『箱庭』
波に揺られる大型船の甲板で、風に吹かれている人影があった。ちょっと遠いところで何やら同じ船に乗り合わせた子供たちがキャーキャー騒いでいるが、彼は特に気にする様子も見せない。それどころか、並のさざめきも海猫の声も、耳入っては突き抜けて出て行ってしまっているかのように静かなのが少し不気味ではある。
青年の右の手首に巻かれているのは二つの線。白と黒が螺旋を描く形のミサンガ。
いかにも冒険者風の格好の、目つきが悪い黒髪青年の名は椎滝大和。
「もう十年か」
嘆くように呟いたのは、過去に囚われた者であるが故か。
『傲慢の魔王軍』との終末戦争から六年、彼がこの世界に呼び出されてから既に十年が経過している。
戦争で29人いた仲間の内、7人が死んだ。その中の一人には彼の恋人も含まれていたのだ。
人の身でありながら、指先一つで色とりどりの異能を駆使する"咎人"であった彼女の『罪』は、どういう原理か、椎滝大和のミサンガに宿ったらしかった。彼女の、【敬虔】の異能は『万有引力』触れたモノのy座標を上下百数メートルまで自由に変更できる力で、分かりやすく言えば、対象が存在する空間内の高さを勝手に書き換える能力である。ただし他の物質と重なり合うことは出来ず、地面に埋めて窒息死させるという使い方は出来ない。
(疲れたなあ)
ほっと溜息をつく大和の視線が空に向かっていく。
そもそも戦うこと前提に異能を考えている時点で、彼の心理状態が伺えるのだあれから六年、いつの間にか大和は戦うことが、狂ったように守り続ける日常の当たり前の一つとなっていた。今思えば国には良いように使い捨てられる駒としてしか見られていなかったのかもしれない。
そんな理屈もない思想が疲弊しきった大和の心を縛り上げていた。
大和は現在、とある王国へ向かっていた。
明確な理由は無いが、この世界生まれの友人から『休養ならあそこがいい』と押されたので、他に行く先にあてもないのでとりあえずそこを目指しているという感じだ。
その友人はというと現在戦地で指揮官としてバリバリ働いていると国から連絡があった。人を動かすというのは言葉で言うよりもずっと難しい。思い通りに事が進むことなんてまず無いし、事がいい方向に進むなんてもっと無い。戦場帰りの大和はしっかりとそれを理解していたし、どうして理解できるようになってしまったのだろうと思う日もあった。普通に日本の高校で青春していただけの自分が、気が付いたら異世界に召喚されて『異界の勇者』なんて呼ばれて崇め奉られ、戦争なんかとは最も遠い場所にいたはずなのに、戦場に駆り出され。
大切な人を失った。
真っ白だったはずの人生が、いつの間にか人の血で真っ赤に染まって狂っていく。
それが何よりも恐ろしくて、逃げたくなった。
結局のところ、彼は。大和は疲れていたのだ
「チェルリビーでバカンス、ね。有名な観光地らしいけど何があるのか知らないしなあ」
多種族国家チェルリビー
大和とその仲間たちが召喚された武双国家ヘブンライトとはまた違った特異性を持つ王国。広大な領土内に広がる複雑な気流海流の影響か。国内に砂漠、海洋、山林が揃っていることから観光地としてとても有名な場所だ。そして大和と激しい戦いを繰り広げた『傲慢の魔王軍』とはまた別の魔王。『強欲の魔王軍』の支配地域と隣接している国である。
「せっかく用意してもらったバカンスだ、大いに楽しんでやる!」
誰かが聞いてるわけでもないが、大声で空を見上げる大和の顔は沈んだものだった。下を覗けば真っ青な水が波を立て、上を見れば青空の中を雲が泳いでいる。
と、その時だった。
聞きなれない、甘ったるい人に媚びるような声が鼓膜をなでるように囁かれた。
「そこのおにぃさん?お暇なら私と遊ばない?」
「?」
話しかけてきたのは貧相な体付きの栗色の癖毛が特徴的な少女。
外見の見た目は17歳程度だろうか。椎滝大和がその少女に視線を投げて、絶句する。どこか違和感、というより相応しくない組み合わせを覗いてしまったかのような。そんな異物感の正体は。
その体躯には似合わない大振りの剣を背負い、こちらを見てにやりと笑っていた。
「お嬢ちゃん、お金が欲しいなら俺みたいなナイスガイの若者よりもちょっと恰幅がよくて毛量が薄いおじさんとかがいいと思うよ」
「『遊ぶ』を盛大に勘違いしないで!!こんな美少女がそんなことするわけないでしょ!この船にカジノが施設として組み込まれてるのは知ってるでしょ、そこで一勝負どうかなって話よ!」
「自分で美少女言うのね、ってか金が欲しいのはあってたのね」
「自分で言ってるのはお互い様でしょ、何よナイスガイって目付きが鋭くてちょっと背が高いだけじゃない」
気にしてることをつかれて胸を抑える大和は、にやりと笑って反撃を繰り出した。その笑顔は嬉しいとか尊敬するときに向けるそれではなく、人が人で遊ぶ時に見せるそれだ。
「オレはこんな若いチャンニーよりおじさんのほうがお金を持ってるよって意味で言ったんだけどな。何を勘違いしちゃったのかなあららら?」
「ちょっ、ちが!なっなんのことかしら」
慌てて大和から目をそらす少女の額から大粒の汗が流れる。ウェーブがかった茶髪を人差し指でいじりながらおどおどと返答を濁す少女は、大和の故郷である日本国であれば道行く紳士達が思わずにやけてしまいそうな光景だ
「それでどうするの?カジノ、行きます?」
「もうさっきボロクソに負けた後だし大体君みたいな未成年少女は賭博なんてしちゃだめだと思うぜお兄さんは」
「未成年って、お兄さんも見た目から推測するに未成年でしょ?」
「俺は中身は28歳さ」
大和の年齢は28歳。間違っていない。
しかし見た目は相応ではなく、どう見ても十代後半といった感じだ。その原因は彼の持つ『異界の勇者』という、彼自身も全く必要としていない肩書のせいであった。『異界の勇者』はあらゆる概念から抜け出たある種では神人にも近い存在。
彼がこの世界に『異界の勇者』として渡ってきた時にはすでに見た目は固定され、『不老』となっている。もっとも『不死』ではないので深手を負えば普通に死ぬし、寿命もある。ただ老いないだけだ。
そのせいで未成年飲酒絶対禁止のヘブンライトで酒を飲めば補導されかけるし、夜の街をふらふらと歩いているだけでもまた補導されかける。便利と思ったことは一度もない。
ちょっとばかし憧れていたちょび髭ダンディマンへの道は永久に閉ざされたのだった!!!
「お兄さんはバカンス?さっき大声で言ってましたよね室内にもそこそこ聞こえてましたよ恥ずかしい~!」
「そういう君は一人で旅行?その年になったら親の元から離れたくなるのは分かるけど親御さんに心配かけたらだめだと思うなお兄さん」
「私は仕事でチェルリビーに向かうの!し・ご・と!」
「まさかっ...運び屋!?」
「どうしてそうなるのよ!?」
と、鼻先を掠めるように金属の塊がちらりと振るわれる。
慌てて体格に似合わない大剣を振り回しながら否定する少女に若干の恐怖を覚えつつ、大和が一歩距離を置くと、呼吸を正してその少女が告げる。
「そしてあなたにも用があるの。シイタキヤマトさん?」
「...」
まるで最初から知っていたかのように、大和は反応を示さなかった。ただ静かに、その少女に言葉を向けるだけだ。
「具体的に、俺に何をしてもらいたいんだ?」
「私の役割はスカウトよ。単刀直入で悪いんだけど私の組織に入って。力を貸してほしいの」
「こりゃまた突然な。おままごとの相手なら俺には無理だ」
「『異界の勇者』の力が必要なのよ」
「俺は落ちこぼれだけどな」
「"咎人"と聞いているけど」
「そりゃ俺の恋人だよ。【敬虔】の罪を持つ"咎人"だった」
「今どこに?」
無言で大和が指さしたのは空。ただし示している場所はもっと遠いところ。会いに行きたくても行けない人生の終着点。
口ではそう言っても、なんだかその少女は悪びれた様子も無いようだった。子供相手にムッとしてもしょうがないので大和は無視して。
「悪いこと聞いちゃったわね」
「いいさ。彼女は最期に俺に力を貸してくれた。その力は今もここに眠っているのさ」
と言って大和が左手で握ったのは逆の手首に巻かれた白と黒の螺旋を描くミサンガ。その表情はどこか寂し気で、悲しい
「組織の名は『箱庭』世界そのものを解き明かすことを目的とした世界の暗いところの存在」
「仮にも勇者に闇落ちしろって?」
「闇落ちじゃない、むしろ私たちは世界の光を求める組織よ。組織のメンバーは人生を途中で諦めた者が大半。もちろん私もね」
「その年で人生を諦めるなんて、人生まだまだこれからだぜ」
「そして私が誕生してから数百年の歴史を誇る『箱庭』の最古参の一人。約600年の時を生きる死ねなくなった女」
その言葉に、今まで何処か他人事だった大和の眉がピクリと動く。いいや、反応するまいと意識していたとしても、体が勝手に反応してしまったらしかった。
死ねなくなった女。大和と極めて近い存在。
「私が死ねなくなったように、あなたは老えなくなった。この世には正の数がある限り必ずその反対には負の数も付きまとう」
「何が言いたい...?」
「『箱庭』はその負の数を探求する組織。つまり全ての物事には対極が存在するってことよ」
もしもこの世に正の数なんて発見されていなかったら、負の数なんて人は考えもしなかっただろう。陽の光が当たるところに影が付きまとうように、物事には必ず対極が存在する。
空の反対側に地があり、惑星の朝の裏側には夜があるように。
「命を不死にする力があるなら、命を取り戻す力もあると思わない?」
大和の心臓が明確に胎動する。
雲をつかむような話だった。あの日、あの時自分の代わりに散っていった少女を取り戻せるかもしれない。そんなことを言われても、簡単に信じれるわけがない。
一度失われた命は取り戻せない。
子供でも知っている一般常識の一つだ
たとえ心臓を撃ち抜かれて死んだ人間の心臓をより健康なものに移植して
血液を補ったとしてもその心臓が動くことはない。
何故か?死んでいるからだ。それが世界の一般常識で、彼らの言う『明るい世界』に絶対たるルールの一つ。
実際彼女のことを諦めきれなかった大和は、死者を蘇らせる技術やそれに類似する知識を探そうとする時期があった。
しかし行きつく先はどれも遺体の冷凍保存や遺体を媒体とした人形の作り方ばかり。血液を別に保存し、心臓を止め、全身を氷漬けにして未来に託す技術は、死者蘇生とは言えない。それは遺体の保存を完璧に行っているだけであって、命が取り戻されたわけではないからだ。
認めたくないだけとはわかっていても、諦めきれない。
自分を情けなく思い、結局すがって無駄となってしまった。
そんな大和の前に現れた不死を語る少女が、クルクルと自分の前髪を指先で弄る。人を小ばかにするような態度?いいや、これが平常運転。
これが少女にとっての普通。
「私達はそういう裏を探求しているの。あなたにぴったりの居場所だと思うけど」
「断ったらどうなる?」
「どうもしないわよ、あくまでも勧誘なんだから。無理強いはしないわ」
そう言うと、ひらひらと片手を上げた少女は船内へと通ずる扉の一つへ向かって歩く。逆の手には財布と思わしき布の袋が見えることから、行先はカジノだろう
「次会ったときには返事を聞かせてね」
ちらりと振り向いた少女がにやりと笑うと、次の瞬間にはその姿はドアの向こうに消えていた。再びだ。
嵐が過ぎ去った後のような静けさ。再び、海猫と波の音だけが空間を支配し始めた。流れる雲も視線を落とすだけで眺められる波の端も、過ぎ去った嵐に安どしたかのような平穏を取り戻しつつある。
もう一度、彼は肩をすくめて。
「どっちが、正しい道なんだろうな」
と、ぽつりと小さく呟く。
逃げ切れないとはわかっていても、縋りたいと願ってしまうのは他でもない『人間』の性みたいなものだ、と自嘲気味に考える。
正直今の環境からは逃げ出したい。
戦いの毎日(ただし自分は後方支援組)にこれ以上身を置くならば、精神の疲弊どころでは済まなくなりそうだ。だがクラスメイト――仲間たちを置いて一人で逃げだすのも心苦しい。あの少女ともう一度逢える可能性。
信じたわけではないが、簡単に捨て去ることもできない。
だがそんな結末も曖昧な目的のために組織に入ったところで何になる?
心の内に広がったもやはしばらく晴れそうになかった。
不死を語る少女の言葉と仲間が、天秤の上でぐらぐらと不安定に揺れている気分だ。
(どうするのが正解なのか、俺にはわからねえ)
恐らく、どちらへ転んだとしても大和は戦い続けるだろう
それが『異界の勇者』としてこの世界に降り立った彼の運命なのだから。
そして運命を捻じ曲げることができそうなのは、組織に付く方だ。
もしも本当に、死の対極を見つけることが出来たら
あの少女にまた逢えるかもしれない
だがそれは仲間を裏切ることと同じなのではないか?
心の葛藤は自分の部屋に戻っても続いていた。
ぼすりとベッドに倒れこみ、目を閉じても
茶髪の少女の言葉が頭の中をぐるぐると回っている
「どうせ俺はどうあがいても戦いからは逃げられない。だったら希望が無いヘブンライト側よりも、0がいくつ連なっているかもわからないが必ず最後に1が存在する組織側に付いた方が...」
このままただ国のために戦い続ける人形と化すか。
希望を信じて突き進み、それを実現するために戦うか。
同じ『戦う』でもこの二つの意味は大きく異なる。
片やただの戦闘奴隷、ただし仲間たちと共に、もう片や未来を信じて希望を探す探求者、ただし仲間たちを、国を裏切って。もはや大和一人の問題ではなかった。
右手首に巻かれたミサンガに目を落とすと、もう何度目かもわからないため息をつきながら大和は思う。
(こんな時、アイツならどうするのかな。)
自然と頭に浮かんだのはまさしく自分の対極
クラスのリーダー的存在であり【蛮勇】の"咎人"でもある音賀佐翔。生まれながらに大和には持ちえないものを持ち、『異界の勇者』の主戦力として数々の戦場を現在進行形で飛び回っている青年。力を持ちえなかった大和はどうしてもその少年を比較に出してしまう。
(そんなの決まってるか)
彼ならば恐らく、いや。
絶対に仲間と共に歩む道を選ぶだろう。翔は自分が仲間を導く立場であるという自覚を持ってこの世界で生き延びているくらいだ。誰よりも仲間想いな彼は、終末戦争で亡くなった11人のクラスメイトの墓に毎月欠かさず通っている。自分のせいで仲間が死んだ、もっと自分が強ければ。あの戦争が終結してからの翔の口癖のようなセリフだ。
ベッドに埋もれた顔を上げて時計を確認すると、針が示していたのは六時半。
「とりあえず、メシ行くか」
一旦考えるのをやめた大和はそう言うと、客室のドアを開けて食べ放題のバイキングが振舞われているフロアへ向かった。
難しい問題を先延ばしにするのもまた『人間』
思いつめすぎてもいい結果は生まれないものだ。
テーブルの上を覗けば、豪華な料理の山が見える、そして貪るように両手の大皿に片っ端から料理を載せている栗色の髪に自然とウェーブがかかった少女の姿も。
「ちょっと!オムレツの追加はまだ!?全然足りないわよ!!」
「......」
不肖椎滝大和、ここで絶句である!
呆れてものも言えない、という表情の大和は面倒ごとを好まない。今あの少女と鉢合わせたら、間違いなく面倒なことになる。
てかさっき『次会った時には返事を聞かせてね』って言われたし。
少なくても今はまだ決断できていないので茶髪ウェーブ少女に気づかれないように、そーっと、まるで映画の上映中にトイレへ抜け出すように忍び足で。
「くそっ、あのテーブルの料理全滅じゃねえか...ということはオレのお気に入りの特製スクランブルエッグもダメ...!」
肩を落としている大和は面倒ごとを避けるため、なんとか少女の視界に映らないように。遠くのテーブルのスパゲッティを大皿によそっていると近くのツナパスタをよそう少年が大和の顔を見つめている。
「こんばんわ、シイタキヤマトさん。先程はうちのが失礼しました。本当はもっと慎重に接触しようと思ったんですけど」
紳士風の口調で話しかけてきた少年に対する大和の反応はやはり変わらず特異な反応を示さない。ただ淡泊に質問するだけだった。
「あんたも、あの子が言うおままごとの組織の人間かい?」
「僕は『人間』ではなく『海獣族』ですけどね。おままごと呼ばわりは心外ですけどまあ説明したのがあの人だ。貴方に非はないでしょう。組織の者で間違いはありません」
「そこんところは聞いてない」
「手厳しいですね。申し遅れましたが僕はホードといいます。『箱庭』では主に情報収集を担当としている者です」
「ホードね、よろしく。早速で悪いんだけどあんたんとこのサブリーダー止めてくれない?俺お気に入りのスクランブルエッグが食べれない」
「無理ですね、ああなったら梃でも動きませんから」
「まじかよ...俺のスクランブルエッグ...」
少女には聞こえないように、そっと嘆きの声を上げる大和に手を差し伸べる者がいた。
その手にスクランブルエッグが載せられた皿を持って。
「スクランブルエッグでしたら、先にとっておいた分がありますよ。後で食べようと思って多分ですけど。よければどうぞ」
「まじかよどうしよう『箱庭』入ろうかな」
「そんなことで決断するんですか!?」




