予防
結論から言ってしまえば、射日馬乱世が意識を手放した直後から数えて約三十秒。たった三十秒弱で、それこそゲームセンターのワンコインのじゃんけんゲームでもプレイして、プレイし終わる程度の気軽さを以て、合成魔獣の体内における一連の蹂躙は決着した。
一人対十五人の、一見は多勢に無勢とすら思えてしまう圧倒的な人数差を、しかも多勢は大国ヘブンライトが誇る一大戦力の『異界の勇者』だというのに、しかしそんな肩書は何の意味も無いと言わんばかりの蹂躙があった。
カウントダウン開始。
1.6秒経過。
遠距離からの投擲というなんとも脆い抵抗を続けていた双房弐由を不可視の壁が音速で迫り、叩いた。
シズクの直前の動作といえば、軽く指をスナップさせただけだ。そして双房を襲った壁の正体は『音』である。中指と親指の腹を擦り合わせて生じた微かな音は空気よりもまずシズクの纏う『光』へ伝わり、瞬間的に振り幅を数千、数万倍へ拡張させた。
つまり極めて正確な指向性を持つ音響兵器の直撃を喰らったに等しい双房は当然両耳の鼓膜を失い、更には体内にまで伝播する『振動』に意識を刈り取られるに至る。
ゾンッッッッッッ!!!と、振動の余波が蛇船の肉をトンネル状に抉っていた。
枝木のようにシズクの本体から分かれた極光は自らを十字架状へと変形させ、突き刺さり貫通し、まるで吸血鬼の心臓へ木の杭を打つかの如く彼を完全に固定した。
4.0秒経過。
人差し指と親指を伸ばして、それ以外は握り込んだ手の形。輪ゴムでっぽうでも飛ばすような幼稚さで『ばん!』と、しかし発声までは行かず唇だけを振動させた少女の人差し指の先端が示す先で、備文群秀の顔面が爆ぜた。
枝木のようにシズクの本体から分かれた極光は自らを十字架状へと変形させ、突き刺さり貫通し、まるで写真付きの藁人形の頭部へ釘を打つかの如く彼を完全に固定した。
7.3秒経過。
鉄砲の形をとった右手を翻して反転、左手も同様に、親指二本と人差し指二本で長方形を形成すると、シズクはその両手で作ったフレームの内側へ石射稲三を収める。
たったそれだけで、少女は両眼窩と鼻腔から真っ赤な血を垂れ溢して動かなくなる。
すぐ傍にいた跳飛止は逃げ出したが、脚がもつれて転んだところを雷に撃たれる。
枝木のようにシズクの本体から分かれた極光は自らを十字架状へと変形させ、突き刺さり貫通し、まるで死体人形の額へ札を叩きつけるかの如く彼女らを完全に固定した。
10.1秒経過。
棟敷関将、互係、三角丁利の辛うじて残っていた、或いは残されていた近接組が一斉に、より正確には間に挟まる時間が極々短かったが故に周囲からはほぼ一瞬と捉えられてしまう程度の時間差で薙ぎ払われる。
後ろ横蹴り、裏拳、それからデコピンだった。
自らへ降り注ぐ拳骨、刃、獣爪にシズクは触れて、それどころか優しく撫でるように捩じり、それらすべての近接攻撃は本体ごと宙を舞う。
上下が逆転し、天地が翻り、空が脚下へ大地が頭上へと入れ替わると順番に。
腰を切り左足を軸に半回転、膝から踵まで横一列となった蹴り脚を正面へ突き出す後ろ横蹴りは軽率に空気の壁を破壊して棟敷を撃つ。撃ち落とす。
更に腰へ回転を加えて、発生した遠心力を余すことなく腕の先端へ乗せた裏拳が、寄生型魔獣を鎧代わりに着込んだ三角の顎を引っ掛け脳を揺らす。
デコピン。中指を親指の腹で押さえつけて弾くだけの児戯。落下してきた互に向けて乱雑に放たれたシズクのそれは、しかし直接接触せずとも衝撃波だけで野球のノックのように人間一人を、それこそホームランでも打ったかのように軽々しく吹き飛ばす。。
枝木のようにシズクの本体から分かれた極光は自らを十字架状へと変形させ、以下略。
そうしてざっくり三十秒経って、そんなゲームセンターのワンコインゲーム一回分以下の地獄の 果てに、文字通りの地獄があった。
いっそ神々しさすらあった。
意識のある者も、無い者も、最後の最後まで戦う事を選択しようとせず誰よりも離れて怯えて傍観に徹したただ一人の少女を除いたその場に居合わせた全ての異界の勇者は、腕を、脚を、もしくは胴体を。シズク・ペンドルゴンを元木として枝分かれた極光が形を変えた杭を打ち込まれていた。
生き物の内側特有の濁った赤色の所々を、純白が侵食しているのだ。
シズク・ペンドルゴン。
『箱庭』に住まう人外にして、真なる『人間』。万能の魔法使いにして全能の魔法使い。
かつて彼女と遭遇し、敵対し、そして極めて幸運なことに逃げおおせたある神人曰く。
人類の終着点。
「あ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああああ」
たった一人。
逃げ隠れ忍び潜め、とにかくそれだけに意識と集中の全てをつぎ込んでいた少女......我高錐弧は絶望の渦中にあった。
仲間が、百戦錬磨の『異界の勇者』が悉く。
悉く打ち倒され、惨めにも磔にされている。
がらがらと瓦礫のように音を立てて今まで拠り所にしていた何かが崩れる感覚に、立っている床の底が抜けたような脱落感を覚えて膝から崩れ落ちる。
彼女が来る。
散歩気分でぺたぺたと、蛇船の血の色で真っ赤に染まった舌に一歩ずつ足音を刻んでいる。浅い水たまりを踏むような足音は近づいて、やがて止まった。
目の前だ。
腰が抜けて動けない。
「あ、そっか」
ぱん、と顔の前で手を叩いて、シズクは何かに納得したように呟いた。
一方では、その音に。そんな一拍程度に、全身の皮膚がぼつぼつと鳥肌を立てる程の恐怖におびえていたというのに。
シズク・ペンドルゴンは微笑を浮かべながら。凄惨極まりないこの魔獣の腹の中で、まるでピクニックでもしにきた子供のように。
「勇者だものね、『光』属性由来の人工魔獣なわけか。頭の上半分を吹っ飛ばされてもまだ墜ちないから不思議だなーって、そう思ってたの」
そう言った。
そう納得していた。
我高錐弧は耳を疑った。次に自分の脳みそが正常かどうかを疑った。
まさか。
まさかそんなことを考えながら、そんなどうでもいい疑問の回答を探す片手間で、十数人の精鋭を一方的に叩きのめしていたのか?
仮にも命のやり取りの最中で、いいや、『仮にも』なんてことはない。『異界の勇者』は全力で挑んでいたのだ。お遊び感覚だったのは彼女だけだったはずだ。ならば異界の勇者側からすれば真剣な命のやり取りだったはずなのだ。
規格が違うと、我高はまた一段と絶望の深度を落とした。
ある分野...例えばスポーツで、子供の全力をお遊び感覚で踏みにじって蹂躙する大人のように容赦なく彼女は...シズク・ペンドルゴンは彼女の尺度で敵を測って、どうでもいい考え事に現を抜かす余裕を持ちながら踏みにじった。きっと悪意すら欠片も抱かずに。
「......人、外」
思わず漏れた言葉だった。
直後に焦って口を両手で覆うが、きっと彼女には聞こえていた。
脈拍が一層力強く波打つ。
仲間達の呻き声がまるでマイクを通してエコーを掛けたように強調されて頭に響く。
緊張の糸というものが仮に人体に器官として存在していたのなら、自分のそれは断裂寸前まで張り詰めているだろうと、そう思った。
唐突に。
「...二百年くらい前かしら、当時は今とは別の場所に拠点を構えていてね」
我高錐弧へ話しかけているようだった。
殺気を向けるでも敵意を向けるでもなく言葉を向ける。
数秒前までの暴虐の限りを尽くしていたシズク・ペンドルゴンとは真逆の姿に、我高はまず困惑した。
シズクは、相手が会話の意味を理解しているのかなんてどうでもいいという様子だった。
「その時のトウオウは丁度人口が増え始めた頃で食料の無人生産に力を入れていてね、当時の拠点は歩いてすぐのところに野菜の直売店があったの。そこで野菜を買って冷蔵庫に仕舞っておくとゼノが夕飯にサラダにしてくれる。当時の彼は料理に凄く凝っていて、多めに作った料理をご近所さんに配ったりもしていたわ」
懐かしむように目を細めてシズクは言う。
「レパートリーを増やしたくて果物の木を植えたりもしたわ。空いたスペースに鉢植えでトマトを育てたりもしてた。木造で少し古い建物だったけどとても気に入ってたのよ」
建物がというよりは、当時の生活自体をね、と付け足した。
付け足して、くるくると指先で髪を巻いていた。
周囲から微かに聞こえる呻き声。聞こえてないはずはないのに、シズクはまるで認識なんてしていないようだった。或いは完全に興味を失っている。
都会の大人が変わらない街並みに何も感じないように。ただそこにあるだけの景色をありがたがることが無いように。さも数多の人々が地に伏す光景が、イコールでありふれた景色と繋がっているとでもそんな態度。
人でありながら人の外を歩む『人外』。そして真なる『人間』。
大人と子供で見える景色が異なるのなら、『人間』と『その他大勢』の間にはどれほどの価値観の高低が生じているのか。
「でも何年か経って直売所はなくなっちゃったわ」
「.........な、んで...?」
恐る恐るといった様子で我高は訊ねた。
震える声で、枯れかけた勇気を限界まで振り絞って訊ねると、シズクはちらりとだけ少女の方へ視線を投げる。
そこで、そのタイミングで我高が言葉を投げかけたことに、投げかけられたことが少し予想外だったというように、シズクはまたふっと微笑を浮かべていた。
「ある年にトウオウ全土でネズミが大量発生して、あちこちで食害と伝染病が蔓延したの。その頃には食糧問題もとっくに解決していたから、国は被害が拡大する前に全体の七割近い無人生産所を閉鎖させたわ。ネズミは、元は外国からの貿易船に紛れ込んでいたことが後々の調査で判明した」
教科書にも載っている歴史の節目の一つであり、シズクにとって記憶残る出来事だった。
トウオウだけ限った話ではない。当時の世界は飢えていたのだ。
各国の開発加速と発展。種族間の戦争を起因とした人口減少。災獣の発生。新たな魔王の誕生。様々な要因が重なってバランスが崩れた。辛うじて平行を保っていた天秤が、皿を支える鎖の根元から引きちぎれたのだ。
最終的にはいつぞやの戦争同様に神龍の介入を経てひとまずの、ギリギリの寸でのところで踏みとどまった人類はそれらを一纏めにひっくるめて新たな教訓とした。
ヘブンライト王国の基礎教養で学んだ歴史の一ページがその時の授業の光景ごと脳裏に蘇る。
あの戦争が起こる前だ。何人かのクラスメイトは退屈そうに授業の様子を眺めていて、音賀佐翔や水端雫といった優等生の態度は対照的で、残ったその他大勢は真面目だったり眠そうだったりとまちまちで。
元居た世界の元の授業と何ら変わらない景色。
まだ、異界の勇者が二十九人...欠けることなく揃っていた時代。
「私が何を言いたいか、わかる?」
『いえ......』と小さく零してから我高は気付いた。
言い終わってから気付いてしまった。
気付かなければ。少なくとも気付く前以上の恐怖を覚えず済んだかもしれないのに、こういう時に限って察し良く、都合悪く察してしまったのだ。
「あなたたちは外からやってきたネズミ。また病気を移される前に、また土地が死ぬ前に、今度は私が手ずから処理するの」
ネズミは病を運ぶ。ネズミは不快を運ぶ。ネズミは害を運ぶ。
そうなる前に彼女は潰しに来たのだ。『異界の勇者』という害獣を。病がまた土地を覆う前に、まだギリギリ入口だけの被害で済んでいる『害』が、トウオウ全土へ広がる前に。
つまりは予防。起こりうる未来、考え得る不条理を事前に防ぐための先手必勝だった。
そして目論見は成功した。
シズク・ペンドルゴンは目的を九割九分達成した。ヘブンライトの精鋭を、『異界の勇者』の軍勢を、よりにもよって彼らが最も得意とする暴力を以てぐちゃぐちゃに叩き潰すことに成功していた。
欠けた九割九分から切り離されて、命からがら残された一分の我高は、この後の自分が取るべき行動に苦悩していた。絶望しながらも、切れ切れの呼吸のノイズが思考を妨害しながらも必死に頭を回し続けた。
逃げてみる?いいや絶対に追いつかれる。身体能力の差は天と地どころじゃない。第一この上空じゃ逃げようにも逃げ場がない。下は海、陸地までは数キロも離れているし辿り着けてもそこは敵地。あっさり捕まっておしまいに決まってる。なんなら逃走を選択した時点で余罪が追加されて普通に捕まる以上に危険な目にあうのではないだろうか。ならば戦うか?論外。逃げるよりもあり得ない。命乞いはどうだ?先二つより可能性はあるだろうが、今更受け入れてもらえるか?...いや、そもそも向こうにメリットがない。わたしを見逃しても得が無いどころか、情報が外へ漏れるわけだから向こうにとってわたしを生かす選択には害があるくらいだ。ならばいっそ投降してみるというのは?協力的な姿勢を見せて誠心誠意懇願に次ぐ懇願で押し続ければ、もしかすれば少しは罰が軽くなる可能性も―――。
「とはいえ、あなたには少し...ほんの少しだけ興味があるわ」
突如、シズクの何の気なしの発言が我高の思考を切り裂いた。
まさかそんな言葉が彼女の口から飛び出すとは思っていなくて、文字通り思考がしばらく停止した。
彼女は、未だにへたり込んだままの我高へ視線の高さを合わせるようにしゃがみ込んで、何やら含みを感じる微笑を浮かべながら言う。
言葉の意味を処理しきれていない、頭の内側でゲームのロード画面みたいに円がグルグル回っている我高に問答無用で投げかける。
投げかけられて、益々フリーズしてしまう。
「だってあなたは生き残った。私はあなたたち全員を同じレベルで叩いて、漏れなく全滅させるつもりだったのに。あなただけが生き残った。あなた以外は生き残れなかった」
見つめてくる。
見透かすように、内側を覗き込むように、宝石みたいにキラキラと輝く黄金の瞳の中にはわたしが映っていた。纏っている、纏わりついている真っ白な光が眩しくて目がくらみそうだった。
本当のことを言うべき?
たまたま脚がもつれて転んだらあなたの攻撃は頭上を通り過ぎました、って。
勿論、単に運が良かったという話ではないけれど。それはわたしの『無尽容器』で溜め込んだ幸運が噴き出した結果生じた現象だから、どちらかと言えば人為的な回避ではあるのだけれども。
彼女はそれを『面白い』と捉えるだろうか。話して、そんな風に好意的に捉えてもらえなかったら、わたしはどうなるのだろうか。考えすぎて想像する未来に吐き気を覚えた。
何が正解かわからない。
「教えてくれるかしら。人外の攻撃からあなたはどうやって身を守ったの?」
嫌味っぽく会話の一部を強調して、彼女は悪戯な笑顔を浮かべていた。
無警戒に近づいて、こちらからの反撃や不意打ちの類の一切を考慮に入れていないというのが彼女の余裕を示している。
加えて、口調からしておおよそ見当はついている風だった。単に答えを求めているというよりは、既に彼女の中で答案用紙が出来上がっていて、その成否を確認従ってるような。
言ってしまえば興味本位の延長線にしか存在しないやり取り。おもちゃ屋のショーケースを眺めていて少し気になるおもちゃを見つけた、程度の『興味』を、わたしはどうすればやり過ごせるだろうと、そんな風に考える。
逃げられない。
逃げきれないし、万に一つも無いとはいえ成功したとしても、それじゃみんなは置き去りだ。わたし一人が逃げたところでみんながいないならあまり意味があるようには思えない。
『無尽容器』。
形ないエネルギーの類を言葉通り無尽蔵に溜め込む『異能』。【享受】の咎人としてこの世界で最初に授かった贈り物は、日常に有る幸運を無尽蔵に溜め込み続けている。
最初の最初。シズク・ペンドルゴンが飛来した瞬間...半ば反射的に、溜め込んだ幸運を開放してしまったおかげで、わたしは幸運にも一人生き延びた。
幸運とやらがどんな風に作用するかまでは、わたしにも選べない。
だから。
次の展開は本当に予想外どころか、最初に切り捨てた...切り捨てられた展開だった。
『わたしは...』まで口から出掛かった後、後頭部のずっと後ろの方から感じた熱が髪を薙いで頭の横を擦り抜けた。
遥か後方から、声が。
「――――――」
言葉の意味は聞き取れなかった。
シズク・ペンドルゴンが爆散しながらぶっ飛んだという現実だけを、わたしは辛うじて認識するに至る。




