大儀と犠牲
人を殺して自らの心が削れるようなことは無かった。
それは自分の中に確固たる大儀があり、そのために進むことに一切の迷いが無かったからだときちんと自覚していた。
殺す相手も...こう言ってはおかしいかもしれないが、きちんと選んできた...つもりだ。
一度戦場に身を投げ出したならそこにいるのは『敵』と『味方』だけ。味方は勿論殺さない、大儀に必要だからだ。
敵は殺す。
それが仕事、勝って殺す。負けたら俺が死ぬ。わかりやすくて...馬鹿な俺でもすぐに覚えられた。ただ、敵の中にもたまに『変な奴』がいて、そいつは死が目の前に迫っているというのに命乞いもせず、そいつにとって一番重要な何かを握りしめて、全てを悟ったように自ら額を差し出していた。
そういう奴は、不思議と、『敵』だと思えなかった。
戦場にいる奴の大半は望んでそこに来たわけじゃなくて、殆どが仕方なかったというだけの理由でその場で武器を握っていた。
大儀だ。
誰もかれもが仕方なく、自分の大義を示すためだけに戦った。
「...終わりだ」
二人分の呼吸。
二人分の血痕。
だが勝者と敗者は一人ずつだと決まっている。
「俺の勝ちだな、先生」
雲が暗く、黒く、深く、いつの間にか頭上にまで忍び寄っていた。
鼻の奥をくすぐる硝煙の香りがいつにもまして不快に思えるのは、目の前の『敵』が身内で、なおかつ例の『変な奴』だったからか。彼は既に地面に腰を下ろし手を付けて、額から垂れる血に塞がれた片目をもう片方の手で拭っていた。
周囲の建物の壁面にこびりついた無数の弾痕、瓦礫の破片、火薬の香りがこの場で起こった戦いの激しさを雄弁に語る。
数十秒前の出来事だった。
【直截】の異能『軌道制御』を駆使するユーリー・ヴォルグに対し、ヴァリミル・ハスキーは張り巡らせた導火線を足場に立体的に動き回り、一進一退の攻防を繰り広げていた。
均衡を崩したのは街のどこかで起こった大爆発。
衝撃で建物の一部...それも、まさにその時の足場としていた導火線の一端を取り付けていた部分が崩れ落ちたのだ。
突如として、反作用で飛び上がろうとしていたヴァリミルの足元が安定を失った。ぬかるんだ水たまりに脚を突っ込んで、それが思ったより深かった時のような頼りない浮遊感に背筋を凍らせる。
優秀な弟子は偶然から生まれたチャンスを見逃さない。
教わったように...きちんと全身に弾丸を叩き込む。背中、肩、両脚...一つの致命傷すら負わなかったのはヴァリミルの技量によるもの、崩れて落下中の瓦礫へ咄嗟に体をぶつけ、僅かに着弾点を逸らした。
「...一本くらい吸わせろよ」
「煙草は辞めたんじゃなかったのか」
「お前みたいなクソガキが多い街だからな。しかもだ。どうやらこいつは健康に悪いらしい」
「......」
「嘘じゃないぜ。街の入口のところの診察所のバーさんが言ってたんだ。ずっと吸ってりゃ肺が真っ黒になってそのうち死ぬんだと。俺も最初は嘘だと思ったがバーさんが症例の写真出してきやがって―――」
「見え見えの時間稼ぎは辞めろよ。待ってるのはさっきの余所者かそれとも...どうでもいいな。どうせ誰もここに割って入れやしねェ」
彼の場合は戦場で長く苦楽を共にした相棒への信頼からくる自信だが、残念なことにヴァリミルも心の底では同様に思っていた。
長く傭兵を育ててきた経験からくる予測と言うべきか。
今のラミルとカイではゲルマを倒し、こちらへ向かうことは出来ない。良くて相打ち...悪けりゃどっちかが死に、最悪は二人共死んでいるかもしれない。
アルラと違って二人には人を殺す覚悟が無い。
良くも悪くも『善人』だからだ。奪われるくらいなら奪うというアルラのような鬼気迫る気迫が無い。内に秘めた力を十全に扱うだけの経験も、技術も無い。
ジッ...と。
擦りつけて、マッチに火が灯る。
今の反乱軍の望みのように頼りなく小さい火は、ヴァリミルが口に咥えた不格好な手巻き煙草に熱を移した。
「ゲルマと...あの白衣の男か。信用してるんだな」
「あれはノーテイムだ。最低最悪のカス野郎ではあるけど、支払われた金銭分の働きをするくらいのプロ意識はある。あんたの秘密兵器もここには来れねぇし、この街も直に落ちるだろう」
ユーリーはずっと傭兵としての稼ぎを貯め込んでいた。
これはいつか妖魔のために使う金だと言って、飲みに行くときでも自分は一杯だけ飲んでさっさと帰ろうとしていた。
放出したのはその金だ。傭兵稼業は命の危険を伴う分入ってくる金額だけは無駄に高い。業界では割高で有名なノーテイムファミリーも、今まで溜め込んだ金があれば相当の奴を雇えるはずだ。
これが妖魔のためになると本当に思っているのか。
或いは諦念の意から裏返った自暴自棄なのか。
「変わったように見えて...中身は全然変わらねェなあユーリー。一度言い出したら俺らが何言っても聞きやしない。仕舞いにゃ周囲を巻き込んで迷惑をかける。ケツを拭くのは俺かゲルマ」
「...今回はゲルマも俺の側だ」
「ああ。あいつもなんやかんやで溜め込んでたからな。人間嫌いはお前以上だし」
ずきん、と。
ヴァリミルの頭に鈍く痛みが奔る。
頭からの出血がなかなか収まらない。もう数分もすれば意識も無くなるだろう。更に時間が経てば体全体の何割かの血液を失って出血死...我ながら、悪くない死に様だと、ヴァリミル・ハスキーは心の中で自嘲気味に笑った。
「最期に答えてくれ、先生」
隠そうとはしていたが、ユーリーの声は僅かに震えていた。
師を手に掛ける者の責任を背負おうとして、その重さに押しつぶされそうになりながらだった
「妻も...娘も!最愛の何もかも人間に奪われたあんたが!!どうして命掛けで人間を庇う...!?」
弟子の言葉と、言葉から滲み出る思いがヴァリミルの記憶を刺激した。
ユーリーが一人前になり、二人で初めて酒を酌み交わしたあの日、うっかり語ってしまった自分の過去。もしそれがユーリーの中で重しとなって、今回の件に少しでも関係があるとしたら、それは自分の責任だ。
何十年も昔の話だ。
かつてのヴァリミル・ハスキーには妖魔の妻と、妻との間に生まれた娘がいた。妻とは傭兵として派遣された異国の、戦場と化した街で彼女が逃げ遅れていた時に出会う。
『おいお前何してる!?避難勧告があったろ!』
『兵隊さん手伝って!おばあさんが瓦礫に脚を挟まれて動けないの!!』
『あァ!?』
後に知ったことだが、彼女は自ら望んで戦場と化した街に残ったらしい。避難中の団体の中に、良く世間話をする近所の老婆が居ないと気付いたという理由で、だ。
彼女は芯がある女性だった。いつもはきはきとしていて曲がったことが嫌い、趣味かってくらい人助けが好きで、誰からも好かれる女性だった。
その戦場での戦争は終わり、縁は切れたはずだった。だがそうはならず、運命のいたずらか、当時のヴァリミルが拠点としていたログリア北西の街が戦争難民の受け入れを開始する。住人の高齢化による労働者不足を解決するための苦肉の策、だがそのおかげで二人の再開は瞬く間だった。
『なんで俺の行きつけにお前がいるんだよ!?』
『ここで雇ってもらえることになったのよ。兵隊さんはお仕事帰り?...って怪我してるじゃない!ちょっと待ってて!!』
あれよあれよと言う間にだ。
不健康な暮らしを続けるヴァリミルに彼女は持ち前のお節介を焼き続けることになる。戦場を巡っては傷つき、帰ってきては死んだように眠って怪我を直すを繰り返すヴァリミルを放っておけなかったのだろう。再会から一年も経つ頃には半ば押しかけ女房のようになっていた。
差別...軽蔑...目を合わせただけで『人間』に殴られた少年時代、妖魔戦争の影響をもろにうけた世代の一人として身に受けた今までの嫌な記憶が薄れていく感覚があった。
その頃のヴァリミルには既に、その生活を悪くはないと思う心が芽生えていたのだ。
『結婚おめでとー!』
『嫁さん泣かせるんじゃないよ!』
『俺は結婚しねェなんて言っておきながらいい女見つけやがって!くたばれヴァリミルコノヤロー!!』
『うるせェェエエエエエエエエエ!!!』
『あっはっはっはっ!』
家族が出来た。
家族を生かすために、もっと稼がなきゃと思った。
そしてこんな自分でもできる仕事なんて言ったら、それこそ戦場だけだった。
引き金を引く。
引き金を引く。
引き金を引いて、ナイフで皮膚を裂く。
返り血で真っ赤に染まった何かを見るたびに、今まで何も感じなかった作業の中で、理由の無い戸惑いが生じていることに気付いた。彼女に命が宿ったと知った後の戦場では特にだ。
その仕事の敵はとある国家で、人手が足りないそいつらは十歳そこいらの子供に魔法や武器の扱いを仕込み、少年兵として利用していた。
敗者には死を。
そういう戦場の鉄則を、初めて自ら破った。
涙目を浮かべて震えていた少年兵には首輪のような魔道具が取り付けれていた。逃げれば国に殺される、戦う事だけが生き延びる唯一の手段。ある意味、自分と同類だと、そう思ったから、だから見逃した。
『次の仕事は少し時間が掛かりそうなんだ。だからちゃんとママの言う事を聞いて...お利口にして待っててくれよ』
『ねえ...私だってもちろん、みんなあなたを心配してるのよ?この前のあの話、真剣に考えてほしいの......』
『悪いとは思ってる。でも俺はこれしか出来ないんだ。今更他の仕事なんて選べない。大丈夫、俺は絶対に帰ってくるから』
正直、死ぬかと思った。
実際だ。自分とあと一人を除いた全員が死んだ。全員が『強欲の魔王』に殺された。魔王討伐作戦...どこぞの国の偉い奴が企てた無謀極まりない夢物語だった。その分金払いが良かったからと言って飛びついてあのざまだ。
生き残れた理由はたまたま、生き残ったもう一人と組んで戦おうとしたから。そして何が何でも生きて帰るという意思があったからだ。
化け物と化け物の正面衝突を離れた場所でなんとかやり過ごして、ようやく家に帰った。
家族が待つ家に帰ってきた...はずだった。
『最近...また街で難民を受け入れただろ?そ■中の一人が人間の元兵士で―――』
二人はいなかった。
彼女も、もうすぐ五歳になる娘も。
家には誰もいなくて、嫌な予感がした。慌てて彼女の働いていた酒場に駆け出して、そこで馴染みの店主から初めてその話を聞いた。
『まだ捕まって■いんだ。二人だけじゃない、大勢が■された。し■も被害者は全員妖魔族で、保安員は計画的な犯■だって話だ』
聞きたくなかった。
『一緒に街に移ってきた奴によると、そ■■は戦争で頭がお■しくなっ■らしい。妖■に並々な■■い執■を抱いて■たって―――」
そこまで聞いて走り出した。
行き先も決めないままあちこちを走り回って、二人の姿を探し回った。事件が起こったのはつい先日で、特に街の診察所は人で溢れかえっていた。
二人との再開はその日の明け方だった。
診察所の、二つ並んだ小汚いベッドの上で二人は眠っていた。
もう目覚めることは無い。
『う、ぉ、お、お』
あとはあまり覚えていない。
ただ、とにかく叫んでいた。
『ウォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!』
点々とした記憶だけが、忘れたい記憶の、それでも忘れてはならない記憶としてこびりついている。どんな手を使ったのか...どうやら自分には人探しの才能があったらしく、保安員たちより一足早くそれに辿り着いた。
背後から声を掛けて、それが振り替えると同時に殺した。
今までで一番軽い引き金、糸を切った人形みたいに倒れたそれにこれ以上どうこうする気も無かったが、衝動的に、それが殺した誰よりも楽に逝ったことに腹が立って死体の頭を思いっきり蹴り飛ばした。
死体が被っていたローブがめくれて、心臓が握りつぶされたかのような錯覚を覚えた。
それは...いや彼は、かつて自分がかつて戦場で見逃した少年兵だったからだ。首には縄で括ったかのような痛々しい痕が残っていて、顔にはかつての面影がしっかりと残っていた。
店主が言っていた、妖魔への執着。
もしもその執着の根源が、あの日の自分なのだとしたら。
二人を殺したのは......。
『あ、あああああああああああああああああああっ...!!』
ますます仕事に明け暮れた。
ヤケクソになっていた。
自分は幸せになるべきでは無かった。
人殺しの癖に人並みの幸せを掴もうとして、結果、他人を巻き込んだ。人殺しらしく地べたを這いつくばっていればよかったのに、差し伸べられた手を掴もうとして、逆に引きずりおろしてしまった。
大儀を見失っていた。言う事も聞かずに一人で突っ走って、そして後ろをついて来ようとしてくれていた家族を巻き込んで、途中で迷ったばかりに不必要な悲劇が生じた。
あの時はそう考えていたのだ。
ぼそりと、自分でも気づかないうちに小さな言葉を漏らしていた。
「......あのすぐ後だったな。お前と出会ったのは」
小さくなった自分を見ているように思える程に、だ。出会った頃のユーリー・ヴォルグに過去の己が重なった。人に害され、人を憎み、強くなろうと望む姿勢のその全てが、己を戒めるためだけに出会ったかのように心を縛り付けた。
家族を失い孤立無援となった妖魔の少年。
俺は間違えた。
もう、次は間違えない。けど俺に次は無い。なら、次がある未来の妖魔を育てよう、と。
次の妖魔に俺と同じ道は辿らせまいと、そう願った。
「全ての命は尊くあるべきだ。人も。妖魔も」
「一方的に奪われ続ける人生だとしても?」」
「俺は何一つ奪われていない。人間は俺から何も奪っていない」
ダンッ!!という轟音が空気を叩いた。
硝煙の香りを放つ銃口から撃ち出された弾丸はヴァリミルの頭のすぐ隣を掠めて、その先の地面を黒く焦がしている。
「それは言い訳だ。あんたは自分が戦わなくていい理由を探したいだけだ。ただ逃げてるだけだ!!」
「かもな。でも真実だ。俺の悲劇は俺の過去の清算で俺はそこに家族を巻き込んだ。お前はどうだ?あの時の俺みたいにお前は『妖魔』を巻き込んでるだろうが。進む道は同じなんだよ」
「違う!!俺はあんたみたいにはならない。勝って権利を手に入れる!何も失ったりはしない!!」
「もう失ってんだよ何もかも!!てめえが進んだ道の背後を振り返ったことはあるか!?誰が泣いてるか知ってんのか!?」
気付いた時には遅すぎたんだ。
ユーリーが...自らで育てた弟子が音頭をとって、押さえつけられていた妖魔に火をつけた。油に蝋燭を落としたみたいに瞬く間に火は燃え広がり、この反人類戦線が生まれた。
最初は弟子と、妖魔の行く末を見届けようかとも思った。
もう自分一人じゃ止められない、正せない。この大火は一人分の水バケツじゃ鎮火仕切れない。諦めようとも思った。
だが道行く人の中で、何も知らない人間の子供が母親と手を繋いでいる光景を見て、その瞬間に、自分の責任を理解したんだ。
大火に乗せられた風に装って俺は集団に潜り込んだ。
こそこそと同士を募り、反乱軍を形成した。それも、他ならない妖魔族を主体として。これも全てはユーリーへの嫌がらせで在り、皮肉でもある。
でも一番の理由は『気付いてほしかった』
お前が一人で進んだ道の後ろで、泣いている子供たちの存在に。
「突っ走る弟子を止めるのは...師匠の役目だもんな」
呟いて、ヴァリミルが片手を口元へ運ぶ。
咥えていた煙草を人差し指と親指で摘まんで、静かに白煙を吐き出した。流れ行く白煙が空気の中で散り散りに消えて薄れていく様を眺めるように僅かに目を細めて、直後。
煙草の先端を地面へ擦りつける。
ジリッ!という音があった。
街中の戦闘の余波を受け、建物はあちこち崩れ始めている。ヴァリミルが建物や壁面に張り巡らせていた導火線も、結び付けた先端の崩落と共にいくつも地に落ちては散らばっていたのだ。
火の奔る導火線に結びつけられた無数の手榴弾。会話の途中で背中に隠した『土管』に片腕を通して、老兵は下準備を終えている。
ほぼ同時に力の抜けきっていた脚を真横に薙ぎ払い、横からユーリーの脚を打つ。反応も出来ず尻もちをつき声を漏らすユーリーの首を掴み、がばっ!!と一気に自らの傍へと引き寄せた。
「最初からっ...このつもりでッ!!」
「地獄があるならまた会える。仲良くやろうぜ馬鹿野郎」




