晴れぬ疑いに背を向けて
「ハァッ...ハァッ...!」
息が切らす声があった。
石煉瓦を踏みつける音と共に、暗い路地裏で響くそれは人の焦りと疲労から生まれるモノだ。それを追うように背後から迫りくるのはこの街の警備委員会十数人。しかしその手に持つ武装は警備委員会の確保用標準装備である掃き溜め帚ではない。
「対象を発見!」
「発砲許可は下りている、迷わず撃て!」
パンッ!!という鋭く弾けるような音が炸裂した。
常人では認識すらできない速度で肉を抉り取る金属の塊。それが頬を、さらに足元を掠めて着弾点で火花を散らし弾痕が残る。ただしそれは単発ではない。いくつもの弾丸が皮膚すれすれを通り過ぎている。
警備委員会が装備しているのは拳銃。
それも一般的、警官が装備するような標準的なものではなく、量産可能な魔装の一種。肉を貫通するには至らないが、体内に残ればその残留魔力から位置を特定できる追跡型魔装。もちろん弾丸としての機能もしっかりと果たすため、撃たれれば激痛が走るし血も噴き出るだろう。
「現在対象は三番水路付近裏路地を逃走中!警備委員会第三支部へ増援を願う!」
指揮官と思われる警備委員会がトランシーバーのような通信機にそう放つとやがて女性と思われる声が機械の向こうから返される。
『了解、直ちに増援を送る。そして連絡事項だ。我々警備委員会は対テロ用最終魔装兵器を解凍する。最悪容疑者は消し炭になるが仕方がない』
冷徹。
一言で表すならまさにその二文字が似合うほど冷たい声で。まるで犯罪者を人とも思っていないような。虫やドブネズミと同等の存在だとしか考えていないような。
躊躇のない言葉が、ろくに抵抗すらできず逃げ惑う青年の耳にも届く。
「くそっ!」
走りのギアを数段上げて、煉瓦造りの建物の間をくねくねと蛇行する。なるべくわかりにくく、集団で追ってこられないように細い道を選んで。しかし振り切れない。
徐々に近づく発砲音に、顔を流れ落ちる雫の量と大きさが増していく。
追手を吹き飛ばし、意識を奪うことは簡単だ。
しかしそんなことをしてしまえば、今度こそ言い逃れできないだろう。抵抗は自分の罪を認めるようなものだ。だから抵抗などできず、逃走しか道は残されていない。自分の手の内を見せることも危険である。それでこの場を逃げきれても、次に遭遇した時に対策を講じられていしまう。
逃げつつ探す。この場を切り抜ける方法を
「ごめんっ!環境委員会!」
景観を崩さないように建物とおおよそ同じ色に染められたポリバケツ型ゴミ箱を蹴り倒し、中身が追手の警備委員会に向かって飛び散った。
「ぐっ!」
思わず顔を両手で守るように隠した最前線の警備委員会の一瞬を縫って視界の外へ一気に抜ける。
彼がとっさの判断でポリバケツを蹴り上げた理由は二つ。
一つは警備委員会の最前列にほんの一瞬の隙を与え、視界を遮るためこれで複雑に入り組んだ路地裏をほんの少しだけでも進めれば、追跡は困難になる。
二つ目に単純な足止め。
追手が環境委員会ならば散らばったごみを拾ってくれたかもしれないが今回はそうではない。警備委員会は全速力で逃走中の路地裏を埋め尽くすように追ってきている。ならば最前列の誰かが一瞬でも足を止めればあとは簡単。そこから液体が詰まったパイプのように一気に流れ、破裂する。
「ぐわっ!」
「おい、止まるな!ああ!」
その一瞬が彼を救った。
雪崩のように押し寄せた警備委員会達はつまずき、転倒し、それでも前へ前へと進もうと試みるが無駄だ。追手の最後尾、現場を指揮していた指揮官が現場へ辿り着くころには路地裏に人の壁が形成され、その前方を見ることすら叶わない。そして再び無線機を取り出し建物の壁に取り付けられた標識を見ながら、
「こちら追跡部隊、対象を見失った。追跡弾の命中は確認できず、最終観測地点は三番水路Cー3地点」
『了解、こちらで包囲網を設置する。追跡部隊は再び周囲へ散らばり、通行人などの目撃情報をたどって追跡を試みろ』
指揮官の顔がぐにゃりと歪む。
この表情は悔しいだとか、後悔に当たる表情だ。
「何をやっている!早く追跡を再開しろ!」
指揮官の怒号が今もなお自らの体で壁を形成する警備委員会の隊員を起き上がらせ即座に行動に移る。さながらプロが行う集団行動の演技のように。
「失敗は街民への被害に直結すると考えろ!現在我々が追っているのは殺人犯ということを忘れるな!」
「失礼ですが、まだ彼の死亡が確認されたわけではありません」
「どっちでもいい!大した変化はない!」
失敗は成功で上塗りする。それが警備委員会第四支部追跡部隊指揮官、ディーニート・フィンデルの信条。心に掲げたそれを成し遂げるべく、彼も先行する警備委員会を追って暗闇に身を投じる。成功すれば昇進とか、給与が上がるとか。そんなことのために彼は動くのではない。
愛する街とそこに暮らす幾万もの人々の平和のため、今日もディーニートは悪を踏みつける
「はっ...はっ...ふぅーっ、撒いたか」
空はすっかり黒に染まり建物の窓から光が漏れる中、彼は膝を三角に曲げて体育座りのような形で顔を沈めていた。
帰る場所は無い。荷物も全て置いてきた。行く場所なんてもっともっとに無い。
所持品を床に広げて確認するが、偶然持っていたのは最低限の金、試験管入りのたんぱく性万能解毒薬数本、何故持っているのかもわからない牛乳瓶の蓋。
絶望的なことに、これで全てである。
下を覗けばまだ自分を追う警備委員会がうようよと徘徊している。
ここが見つかるのも時間の問題だろう。
「ちっくしょう...これからどうすんだよ...」
彼がいるのは煉瓦造りの直方体の上、どこかの誰かの家の屋上。もう夜だというのにこんなにも辺りが騒がしいのは彼のせいと言っていいのか微妙なところである。彼もまた被害者。ありもしない罪で追いかけられ、殺害までもを許可されてしまった哀れな男。ぐうぅ~、と体の内部から間の抜けた音が鳴り、それが空腹を示すサインだと気が付くころには空を眺めるように仰向けに寝そべっていた。
(今晩はこの辺で野宿だな)
正直な感想は『またこれか』
現在が冬でなくてよかった、と少しでも心の向きを正の方向に正しておかないと、今にも崩れ去ってしまいそうだ。人の精神なんてそんな強くできてはいない。むしろ肉体なんかより脆いことだってある。
どんなに屈強な男でも全身を縛られ、車のトランクに丸一日放置するだけで発狂することがある。『恐怖』そして『不安』というのはそれほどまでに効率よく作用する。やがて『恐怖』や『不安』を受け入れきれなくなった精神は、自ら崩壊を選び壊れる。ただし彼の精神はそうもいかない。
こういうことに慣れてしまっているから
目を閉じてゆっくりと、今の状況を整理する。
(相手側の目的はまず完全に俺を潰すこと。そしてこの街全体を掌握し、技術だけぶんどって、問題はそこからだ)
何か嫌なことでも思い出したのか、ぶるりと軽く身震いを起こした彼は目を閉じたまま考察を先へ進める。
(そもそもあちら側の最初からの目的が分かっていない。技術の奪取はもちろんあるだろうが恐らくそれはサブプラン、メインのついでに過ぎないはず)
考察の先へと至るためのピースが決定的に足りない。
そのピースが一つ二つ程度なら全体を読み取ることは簡単だが、欠けているのは全体の五分の三ほど、分かりやすく言えば残り三ピースのジグソーパズルの絵柄は簡単に予想ができるが大部分が欠けたジグソーパズルを完璧に脳内で再現することは難しい。
その絵の裏側にどんな引っ掛けがあるかはわからないし、そもそも引っ掛けがあるのかもわからない。
(これからは身を潜めてピース探しだな。あちら側から投げ込んでくれると嬉しいんだけど)
しかしこの時すでに、それは接近していた。
車のヘッドライトのような光が、閉ざされた瞼をこじ開ける。
そこで彼が見たものは。
「なん、だ...?」
彼から見て若干斜め上の空中で静止する鋼のトンボ。
サイズは頭から尻の先までで15メートルほどだろうか、高速で羽ばたく半透明な四枚の羽根が残像を空中に残し、その防弾ガラスで造られた複眼がこちらを覗いている。
ここまで接近しているというのに全くと言っていいほど音が生まれなかったのはこの街特有の技術力の成果かとにかく、彼にとって非常によろしくない状況には変わりない。
次に光を発したのは複眼、ではなくその横に取り付けられたレーザーサイトだ。幸か不幸か、しかし放たれたのは銃に取り付けられたもののような細くおしとやかなものではない。
触れられなくてもその脳に痛みを錯覚させる『掃き溜め帚』の応用。サイズと機構の問題で、遠くから照射するだけでは効果は与えられないが。触れれば錯覚どころではなく、実際に肉が焼け落ちる光。
それが二つ、極太の線となって彼を狙う。
この街の外観を崩さないように、生命だけを的確に狙い撃つその兵器はなんとか体を転がして初撃を回避した青年へさらに接近する。
灰色の雑な髪形の青年が吼えるように煉瓦から飛び降りながら叫んだ。
「畜生!なんで俺がこんな目に!!?」
『見つけたぞ!アルラ・ラーファ!!』




