灰色に染まって始まれ
「ふっ...!ふっ...!ハァ...!」
大爆炎が立ち上る教会だった場所から離れたところで。あるいはとある病院の向かい側に点在する公園の入り口付近で。暗闇の中に一人の白銀が浮かび上がった。慣れない運動をしたせいで息も途絶え途絶え。長距離ランナーがマラソン大会を完走した後のように膝をつき、ぽたぽたと地面へ垂れる汗の雫を眺めていた。邪魔だった豪華絢爛な祭服は投げ捨てられて公園の池に浮かんでいた。最低限必要レベルに身軽にはなったものの、お気に入りの白ワンピはもうどこにもない。それどころか『自分』すら。
真っ白だった自分はもうどこにもいない。
「ぐっ、う...」
昼にはよく近所の子供たちが元気に走り回り、お母さん集団があらあらうふふと雑談を交わす憩いの場も。もうすぐ夜明け前という時間帯に訪れる人なんて一人としていなかった。向かいの病院の窓から漏れる光すらない夜空の彼方。轟音から目を背けるように逃げ出してきた少女は、ふらふらと横長のベンチに腰掛ける。どうやら息切れの原因は急に走ったことだけではないらしい。
例えば内からくる裏切りの罪悪感とか。嫌なことから目を背け続けた精神的摩耗とか。
あるいは、死ぬことに対しての恐怖なんかも含まれていたかもしれない。それは全体の僅か1%にも満たないかもしれないし、50%を超えるほど膨大かもしれない。真相は少女自身もつかめていなかった。
このまま表情から力を抜いてしまうと、栓を抜いたように押し込めてた何かが噴き出そうだ。
ならばもう楽になりたいと。少女のダムが決壊する。
「うっ、くっ..う、あ、ううあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
紛れもなく今回の中心。
心優しい妖魔族の生き残りの少女。ラミル・オー・メイゲルの咆哮は、黒で塗りつぶされたキャンパスに埋もれて消える。
ここには灰被りの青年も、長髪の神父もいない。
だから思いっきり泣いても誰にも聞かれない。
(あの人は)
青年は。
(アルラさんはっ)
【憎悪】は、彼女に向けられたものではなかった。『神花之心』の剛腕で思い切り殴られること覚悟していた。殺されたっておかしくなかった。『無関係』だと一方的に関係を切り捨ててしまった自分を許さないと思った。
彼は、人一倍命に関心がある。
【憎悪】の咎人で、『神花之心』という奪った命で戦う異能を持つ性質故か。人一倍命を大切に考え。人一倍奪った命に敬意をもって。根は人一倍優しい青年だった。
そんな彼の目の前で、一つの命を見捨てたのだ。
なのに。
こんなにも酷い嘘をついたのに。
(アルラさんは、私を見捨てなかった!)
どうして悪意だけしか見て取れなかったのだろう。いつから自分の命に無関心になったのだろう。とっくの昔に捨て去った命の価値観を、私自身が諦めた命を。灰被りの青年だけは救い上げようとした。ほとんど無関係な人物のために散々傷ついて、戦っていた。
どうしてだ?
どうして誰かのために必死になれるのだ。
「どう、して」
もう自分の言葉すら小さく感じる。
意味も分からない涙は枯れて、ベンチに座りながら地べたへ俯く少女の耳の隅がけたたましいサイレンの音を捉えた、きっと決着がついたのだ。自分がついさっきまで感情なく立っていた方向から発生した、空間が弾け飛んだような爆発音。戦い方の違いから、どちらが何をしたのかは明確で。結局何もかもが虚しい結果に終わってしまった。
寸前に言った彼の言葉が脳にこびりついて離れない。
『こんな馬鹿げたことがお前のやりたいことだとでもいうのかよ』と。
.........馬鹿げたこと、なんだろうか。やってることは、自分も彼も根本はすべて同じではないのか。
誰かのために自分の命を投げうって、必死に目的を果たそうとしている。
ラミル・オー・メイゲルは亡き義母のために自分の命を捧げたい。
アルラ・ラーファはそれを身勝手と呼びラミルが命を捨てることを許さない。
彼は生きた私を救おうとしていて、私は死んだ義母を救おうとしている。どこに差が生まれた?
その自問自答は夢幻に並ぶ円周率の中から決まった20桁の数字の列を探せと言われているようなものだ。何処かにはあるかもしれない。けれど見つけられる可能性は限りなくゼロに等しいかもしれない。きっとそうだろう。
(間違ってなんか、ない。自分の命を好きに使うことの何がおかしいっ!)
いいや、わかってるはずだ。
世界のどこかで、彼女を知る唯一の存在はぽつりと息を漏らした。彼女にも、その言葉が届いたような気がした。
ラミル・オー・メイゲルは誰よりも優しくて健気で他人想いだから。自分に嘘ついてでも他人を優先してしまうようなお人好しだから。
本人にそんな自覚は全く無くても、それでも彼女の笑顔に救われた者はいる。
確かにこの残酷で惨憺たる世界に、彼女の爪痕ははっきりと残された。無意識のうちに自分で作っていた爪痕が今更になって自分の首を絞めるとはなんという皮肉だろうか。
くしゃくしゃの表情を何とか平常付近まで正して、それでもやっぱり涙は流れてしまって。もう死の恐怖で流れる涙なのか、自分を想ってくれる人がいた喜びに対する涙なのか、どこまでも自分の邪魔をする者への怒りの涙なのか。白銀髪の少女は何もわからない。
『悩んでるの?』
「......」
遂に、幻覚幻聴さえ現れたか。頭の中に直接語り掛けるような声があった。
何処か楽観的な表情を浮かべて、足をゆらゆらと揺らす少女が隣に座っていた。
腰辺りまで伸びた長い白銀の髪。宝石のように輝く青の瞳。若干幼さが残る体つきの少女。
「あなたは」
『知ってるでしょ?私だよ。ラミル・オー・メイゲル。あなたの深層とでも仮定してみれば?』
「......」
『あれ?信じてない顔だそれの顔は。だけどね、私は私だよ。表層しかさらけ出せないあなたにはわからないだろうけど』
表層。
上っ面だけの感情。
自分でさえ、この行動が間違っているというのか。
ラミルの表情が、内側から弾ける。全身の力が抜ける。意識が完全に停止して、夢の世界へ入る一歩手前のような感覚が現れた。全世界の四方八方から囲まれて、挙句の果てには自分すらも無意識のうちにラミル・オー・メイゲルを否定した。
『別に間違ってるとは思わない』
少女の意識をくみ取ったように、もう一人のラミル・オー・メイゲルは髪を指先でくるくるといじりながら言った。
『それも選択の一つ。そもそも正解不正解なんて誰が決めるの?あなたが嫌ってやまない世界ってやつ?それともあなた自身?いやいや。最初から正解不正解なんてないの。たった二つの選択でしか物事を考えることもできないのはただの未熟だよ。内側まで見た目相応になっちゃうかも』
誰が見た目幼いだ、と怒鳴ってしまうところだった。主観的に見ても客観的にみられてもそれが私の第一印象らしいのでどうしようもない。牛乳や数多もの乳製品と格闘した日々はどうやら報われなかったようだ。
『おっと、言っとくけど牛乳を飲めば乳でっかくなるなんて迷信。要は脂肪の塊なんだから肉食え肉。乳脂肪だけで賄えるほど人体の神秘は甘くないよ』
「.........」
『どうしたの?また表情が負に傾いてる』
「どうしてアルラさんは、私を怒ってくれたんでしょうか」
『そりゃ、あの人は誰よりも命って奴を大切にするからね。たった一ヶ月ちょっとでも「私」は見てきたはず』
ぱっ、と。もう一人の『自分』の姿がベンチから消える。自分の声を辿って探してみると、こんどは両の膝を曲げてベンチ裏の大木の枝にさかさまになってぶら下がっていた。
彼女が言うように思い出してみれば、確かにそうだった。アルラ・ラーファは誰よりも『命』を大切に扱ってきた。
灰被りの青年は、毎日『いただきます』を欠かさなかった。
灰被りの青年は、闇雲に命を奪うことはしなかった。
灰被りの青年は、いつも思い悩んだような表情だった。
『あなたは目の前に死にかけの女の子がいたとして、その命を救うために自分の命を投げうてる?身内でも何でもない正真正銘赤の他人のために』
そう言われると自信はない。
例えば海岸にいるとする。50メートルくらい離れた水の中にはじたばたと水しぶきを飛散させる子供の姿が。でも私は泳げない。選択肢はいくつある?
他の人を呼んで、その人に全部任せるか。
自分には関係ないと冷酷に切り捨てるか。
別の工夫を凝らして、自分は安全という立場に突っ立ったまま助けようとするか。
......直ぐにでも飛び込んで、自分で助けに行くか。
『あの人は躊躇なく飛び込むよ。というかはなからそれ以外の選択肢を持っちゃいない。冷酷に振舞ってはいるけど誰よりも心優しいヒーローなの』
ヒーロー。
口だけ動かして実際に行動を起こさない人物と無意識で行動してしまう人物の差、とでもいうべきか。
肩をすくめるだけのもう一人の自分もそれ以上は言及しない。
『さて、お悩みは解決したかにゃあ?こんなとこでぐちぐち悩んでる暇があったら、いい加減その小さい癖に重った~い腰をあげたら?』
今度はいつの間にか、少女が座りこけるベンチから少し離れた砂場に『もう一人』が移動していた。
ふふんと息を吐いて。両手で砂の塊の形を整えていた。その砂で形取られる城は人間の手で作ったものにしては以上に小奇麗で、パティシエがケーキの表面をパテで整えるような仕草で指を奔らせる。あっという間に完成した俗にいう西洋風の城。
そう、『世界編集』
『ん?ああこれね。世界編集って呼ばれてるんだっけ?「私」は正しく使えてないみたいけど』
元はといえば。
『世界編集』だってラミル・オー・メイゲルの真っ暗な人生に影響を与えてないとは言えないはずだ。むしろ彼女がこんな異能を持って生まれなければ『強欲の魔王軍』が彼女を狙うことも無かった。もっと言えば生みの親に捨てられることすらなかったかもしれない。そうなれば、彼女の義母は彼女と関わることも無く、彼女の代わりに命を落とすことも無かったはずなのだ。
「こんな、こんな異能さえなければっ...『世界編集』なんてなければ!!」
『なーにか勘違いしてない?』
深層のラミル・オー・メイゲル。彼女は次に砂でぴっちり固められた人形を成形しながら、怪訝な表情を向ける『表層』のラミル・オー・メイゲルに異論を唱える。それも呆れた調子で
『そもそもさ、「私」に世界編集は関係ないの。所詮はラミル・オー・メイゲルっていう本来生まれるべきじゃなかった特異点の付属品でしかないから、世界編集の有無で「私」の人生に変化はない。言っちゃえばそれただの責任転嫁ね』
そう言って肩をすくめた『深層』のラミル。
とても自分とは思えない態度のラミル・オー・メイゲルには、流石の優しいことと他人想いに定評があるラミル・オー・メイゲルも苛立ちを覚える。どうやら自分の無意識の姿らしいもう一人の少女はバカにした口調で問いかけたと思えば、子供のように両手で砂をすくい上げてパラパラと散らす。ふわふわとウェーブがかかった白銀髪を夜風になびかせてすくりと立ち上がった。
『自分で決めろ』とでも言うように。
片手は自分の胸に当てて、空いた手をベンチのラミル・オー・メイゲルへ突き向けた。
『本当にやりたいことは何かな?』
紡いだ言葉に重みを感じられるのはやはり彼女も『ラミル・オー・メイゲル』であるが故か。
それだけ言って消えた。
『深層』と名乗ったもう一人のラミル・オー・メイゲルは。今ここにいる『表層』のもう一つの可能性とも呼べる少女は、どこか切ない表情を浮かべながら霧のように霧散する。最初から最後まで全てのやり取りが夢だったかのように。残されたのは一人の少女だけだった。
ラミル・オー・メイゲル。
腰まで伸びたふわふわの白銀髪を夜風になびかせる、たった一人の妖魔族の少女。
生きるべき道を生まれた時から見失い、導いてくれる誰かもいなくなってしまったひとりぼっちの女の子。その異能の全てを使えば第八の魔王の可能性すら得ることが出来る特異点。
特異点とは世界のほころび。
本来生まれてきてはいけなかった命。
「どうすればよかったんですか」
どうすればよかったの?
「私なんて生まれてこなければよかったの?」
その通り。私なんて世界にいらない。
「でも、温かい人もいた」
なら恩は返さなきゃ。
一緒にいた時間は確かに短くて、でもとても温かかった。自分の我儘のために、そんな命をまた失わせたくない。あの人はこの先もっと多くの人を救うことになるだろう。それは予測ではなくて確信。あの人は『見ず知らずの誰かを思わず助けてしまう』という奇妙な性質を生まれ持ったに違いない。自分では【憎悪】なんて言ってるけれども、本当は道さえ曲がらなければ。ちゃんとした標識でも置いてあったのなら。きっと今頃騎士にでもなって国のため、人のためと働いていたんだろう。
暗い暗い夜空にちらちらと光が差し込むのは、騒ぎを聞きつけた街の人たちが部屋の電灯を灯したからだ。今頃爆発地点付近には大勢の野次馬が駆けつけているのだろう。未だ舞い上がる黒煙が収まる気配はない。
自分が生まれてきたばかりに犠牲となってしまったかつての義母をこれ以上無念にさらすわけにはいかない。これ以上自分が逃げ出そうとした世界で必死に生きるあの青年を、これ以上自分のせいで狂わせるわけにはいかない。
そう、言ってみればこれは罪滅ぼし。
ラミル・オー・メイゲルのせいで狂ってしまった人や世界の歯車を、ラミル・オー・メイゲルという余分な歯車を間引くことで正常に戻すだけのこと。
誰かが自分の生を望んでいても、たった一人が犠牲になるだけで大勢が救われるというなら。
「...」
涙声が、閉じた瞼から溢れる雫と共に響く深夜。
世界に二人といない少女の決断はちっぽけで。
だからと言って無下にはできないもので。
叫んでも、泣いてもどうしようもなくて。
「.........」
不意に風が吹いたその時。
少女の髪が大きく横に吹かれて、その表情があらわになった。
「私なら」
今を生きる自分の命よりも、失ってしまった誰かの命のほうが重く感じてしまった。
自分を間違っていると叫ぶ人よりも、自分を正しいと訴える人を信じてしまった。
たとえ幻想だったとしても、『深層』の自分が語ったようにそれは決して間違いではないのだろう。だからと言って正解でもない。
「私がすべて悪いなら』
小さな手の中に握りこまれた小さな陶器の瓶。そこへ数滴の雫が垂れ落ちた。
もう迷わない。
瞳から流れる涙も、拭わない。
どこか真っ白な世界の中で、面白そうにそれをのぞき込んでいた『もう一人』は思わずつぶやいていた。鼻から大きく息を吐き、眉をひそめて。どうしたものか、と付け足しながら。
『そっちに傾いちゃったかー...』
もっと別の可能性を見せたほうがよかったか、という後悔ももう遅い。
決断したように。
あるいは吐き捨てるように。
地の底を見据えて、白銀髪の少女は。
ラミル・オー・メイゲルは呟いた。
「戻れない。もう、お義母さんには私しかいない。許されなくてもいい。世界に忘れられてもいい」
私にしか、出来ない。
「絶対に、やり遂げる」
戒めるために、この素晴らしくも穢らわしい世界のどこかで。歪んでなお一人の少女は立ち上がった。たった一ヶ月の関係を今度こそ断ち切って、灰色の誰かの瞳の記憶も現世へ捨てる。例え世界中のなにもかもが自分の敵になったとしても、かつて記憶を共にした命を無下に終わらせない。
もう迷いも恐怖もない。
さあ、今こそ手を拒め。
世界中を巻き込むほんの一夜の大嘘を。
何が何でも成し遂げろ。




