただいま』と小さくこぼしながら扉を開く。当然『おかえり』が返ってくることはないが、余韻に浸る様に瞳を閉じて、ラミルはまた一歩我が家に踏み込んだ。円盤型の端末を仕舞って続くアルラが見た家の中は驚くほど静かで。綺麗で。そこには『強欲の魔王』の形跡なんて無い上に、今にでも『おかえり』が返ってくるように思えた。
リビングへと進んで、テーブルをなぞった指にうっすらと埃が付着する。鉢植えに飾られた花は枯れていて、窓から差し込む空の灯りだけで部屋の中は輝いている。動くのは壁にかかった時計だけ。ちくたくと回る秒針が、過ぎ去った時間の流れを教えてくれる。
「ラミル...」
アルラが心配に思ったのか声をかけると、ラミルは笑いながら振り向いて『平気だ』表情で示した。ふわふわな長い白銀髪を揺らして、木製の質素なテーブルに手を置く。
「大丈夫、と思ったんですけど。やっぱりそうでもないみたいですね。どうしても感情が溢れてしまいそうな、受け入れたくない現実が押し寄せてくるようで」
瞳の先を自らの手元へやる。手で擦ると埃が煙のように立ち上がり、彼女には空気に散った埃の中に記憶が投影されたように見えた。奥の椅子に座っていた幻想の母は消え、託された命を胸に感じて。一方でやっぱり寂しさも感じながら。
「でも、向き合わなくちゃだめですよね。託されたから、嘘で誤魔化すわけにはいかない」
強いな、とアルラは思った。
ほんの少し前まで泣きじゃくる子供の用だった彼女が、ここまで強くなった。受け入れることで開花した。長い長い人生には必ずつい纏う苦痛から目を背けていた少女が、いつの間にか受け入れることを知り、戦って、自分で答えを導き出すに至ったのだ。
少女の力強い表情はアルラにも届いた。全身を蝕む痛みが薄らいだ気がする。少女は取り出した小さな瓶をこつんと、埃を払い落としたテーブルの上に置いて祈る様に目を閉じた。
少し遅めの親離れ。
旅立ちを意味する合掌と祈りに涙はいらない。世界に祝福された異能の少女は誰よりも優しくて他人想いな『良い子』で、何もかも自分のせいだと背負い込み、自分を偽る『悪い子』でもあった。今日この日、ほんのちょっぴり『良い子』に近づいた少女は青く輝く宝石のような瞳を開けて、また笑う。今度こそ純粋な想いだけで。
もう心配はいらないよ、と。私はもう負けないよ、と。
(ありがとう。お母さん)
祈る相手はこの世にはおらず、きっと空の上で見守ってくれている。ラミルは自分の声で『もう、平気そうだね』という言葉を聞いた。
『偽る者』はもういなかった。美しくも残酷で。残酷ながらも温かい世界を受け入れた少女だけが差し込む光の中で佇んでいる。
『世界編集』は関係ない。戦って勝ち取った僅かな平穏を生きると誓った少女は、もう二度と世界に屈することはないだろう。
ラミル・オー・メイゲルはラミル・オー・メイゲルだ。それ以下でもそれ以上でもなく、ごく普通で世界にただ一人の女の子。ほんの少し特別な点を挙げるとすれば、世界に残り少ない『妖魔族』で、それはそれは美しいウェーブがかかった白銀の長い髪が特徴的で、変わった『異能』を持つ咎人というだけだった。
「行きましょう」
美しい二人の記憶の中のテーブル。
そこには小さな陶器の瓶と一輪の可憐な花が供えられている。
旅立つ娘から見送る母へ。
何よりも尊い贈り物が届いた。




