人は五感で生きている
真夜中、灯りを付けて部屋の中央で飯を食む。
寝ぼけ眼を擦り明日の憂鬱に溜息を吐いて、窓の外で無数の雨粒がコンクリートを打つ音に益々の鬱屈を覚えるも、明日のことを考えてさっさと就寝しようとした瞬間に打ち鳴らされた轟音、落雷。
灯りも、テレビも消えて空間は一瞬にして夜の暗闇に覆われる。
ブレーカが落ちたのだと予想を立てて、しかし面倒になりそのまま携帯の灯りを頼りに布団を敷いて眠った。
連想したのはそれだ。
ブレーカーを落とされたような暗闇。五感の一つを突然断ち切られ、他の感覚がそれを補うかのように一時的に鋭敏となり全てを強調し始めるあの感覚。
あの日の落雷の後の雨音のように、アルラを取り囲む全ての木々の葉の揺れ動く音が勝手に強調されているのだ。
「人は五感で生きている」
幼い声。幼いながらも妙に威圧感のある、まるで数十年も感情を押し殺してきたような声色が囁く。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。
古今東西、この世のありとあらゆる生物に当たり前のように備わり、プログラムされた五感という名のそれらが突如として消え失せたという異常事態。
動揺はあったが、混乱はなかった。
妙に納得してるくらいだ。
外見年齢と中身の差異もこれで説明がついてしまう。
「シャハト...お前魔法使いか!!」
「普通は視力を奪われたとあっちゃあもっと混乱するものなんですがね、貴方は馬鹿に冷静だ。強い精神力をお持ちのようですね」
シャハトの声を聞いて直ぐ、アルラは靴を脱ぎ捨てた。
土足で他者の『家』に踏み込むなというシャハトからの先程の指摘、視力の消失のキーワードはそれと見てまず間違いが無いだろう。
放り捨てた靴が地面に落下するより早くにアルラの脚は地を踏み蹴っていた。
『神花之心』による爆発的な加速力は無くとも、身体能力は常人を圧倒的に追い越している、声の方向へと拳を握り、駆けて、突っ込んだ。
(改善しても目は見えない、単純な加点減点じゃなくて残基性と考えた方がいい。なら視覚は捨てる、速攻で術者を叩く!!)
「素晴らしい判断力だ。だが僕だって馬鹿じゃない、そう言う対応を予測し更なる対策を講じるくらいのことはする」
鋭敏に研ぎ澄まされた聴覚が声の出所を突き止め拳を叩きこもうとするも、すり抜ける。躱された、のではなく最初からそこにいなかったように、アルラが頭の中で空間に思い描いていたシャハトの姿を、行き場を失った拳と全身が通り過ぎて行った。
代わりに足の裏に妙な感触と、バキッ!という乾いた音が鳴り響いた。
「『木霊の木札』...速い話が発声を肩代わりしてくれる魔装です。もう家中あちこちに撒いてあります」
「随分用意がいいじゃねェかよ、そんなに俺が怖かったかよ」
「ええとっても。急いで取り寄せたモノですが間に合ってくれてよかったです、やはり何十年も商人をやってると嫌でも繋がりというものは出来るもので、お得意様は居るだけ得ですね」
広がる、声の出所が。
一か所、二か所、三か所...もっともっと。家と呼ばれたこの森から切り取られた空間のあちこちから、既に彼の声は分散して鳴り響いていた。
もうずいぶんと忘れていたのに映画館に居るみたいだ。
だが画面は真っ黒で瞼は開いているはずなのに一切の光を感じ取れない。風が吹くと眼球はその感触を感じ取れるのに見る力だけが狙ってこそぎ落とされている。
「僕の術式は『幸せの家』、四本の杭を軸に取り囲んだ空間を『家』として侵入者全員にルールを押し付ける」
ざわ、ざわ、ざわと風に木々が揺らいでいる。
この暗さには懐かしさすら覚えるようだった。洞窟で過ごした十年、生活するうちに砥石で研ぐように丁寧に磨き上げた視覚、そして聴覚。
片方を失ってもなお、盲人が失った視力の代わりに聴力を発達させ生活を補うように、もう片方の感覚は研ぎ澄まされている。
本物を聞き分けようと全力で音へ意識をのめり込ませる。が、まるで夏の真昼の林の中、木々で羽を鳴らすセミのように大群と化した音は、もはや壁となり認識を阻み続ける。
「違反者は五感を失うってとこか、魔法使いとも何度か戦ってきたが環境構築魔法の使い手には初めてだよ。でもタチの悪さじゃ他に負けてない、じわじわ奪って嬲り殺しっていうそのスタンスは特になァ」
「術者が少ないのは単純に埋もれつつある技術体系ですからね、発動までが難しい上に自らもルールに縛られ応用が効きにくい。はっきり言って化石ですよ、しかし発動後の爆発力は圧倒的です。僕個人の意見ですが」
「どうして撃った。ユーリーを」
「だから言ってるじゃないですか...嫌いなんですって。第一アレはこの騒動の首謀者、言わば全世界の共通敵。むしろ貴方の行いが間違いで僕が正義の側に立ってるとは思いませんか」
「もう少しで全部が丸く収まった、あいつを使って収められた。お前のアレは横入れだ!!」
「横入れも何も我々人類は被害者ですよ?正当防衛の一言でカタがつくでしょうに」
環境構築魔法は読んで字の如く、術者にとって有利に働く環境を構築し、組み上げたその空間内で一方的にルールを押し付けるという数ある魔法の技術体系の一つである。
例を挙げると、キマイラがトウオウで戦ったカララ・オフィウクスの『コトリバコ』だ。
正確にはアレは魔法とは異なる技術体系である呪術をベースに環境構築魔法のノウハウを取り込んだ独自の魔法技術ではあるのだが、根幹の仕組みは同様だった。特定の空間に術式による加工を施し、侵入者にルールを押し付ける。
シャハトの『幸せの家』は本来発動までに複雑な条件をクリアしなくてはならないという環境構築魔法の弱点に対し、罰則を『五感の没収』とし一切の殺傷力を持たせないことで発動条件を『空間への侵入』と緩和させている。
速い話が発動条件を緩くした分、効果も対象へ直接的にダメージを与えられない緩いものとなっているのだ。
「わかりますか?あって当然だったモノが唐突に失われる苦しみ、恐怖、混乱。記憶は日増しに猛毒のように心を蝕み元あった形をグズグズに崩してしまう。僕だけじゃない、当時のあらゆる人間が僕と同じ苦痛を味わった」
彼の言葉に思い出したくも無い記憶が鮮明に蘇り、焼ける村の景色がフラッシュバックしていた。
よりによってその種の痛みを俺に説くのか、と。
がこんっ!!っと衝撃が肉を突いた。
感触としては木製バットで殴られた感じに近かった。狙われたのが側頭部だったためにギリギリで風切り音を聞き分け、腕を挟むことが出来たから良かったものの、既に満身創痍のこの体には何が致命傷になるかわからない。
よろけながら、それを再確認させられた。
すぐさま攻撃された方向へ反撃の蹴りを繰り出すも、当たらない。突き出された脚は空しく空気を薙ぐだけだ。
「...来客を叩きのめすのは『マナー』うんぬんの前にどうなんだ?視えてないから証拠も証言にもならないって言い訳で乗り切るつもりかよ」
「何のことですか?僕はただ家の掃除をしていただけですよ?偶然ちりはたきが当たってかもしれませんが」
「チッ、その言い訳が成り立つなら法はこの世に要らねェんだよイカレ野郎」
五感を奪い、叩く。
彼が言っていた。人は五感で生きている、と。
ある日朝起きて突然耳が聞こえなくなっていたら?或いは食事中、突如として食していた牛丼がぱさぱさとした味の無いゴムのような触感に感じられたら?その人たちは元通りの自然な暮らしに戻るまでにどれほどの日数を必要とするのだろうか、聞くまでも無い程に答えは分かりきっている。
五感とは備え付けられて当たり前の機能であり、それが無くなるということは当人にとってどれだけの混乱を招く事態になるか。
物理的じゃない。『幸せの家』は敵の精神を削り取る。
(奪う感覚の種類はランダム、もしくは奴が予め決めてあるのか。後者だとしたら次は...!)
「それにしても、アルラさんはさっきから随分と口が悪い。親しき中にも礼儀あり...例え人目に付かない場所でも人と人が接する以上は互いに敬意を払うべきだと思いませんか」
「ッ!?」
しまったと思った。完全に頭に血が上っていたのだ、不法侵入程度で罰則を加えられるのであれば暴言も、或いは『脅迫』の類という事で結び浸かられてしまうかもしれないという可能性を加味していなかった。
直後に塗り重ねられた違和感。
それまで頼り切っていたモノがあっという間に瓦解するという最悪の感覚、森の雑音も自分自身の足音も完全に消え去って、現状で頼り切るには余りにも頼りない感覚だけが残された。
失っちゃいけないものを自ら手放したようなものだ。
『これであなたは僕の位置を完全に見失った』
無くなったはずの聴覚がなぜかその声だけは捉え続けていた。
距離は無い、耳元で囁かれたように至近距離。
ほとんど脊髄反射で繰り出した肘もやはり肉の感触は捉えない。流石に小さくない焦りが、アルラの中で徐々に胎動を増していく。
『発声の肩代わりとは言いましたが『木霊の木札』はそれ自体が音を発しているわけではありません。僕の声を木札の位置から、情報として音を介さず脳へ送り込んでいる。だから聴覚が無くとも聞こえるように感じる、ただし僕本体の声じゃない。声から僕の位置は特定できない」
話途中で足元にあった細長い長方形を蹴り飛ばすと、それだけで耳元で感じた声が遠ざかる。木札を遠くへやると同時に声が遠ざかったことから、脳へ直接送り込まれている声は木札の位置による音源の近遠まで再現しているらしかった。
ゴッッ!!と、衝撃が色も音も削ぎ落して襲い掛かる。
タイミングを読まれないために間隔をあけて、何度も何度も繰り返し、だ。反撃に転じようにも、異能も使えず五感の最重要要素二種を奪われた現状ではそれも難しい。
からからと、衝撃にポケットから飛び出した『ウィア』が地面を転がっていった。
ただしその音もアルラには届かない。感触だけで事実を察したに過ぎない、ウィアのように、自分から飛び散った血がどこの地面を赤く彩っているのかすらも。
『貴方だけだ...貴方だけが襲撃者が僕であることを知っている。貴方さえいなくなればきっと妖魔は熱を取り戻す。卑劣な人間への報復の怒りでね!』
打撃に重みは無い、きっといざ反撃されても平気なようにその辺で適当に拾った大き目の木の枝を使って殴り掛かっているのだ。
重みが少ない分、強化に成れたアルラの体をざらざらとした枝の表面が何度も擦れていく痛みが蓄積していく。
『エネルギー切れなんでしょう?あの異能は使えないんですよねえ、じゃなきゃ僕如きに貴方が後れを取るはずがない!!好都合だった!突如として現れた貴方だけがネックだった!だから妖魔共の主戦力と共倒れになるように情報を流し、結果はこの通りだ!!』
ああそうとも、正解だよ。
異能さえ使えればこうはなっていなかった。対応策はいくらでも思い浮かんでいたのだ。
反射神経の強化で攻撃された瞬間を捉える、硬度を上げて攻撃を加えた武器を壊す、皮膚感覚を向上させて攻撃をそもそも察知する、etc......。
ないものねだりで状況が好転するはずがない、街へ連れ込んでくれた優しい彼の姿はもうどこにも無い。思えばすべてが打算に過ぎなかったのだと考えて、腹の底にどす黒い見知った感情が湧き上がるのを感じた。
後先のことを考えて異能を躊躇っていたらユーリー・ヴォルグは止められなかった。
後悔はない。選んだのは自分で、ということは責任をとるのも自分だ。
「......五十年前、『妖魔戦争』絡みだって?お前の憎悪は...。馬車で話してた時もそうだったのか?溢れる憎しみを堪えながら必死に表情を繕ってたんだろ、強張ってたもんなァ」
そう話した後の一撃はそれまでよりも鈍重だった。
濁ったドブの中のような殺意を感じた。まるで妖魔という大枠を存在悪と断定しきって、それに関与する全ても巻き込んで悪とみなしているようだった。
犯罪者の身内は犯罪者なのか?断じて違う。
過去の罪は歴史から消えやしない。が、罪は罪人個人の所有物で周囲は関係ない。
だから言ってやる。
『憎しみは晴らそうとしない限り晴れるものじゃない、貴方ならわかるのでは?五十年分の利子を付け加えた程度で収まるようなものじゃない』
シャハトはそもそも憎悪を...復讐をはき違えている。
「...やり返したいならよ...五十年前の本人にやり返したらどうなんだ?出来ないんだろ、まだそいつらが怖いから。だから無理やり解釈を広げて仮想の加害者を創り出した。直接戦うのは怖いから、裏からコソコソ手を回して自分は『被害者』で居続けようとした。復讐が聞いて呆れる!!」
『黙れ余所者、そんな安い挑発に乗る程僕は若くない』
「あーあーいっちょ前に怒っちゃって、怒気が漏れてるぜおじいちゃん!!」
声を張り上げて言ってやる。一言一句はっきり聞き取れるように、声を特大にして。
ますます殴打する力が強まっていった。
煽る。言い過ぎだと人に言われるくらいに煽りまくる、奴がそうしてきたように奴の冷静を欠かせる。
攻撃は苛烈さを増していった。相関するように、こちらとしても奴への怒りが込み上げてきた。
痛みに対してじゃない、奴が行った所業、横入り、完結しかけた場を乱して余計な手間を増やし、仲間への危険を再発させた行いに。
「お前のそれはただの八つ当たりだ!恨むのも憎むのも今の妖魔じゃない、今回の件も終わりかけてたのに、無関係のお前が横から引っ掻き回してんじゃねェよ!!」
言葉の直後の、今までで一番の強打の直後。プツンと頭の中で線が切れて、温情はそろそろ品切れだ。
原点が身を包む。憎むことが何よりも自分らしく、そして手っ取り早く問題を排除する方法であると改めて思い出すことが出来た。
後悔させてやる。戦いの果てにようやく伸ばされた手を掴もうとして、横からそれを払い除けた所業を。
一度は救えたはずだった仲間を、横入れで再び危険に晒した大罪を。




