絶対零度の世界
勝算なんてはなからなかったはずだ。
たとえ相手が悩める少女でも、彼女は『世界編集』と呼ばれる最大級の異能...うまく使えば第八の魔王にすらなりえるとまで世界地図ウィアに言わしめた可能性の化け物だ。彼女と自分ではあまりにも戦力に差がありすぎたのだ。
例えるなら、あるいは戦車と自転車か。どこの家庭のお母さんが日常で使う自転車だって、使い方ひとつで簡単に人ぐらい殺せる。実際、そんな事故はどこでも後を絶たないのだから。しかし自転車如きが戦車に正面から激突したところで、びくともさせられないだろう。
彼女がもし冷酷非道な悪女だったら?瞬く間に恐怖で世界を染め上げていただろう。
だが彼女は違う。
誰かが傷つくことを恐れ、傷つくべきは自らだと誤った認識を呑み込むほどのお人好しだった。そんなお人好しだから、こちらの話をしっかり目を見て聞いてくれると思っていた。
違った。
ほんの数時間足らずで、彼女は変わっていたのだ。
変わってしまった。
どこぞの灰被りの青年にも負けず劣らずなほどにボロボロになった短髪橙髪の男は、薄れゆく意識の中にそんなことを考えていた。
もちろん彼だって抵抗した。しかし抵抗したところで、せいぜい取り巻きの『白の使い』を何人か道連れに出来た程度だ。少女だからと言って、無意識のうちに甘く見ていたのかもしれない。何とか命こそつないだものの、これでは足止めを買って出たあの青年
に申し訳がたたない。持てる力の全てを出して挑んでもこの結果となっては、笑い話にもならなかった。
まさしく魔王にも匹敵する絶対的な力。
何人たりとも寄せ付けぬ世界を書き換える力だった。
少女は車両のドアの前に立ち、視線だけで短髪男の姿を追っていた。薄っすらと笑みを浮かべる口の端から血を垂れ流し、今にも倒れそうなふらふらの足取りながらも男はまだ立っていた。あちこちの切り傷や擦り傷から滴る血液も、ほとんどがカーペットの染みになった。
彼は傷を即座に治癒できる咎人ではない。失った分は時間をかけて補うしかないし、もちろんその時間もない。彼には肉体の再生力を強化する『神花之心』はないし、便利な魔法や呪術、錬鍛術なんかで傷を防ぐこともできない。
彼にはいったいどのくらい自分が話していたのかすらわからなかった。ゴドッッ!!と地面が大きく揺れて、耳障りな音楽が鳴り響く。揺られるがままに抵抗もできず、あっさりと倒れて意識を失った。
最後にひっそりと口を動かしていたことに、少女は気付かなかった。
――――夜明けが訪れた。
長い長い暗闇の時が霧散して、また一日が始まる。全世界大多数の人間にとってはいつも通りの朝日。だが彼女にとっては、最後の朝焼け。昇る光に照らされて、六両編成の小さな列車が動き出す。
ゆるふわなウェーブがかかった白銀髪の少女、ラミル・オー・メイゲルはその最後尾の車両の一番前の座席。長い椅子の窓際で景色を眺めるように座っていた。脱ぎ捨てた祭服のような衣装は『白の使い』の信徒が拾って来たのか、中央を挟んだ座席にぽつりと広げておいてある。
彼の代わりに自分を説得しに来たという組織の裏切り者は、そのまま車両の後部座席のほうへ投げ捨てられている。ほっといてくれれば彼も傷つくことはなかった。関わらなければ、普通を謳歌出来ていたのに。
「...」
窓の外は一度街を抜けてしまえば、あとは自然に満ちた森や平原をかき分けるように突き進んでいった。ふと視線を下へとずらして、自分の小さな手に握る陶器の瓶を眺める。
この中には、ラミル・オー・メイゲルにとっては唯一の存在が眠っている。生まれてすぐ洞窟へ捨てられ、本来はそのまま尽きるしかなかった命を18年も育て愛してくれた義母。ラミルを逃がすために無謀にも『強欲の魔王』に立ち向かい、花を摘み取るかの如くあっけなく失われてしまった命は、ラミルに残された最後の思い出でもあったのだ。
ラミル・オー・メイゲルはこれより思い出と対面する。亡き義母と過ごした家に帰る。たったそれだけのことでも、ラミルにとっては何よりも大きな意味を持つことだった。
木材と皮で美しく組み上げられた車両は一人で独占するには大きすぎる。おしゃれな照明は列車が曲がったり揺れたりするたびふらふらと行ったり来たりを繰り返していた。
更なる悲劇を生まないためにも、私は死ぬしかない。死ぬことは簡単だ。仮に今からでも死のうと思えば、列車の窓から身を投げるだけで簡単に叶うのだろう。
だけど最後は。
最期くらいは。
散々奪ってきた自分でも、最期くらい誰かに与えて終わりたい。教団が言うように聖骸となればその悲願も叶う。『世界編集』なんて関係なしに、人を救って終わることが出来るのだ。
今でもたまに信じられない。義母が死んだだなんて。認めるしかないのはわかっている。聞かされたわけでもなく、直接その光景を見ていたのだから。瓶の中から義母の魂が語り掛けてくるなんて奇跡も起こらないし、当然だが遺骨は喋らない。
一度失われてしまった命は、蘇ることなどないというのが『世界』の一般常識だということは言うまでもない。
瓶を眺めながら、ラミル・オー・メイゲルはかつて自分が捉えられていた牢屋での生活を思い出していた。幸せだった日常ではなく、人生に絶望しきっていたあの暗く冷たい牢での暮らしを、だ。幸せな記憶は走馬灯まで残しておきたかったのかもしれない。
教団の世界地図とかいう演算装置?AI?によると、『世界編集』には、あまりにも世界に与える影響が大きすぎるせいで、そもそも自分でも使おうとすら思うことが出来なかったコマンドがいくつか存在するらしい。
それを確かウィアは、『上書き保存』『やり直し』だなんて呼んでいた。
ラミルは小さく微笑を浮かべて、疲れた表情でつぶやいた。
「そんなことが、出来たらな」
もしも私が本当に世界を編集する力を持っていたら、義母だって死ななくて済んだ。
『強欲の魔王』なんて簡単に倒せたかもしれないし、そもそも『世界編集』を手に入れようとすら考えなかったかもしれない。
どんな時も、彼女が生んだ負を背負わされてきたのは、彼女自身じゃない。無意識のうちに飛ばしてしまった弾丸を受け止めるのは何時だって第三者だ。出来たなら、誰にも迷惑をかけずにひっそりと暮らしていたかった。咎人として生まれることも無く、ごく普通の人間としてご飯を食べて、友達と遊んで、学校に通ったりもしてみたかった。
たったそれだけのささやかな願いすら叶わないのか。
涙もとうに枯れたはずの瞳が、揺らんだ。
「これで、いいんです」
言い聞かせるように。
再確認するように呟いた。
列車ががたん!ともう一度ど揺れて、瞳の端に浮かんだ雫は簡単に垂れ落ちる。小さな手で拭えば拭うほど止まらなくなりそうだ。外の朝焼けも過ぎ去って、手の中の瓶がからころと軽い音を立てる。
(最初からこうすればよかったんです)
自分が生まれてきた理由は、なんだったのだろうとラミルは思う。
もしも世界に害を与えるためだとしたら、さながら自分は生まれながらの罪人。文字通り咎人だったというわけだ。どのくらい昔だったか、義母の書庫で偶然見つけて読んだ本にも似たようなことが記してあったのを思い出す。『咎人とは、一説には生まれながらに業を背負わされた不幸を呼び寄せる邪の象徴』だったか。確か著者が人間絶対主義だったので過激な内容も多く記されていて、ほとんど内容など覚えていないながらもそこの一文だけは印象に残ったのも、『咎人』という境遇が自分と重なったからかもしれない。
義母は隠れてその本を読んでいた私を見つけて、慌てて取り上げて捨てていた。『捨てようと思ってほったらかしにしていた』だなんて言ってたが、自分を拾って育てる上でそういう可能性を示していただろうか。
実はその時には既に自分を拾ったことを後悔していたのだろうか。
考えれば考えるほど、暗くて苦しい『もしも』が止まらない。
どす黒い感情は栓をしたところで、内側から弾け飛ばすように圧力を以て押し潰そうと迫ってくる。
私だって望んで生まれてきたわけじゃないのに。願わくばこんな残酷で冷たい世界にだなんて、生まれたくもなかったのに。
どんな時だって願いとは逆の奇跡ばかりだった。
少女はもう、諦めていた。
ラミル・オー・メイゲルは世界に数少ない妖魔族の生き残りで、その上正しく使えば第八の魔王にすら成りえると呼ばれた『世界編集』という異能の咎人で、ウェーブがかかったふわふわな白銀髪が美しいこの世にたった一人の少女だ。
抗うことを恐れた偽る者だ。
虚ろだった少女の意思を目覚めさせる音があった。
ラミルは同時に、恐れた。
不意にがらららら、という音があった。
それは、車両の扉が開く音だ。
しかも彼女の座る座席が最も近い扉。即ち前の車両と連結部の扉だった。
入って来た誰かを見て目に映ったのは、夥しい赤に覆われた灰被りの青年だった――――。
......ああ。
また、傷付けてしまう。
「また...」
「追いついたな」
その青年は、ラミル・オー・メイゲルの対極だった。
ラミルが『才能を持って生まれたが故に破滅した』に対して、彼は『才能を生まれ持たぬが故に破滅した』者だと。真っ白な病室で彼は語っていた。
灰被りの青年の左腕は肩から血で赤く染まった布に吊り下げられていて、彼の体が今どんな状態なのか一目で判断できるほどに痛々しく、これ以上とない苦痛の象徴にも見える。人が朝日を見上げて眩しいと呼ぶように、全人類数十億人のうち誰が見ても、彼を見れば『死にかけ』と指さして呟いただろう。
「言ったよな、お前。自分で望んで選んだ道だって」
「それが、どうかしましたか」
「ならなんで泣いてんだよ」
ガガガガッッギィィィィィィンッッッ!!という凄まじくも凍てつくような波動があった。衝撃は一瞬にして車両内全域に広がり、明らかな変化を生んだ。
アルラの脚元から突き出た氷の剣山は白銀髪の少女が席から立ち上がると同時にするりと溶け落ちて、床を覆うカーペットにしみ込む。狭い車両内で床を思い切り蹴って回避したアルラは、丁度彼女と正面から相対するような位置に降り立つ。ちらりと隣へ視線を移して、そこで自分と同じようにズタボロの雑巾のようになって意識を失っている男を発見した。
何も言わず、再び向き直る。
窓から差し込む風は少女の美しいウェーブがかかったふわふわの白銀髪を揺らしていた。
ラミル・オー・メイゲルの属性は派生の『氷』
『世界編集』だけが、ラミル・オー・メイゲルの特異性を示す材料ではない。
「素直になれよ。嘘ってのはそんなに便利じゃない。痛いなら痛いって、苦しいなら苦しいって言っていいんだよ」
口の端が震えている。夥しい冷気の渦が、白銀髪の少女を中心に渦巻いていた。
「苦しいのも痛いのも、もう慣れましたよ」
「俺もさ」
アルラの真似か、片手を首に当てて骨の音を鳴らそうとしても思ったようにいかなかった。
「痛かったけど、苦しかったけど乗り越えたんだよ。そりゃ俺たちは全く違うさ。けど俺は、少なくともラミルみたいに、何もかも自分のせいだと背負い込んで一人で泣くことはしなかった!未来に怯えて過去に縛り付けられる生き方なんて真っ平だ。悔しかったら抗えよ!!何でもかんでも『私が悪い』で片づけるなよ!!」
全身を赤で彩る青年が言った。言い放った。自分と他人の血をぐちゃぐちゃに吸い込んで赤く染まった布切れを、それで吊り下げられた左腕を強引に動かすことで引き千切る。空気に触れるだけで激痛が走り、また血が噴き出した。びちゃびちゃと垂れ流しの鮮血は極彩色に包まれて、辛うじて傷がふさがっている程度だ。傷なんていつでも開いてしまうだろう。
「.........偽善です」
「かもな」
「こんなことに、私なんかを救うことに意味なんてない」
「意味ならあるさ」
列車に『白の使い』はもういない。全てアルラが叩き潰すか、時速200km近い速度で走り続ける列車から外に投げ出してしまった。正真正銘二人きり、邪魔者は入らない高速と氷結の世界だ。『世界編集』と『神花之心』まともにぶつかれば、いったい何が起こるのか。
アルラは肩をすくめて。
「迷える一人の女の子を助ける。そんな当たり前なこともできずに魔王を退治できるかよ」
あっさりと言い切る。
無茶苦茶だ。
無茶苦茶だけど、アルラらしい。
アルラ・ラーファの原点は【憎悪】だ。憎んで、憎んで、憎んで、憎んで、憎んで、憎んで。辿ってきた道の先でアルラは歩いている。意味もなく人を助けてしまう特大級のお人好し。そんな性質の持ち主であるから、とことん邪魔をする。
救うために、助けるために手を伸ばすのだ。口ではどれだけ悪態をつこうとも、本質的に誰かを救わずにはいられないんだろう。あくまでもこれを『自分のため』と言い張ってしまうくらいには意地っ張りなのだろう。
「アルラさんらしいですね」
気が付けば、本当に久しぶりに笑っていた。
助けるために自分を犠牲にする?だとすれば、この人はもうお人好しなんてレベルじゃない。馬鹿だ。多分この人は、腕や足の一本や二本がへし折れたところで止まることはないんだろう。彼も私と同じで異能があろうがなかろうが、『世界編集』も『神花之心』も関係なしに。一人の人間として私を見てくれている。
背負うモノは何一つとして共通してない。命か、救済か。助けるか、殺すかだ。
不意に浮かんだ笑みをまた噛み殺して。今度は泣きそうな表情を浮かべながら言い放つ。
「でも」
この人は、ああこの人は本当に馬鹿だ。
今更立ち止まることなんてできないのに。
空気が凍てつき始めた。極寒の吹雪のように、迷う者を容赦なく氷に閉じ込める天災の如き少女は救われることを望まない。ノイズに埋め尽くされた全身が、心の底から救済を拒絶してるのがわかる。
ごく普通の女の子は、ここで泣き叫んで受け入れてしまうモノなんだろう。救済とやらを。寄り添おうとする誰かのことを。
私は、私だ。
ラミル・オー・メイゲルは私だけ。心の底から自分を憎悪するただ一人のラミル・オー・メイゲルならここにいる。ここにいるから、いっそ今すぐ楽になろう。
真っ白な世界を穢す黒になるくらいなら、いっそ世界から零れ落ちよう。
「私は私が赦せません」




