プラチナ・ヒロイン
花を愛でたことがある。
たくさんの緑に囲まれた中、ひっそりと身を隠すように咲いていた花に触れて、香りを楽しんだ。
現代の日本に暮らしていればまず考えなかっただろう。だけどあの日、あの時だけ、急にそんなことを思ってしまった。自分でもどうしてそんなことを考えたのかと今でも思い悩むことがある。結局結論は出なくて、いつものように寝るころにはそんなことも忘れる。
特にいつもと変わらない日々の中で何か特別を得たいという衝動は、人生の中には何度も存在する。それをある人は発見と呼び、またある人は試練と呼び、アルラは分岐点と呼んだ。
あの日もそうだった。いつものように父と薪を拾って、母が待つ家に帰って、晩御飯を食べて寝るだけの一日だった。ふと下を見た時にその花は咲いていたのだ。誰も注目しないような木陰でひっそりと、でも強く。
ただ、そうだ。
あの日は風が吹いていた。
確かその冷たい風に導かれるように、あの日花を見つけた――――。
一人の少女が佇んでいた。
暗く冷たい牢の鉄格子にはとても似つかわしくない純白の少女が。
石造りの階段を下った先、薄く明かりが灯る無数の鉄格子の中の一番手前。監獄のような牢の中で、その少女はアルラを見つめている。
腰まで伸びるウェーブがかったゆるふわ白銀髪が特徴的な美少女。見た目の年齢は十代前半で、RPGの村娘のような布を搔き集めて作った服を纏っていた。
何故今になって遠い昔の木陰に佇む小さな花なんて思い出したのか。
間違いなく、彼女だ。
あの日の花のように真っ白で、曇り気一つない瞳を持つ少女が遠い記憶を連想させたのだ。
宝石のように輝く瞳でじっとアルラを見つめていた少女の唇が動く。
「あの......なんですか?」
「えっ?あ、ああ」
思わずたじろぐアルラを不思議そうに見つめて、少女が首を傾ける。軽い動作の一つで雪のように白く長い髪が揺れる。本来の目的を思い出して、囚われの身の少女に本題を投げかけた。アルラの目的。『強欲の魔王軍』からの逃亡に手を貸してほしい、と。
いざ口にしようとして、若干口がおぼつかなくなった。
「いろいろあってここに迷い込んだんだが追われているんだ。『強欲の魔王軍』から逃げるために、えっと、その、手伝ってくれないか」
「手伝う?」
「お嬢ちゃん、捕まってるってことは咎人だろ?あいつらから解放するかわりに脱出に手を貸してほしいんだよ。」
「お嬢ちゃんじゃありません。私はこう見えて18です」
「嘘っ同い年!?いやでも前世含めれば俺のほうが...」
どう見ても年下としか思えない。
見た目に反してアルラと同じ年に生まれた少女は不機嫌そうに眉をひそめて、突き放す。目の前に差し出された希望より、不信感が勝ってしまう。真剣な眼差しで少女と向き合うアルラに、それでも少女は視線を逸らす。
「信用できません。急に現れて力を貸してほしい、なんて。牢を出たいのは確かにそうですけど、貴方が魔王の手先じゃないという証明はあるんですか?そんな口車に乗せられるほど馬鹿じゃありませんので」
「力を持つことを否定しないってことはやっぱり咎人なんだな」
「証明できますか?」
少女が強い口調で再び問う。
アルラに自らの潔白を証明する手段なんてない。そんなものがあればとっくに突きつけていただろう、押し黙ることしかできなかった。どうやら咎人らしい白銀の少女は小さく息を吐いて、宝石のように輝く瞳を反らす。きっと今までもこんなことがあったのだろう。利用されることを拒み続けた結果この牢に監禁されたのかもしれない。
今のアルラでは、言葉でしか自分を証明できない。
ならせめてでもと、少しでも信頼を得るために。
「アルラ・ラーファ。...俺も咎人だ。【憎悪】、力の大きさを制限はあるが強くすることが出来る異能を持つ」
「与えられた情報が全て正しいとは考えません」
ドゴオッ!!!と軽い爆発じみた音があった。
アルラが人差し指に纏った『神花之心』で壁を弾いた音だ。証明のために、少しでも残しておきたい貴重な命を使って力の一部を見せつける。不自然に抉れた石の壁が証明した力の一端を、少女がどう捉えたのかはわからないがこれがアルラの限界だった。
「今はこれしかできない、けど信じてほしい」
「異能はわかりました。けどそれだけです。いくら手の内を明かしたからと言って貴方の潔白の証明にはなりません」
手の内を見せる。それはつまり相手は対策を立てられるということだ。弱点も予想できるだろう。『神花之心』を詳細まで全て語ったわけではないにしても、何一つ彼女のことを知らないアルラと少女の間では有利不利は生まれる。
それでも。
彼女の言うとおりだ。『神花之心』の力を証明したところでそれがアルラの言葉を信じることには繋がらない。相変わらず少女の中で灰被りの青年は正体不明の要注意人物で、素直に『はい』と彼の言うことを信用するには値しないのだ。
ならばもう、頭を地面に擦り付けてでも頼み込むしかない。必死になって縋るしかない。はなからどうでもいいプライドなんて早いうちに捨てて、命を求めることが何よりも懸命だ。
見た目だけは幼い白銀の少女に、灰を被ったような青年の頭が向けられた。それも下から。
「頼む、力を貸してくれ!俺はこんなところで死ぬわけにはいかねえんだ!」
対して頭を向けられた白銀ふわふわロングヘアー少女。宝石のような冷たい瞳をアルラへ向けて――――。
「......プライドってモノがないんですか?」
グサリッ!!と。言葉の槍がアルラの心臓を錐もみ回転しながら貫いた。少女に向けて土下座する怪しい男、絵面的に若干アウトな気がしなくもない。そっちの癖は持ち合わせてないアルラの心のダイレクトアタックを決めた少女の異能がどんなもので在れ、惨めな土下座青年アルラ・ラーファの脱出計画は『神花之心』とは別の罪と異能が絡まないことには始まらない。そんなわけで流石に土下座はみっともないので、アルラは鉄格子を片手だけ掴み取って必死に呼びかけるしかない。
突然近寄られたからか、少女が驚いて後ろに下がったのもお構いなしに、アルラの熱弁が始まる。
「とにかく!アンタもこんなところで死にたくないだろう!?今力を合わせれば逃げられるんだ!」
「別に、こんなところで終わってみるのも案外楽かもしれませんよ」
ぶわりと。
アルラの背中に得体の知れない何かが奔る。
悪寒にも似た、悪寒以上に不気味な感覚。まるで負の感情をぎゅっと圧縮して溶かしたようなどろどろの黒い何か。今まで輝いていたはずの少女の瞳から、急激に光が失われたように見えた。少女の背中から煙のように湧き上がる負の感情。
アルラ・ラーファの根本に存在する【憎悪】とは別の何か。
(知ってる。この目と感情を俺は知ってる!!)
少女の目、これはすべて諦めた者だけが浮かべる目だ。誰でもない、アルラ本人が。この目は、かつてアルラが全てを失った時と同じ目だ。
彼女は『強欲の魔王軍』に囚われている身で、そこまでにどんな過程が生じたのかなんて彼女以外に知りえない。もちろんアルラにも、彼女の身に降りかかった不幸なんてわからない。
灰被りの青年と同じように故郷を焼き払われたのかもしれない。
親友、あるいは恋人を目の前で惨殺されたのかもしれない。
憎悪に染まったアルラとは対照的に、白銀髪の少女は諦念に染まった。たったそれだけで大きな違いだ。
だから。
「...憎いとは思わなかったのか」
「何がですか」
「アンタに何があったかなんて知らない。けど憎まなかったのか!?怒りを覚えなかったのか!?悔しいとは思わなかったのかよ!強欲の魔王に好き勝手されて、こんな暗く冷たいところで自由を奪われて。なんとも思わずただ諦めるだけなのか!?」
「貴方には関係ありません」
ここまで違うのか。ここまで変わるものなのか。投げかけた言葉がどこかの闇に埋もれる。届かなかった。彼女はここで終わることを望んでいて、アルラはそれが正しいなんて絶対に思わない。もしも、もしも自分が彼女のような立場だったら。こんな世界の底辺のような場所であっけなく殺されるのを待つくらいなら、最期まで醜く抵抗して生にしがみついてやる。
アルラはゆっくり鉄格子から手を放して、元来た階段の異変に反応した。
音が近づいてくる。
それもかなりの数、金属が擦れて、がちがちと弾む音だ。恐らく引き金はアルラが証明するために使った『神花之心』だろう。あんな巨大な音を発生させれば見つかることなんて、本当はわかっていたはずだ。それでもアルラは見捨てたくなかった。
自分と似た境遇の彼女を、暗闇の中で放置なんてしておけなかった。
だから。
「ッ!!」
ガッギィィィィンッッ!!と。
自らの居場所を知らしめるように、甲高い金属の音が炸裂する。極彩色を放つ左足が横薙ぎに牢の鉄格子を捉えて、中央から折り曲げられていた。
ちょうど幼い少女なら一人くらい抜け出せる程度に。
「えっ...?」
白銀の少女は困惑した。『放っておいてくれ』と言外に語ったはずなのに、目の前の灰色の青年は無理やり解放の可能性を広げてしまった。協力するだなんて一言も言っていない。自らの『異能』すら明かしていないというのに、青年は未だ戸惑う彼女のほうを振り返らずに、呻くようにつぶやいた。
「俺が時間を稼ぐ。アンタは逃げな」
「待ってください!私は協力するなんて...」
「ああ、協力なんてしなくていい。俺は俺だけで脱出を試みるし、もともと黒甲冑の狙いは俺なんだ。混乱に乗じて一人で抜け出すことなんて多分簡単だ。今なら比較的安全に逃げられる。こんな暗くて冷たい場所から抜け出せる」
「意味が分かりません。どうして私をっ!?」
「ほっとけねえだろうが」
つまり、ただの人助け。
損得を超えた心『助けて助けられる』を望んだアルラの『助けて助ける』行動は、明確に少女の思考の隙間に『error』の簡単な文を生じさせる。
ここから逃げようなんて考えたことも無かった。全部諦めて、死ぬのを待っているだけでよかったのに。それだけを望んでいたはずなのに。今更生きようとしたって、何も残されてないのに。まっさらな道を歩き続けるだけの命に意味なんてない。なら障害物で立ち止まって、そのまま一歩踏み外してしまうほうがずっと楽だった。
少女の幼さが残る声に震えが生じた。
「望んでないのに生きる道を与えられても、苦しいだけです...!」
「ならもっと苦しめよ」
短く放って、アルラは飛び出した。石の階段を下りてきた黒甲冑に残りわずかな寿命を込めた渾身の『神花之心』を叩き込む。雪崩れ込むように上から湧き出てくる光沢をもった黒の群れに埋もれて、拒むように極彩を振り回す。
酷い、と凶弾されるような一言に込められた真意を、彼女は思い知る。
「死んだら何もかも終わりなんだ。苦しんででも生きなきゃ俺は俺のために死んだ命の意味を失っちまう。ここでアンタを見捨てたら、多分俺はずっと苦しむ!生き延びてもずっと後悔する!だからアンタを苦しませてでも生かす。終わらせねえぞ!」
「意味が分からない...私はもう終わったんです!!あなたの復讐に私を巻き込まないで!」
乾いた発砲音がアルラの肩を撃ち抜いた。遠距離型の量産死体兵、その銀のマスケット銃の一つから放たれた弾が赤を吹き出させる。だが屈しない。痛みには屈しない。少女は黙り込んでその光景を見ているだけだった。足を牢の外へ踏み出して、震える声で青年へ問う。
「貴方の利益にもならないのに、どうして」
「見返りを期待できなければ手を差し伸べないなんて、絶対に嫌だ」
呻くような小さな返答だったが、確かに少女に届いた。少女を守る様に背中を向ける少年の体、その上半身の一部が破裂する。ちっぽけな金属の塊が撃ち込まれて、命を支える生命のエキスが流れ落ちる。とっくにボロボロのはずの体をさらに酷使すれば破滅が待つ。誰よりも本人が知っているはずだ。だがここで押し返されれば、背後の少女はどうなる。
アルラ・ラーファは決して善人ではない。
けれど、悪人というわけでもない。
言うなれば常人。そして彼は咎人。与えられた罪を清算するのに必要とあれば、復讐とは無関係でも、牢屋の中の少女に手を差し伸べようとする。
「うっあ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
獣のような咆哮。アルラと近い距離に散らばっていた黒甲冑を薙ぎ払ったと同時に、視線が階段の上に向いた。残されたマスケット銃を向けた黒甲冑の群れ。ほとんど残されてない蝋燭の炎が燃え上がる。
彼しか知らない【憎悪】を果たすために。
残された右腕が、極彩色に染まる――――――...。
「一時停止」
時間が止まった。揺れる松明の炎も、銀のマスケット銃の引き金を引いた黒甲冑も、何もかもが。小さな少女の小さな一言に従うように止まったかのように見えた。
まさしく時間でも止められたように。
いや。
違う。
灰被りの青年、アルラ・ラーファへと発砲されたマスケット銃の弾丸だけが、空中でぴたりと止まっていた。
そしてその先には。ふらつくアルラの体を支えるように小さな体を寄り添わせた白銀髪の少女が上を向いていた。
「コピー、反転、再生」
流れるように紡がれた幼い声。
世界の編集者は、止まった空間を自由に書き換える。
アルラの命を絶つために発射された金属の塊が向きを変えて、あろうことか主であるはずの黒甲冑の群れを貫いた瞬間。あり得ないものを見たような表情でアルラが小さく疑問を漏らす。スペースキーを連打されて、空白で埋め尽くされたアルラの脳が情報処理を半ば諦めていた。
彼女だけの空間を、彼女が望むままに書き換える力。
嘘と我儘を貫き通す力で敵対者を討つ。
もう諦めるのはやめにしよう。
せめて、この嘘だけでもやり遂げよう。
「あん、た...」
「ラミルです。ラミル・オー・メイゲル」
少女は自らの華奢な体で支えるように、守るための背中を見せた青年の傍に立つ。ふんわりと花を思わせる香りがあった。
思った以上に流血が酷い。ニミセトで失った血液のことも考えれば、今すぐにでも輸血で補わなければ出血多量で蝋燭をへし折られかねないだろう。そんなことを思うアルラの思考も途中でかき消される。
少女の言葉通り『反転』した弾丸は、銀のマスケット銃を破壊するには至ってなかったらしい。
「っ...!」
灰被りの青年の眉間にしわが寄った。
不死身の黒甲冑は立ち上がる。弱点であり、基盤でもある銀の武器を破壊しない限り、彼らは永遠に立ち上がり続ける。だから力を向ける必要がある。
半径3メートルの球形。それが彼女だけの世界。その中で在れば、彼女は誰よりも可憐に咲ける。『強欲の魔王』よりも、アルラ・ラーファよりも。誰よりも力を発揮できる。まさしく『異能』の名にふさわしい力を、行使する。
こうなったら、逃げるわけにはいかない。
こうなったら、隠れることもできない。
戦って、やり遂げる。
ひとりぼっちであることをやめた小さな掌が、黒甲冑の群れへ向けられる。
静止を促すように、或いは拒むように。
「『世界編集』」
この瞬間、二つの異なる道が交わった。




