我、ここに在り
毎晩同じ夢を見る。
分かれ道に立たされる。
右に軍服の男が。左はやせ細った女が。
ふと見上げた空は汚く濁る。見下ろす大地は人骨で埋まる。
天はどちらか一方を選べと言うが、我は毎回振り返り、元来た道を引き返す。何処から来たかもわからずに、片足を失った男を置き去りに、這いつくばる女に見向きもせず、手の中で秘めた一枚の金貨を握りしめ、我は必ず引き返す。
人骨の道を歩み、何処からか木霊する悲鳴を無視して。
鼻につく硝煙の香りと夥しい血しぶきをやり過ごし、やがて辿り着いたのはボロボロの廃屋。
握っただけで崩れそうなドアノブを引いて中に入ると、低いテーブルに藁を括りつけただけのベッドの上で、少年がみすぼらしくすすり泣いている。
『どうかしたのか』と我が訊く。
少年は答えず、やがて我の顔を指差した。
ゆっくりとこちらを見上げる顔には、顔が無い。あるにはあるのだろうが、覆いかぶせて隠している。不気味なくらい清々しい、真っ白な笑顔の面だった。
そして気が付くと、どういうわけか我もそれを被っていた。剥がせない。剥がれない。
手の中の金貨はいつしか泥となり、我は変わり果てた手の中のそれを投げ捨てると、廃屋から逃げ出そうとまた振り返る。
一歩踏み出した途端に、全てが泥に還る。
道も、空も、聲も、少年も、そして我も。
全部混ざって、そして、次の瞬間目が覚める。汗だくで、たまにどちらが現実か忘れるほどに疲弊して、いつの日からか睡眠そのものが怖くなった。おかげで表情もすっかり凝り固まってしまった。道端ですれ違った幼子に避けられる程に。
もう何十年も毎日繰り返しているのだ。同じ夢を。同じ景色を。同じ選択を。
これが何かは察しが付く。これは恐らく『記憶』であり、『トラウマ』と呼ぶべき我の心の奥底に巣食う悍ましき異物なのだろう。床板にこぼしたじゃがいものスープのように、ふき取っても染み込んでしまって取り除けなかった残りカス。取り除くには、床板そのものを取り換えねばなるまい。
我は床板。
支えるのが仕事。
『奴隷が三人同じ日に、全く異なる世界を憶えてた』
男は呟き、手の中の端末を握りしめる。
『一人はドブに溺れる鼠を憶えた。一人は蛆たかる肉親の死体を憶えた。またある一人は傷付いた裸足を撫でるそよ風を憶えた』
ゴウンゴウンという機械の声は街のどこでも聞き取れる。
だが今この時、その声はこの場以外から消え失せる。この冷たくて暗い空間が、世界で一番無機質だった。
『誰かが「不幸」で誰かが「不条理」。またある誰かは「希望」を感じた。三人の奴隷の誰が、「どれ」を憶えたのだろう。我には判らない』
最後の声を聞く。
『為すべきことを為せ。希望を得るのは我々だ』
微かな電子音が片手に埋もれていた。目に染みる赤い炎の光も薄れて、まるで何らかの製造工場の中にでもいるかのような機械音を聞いた。
直後だった。
ゴォッッ!!と。
何かが凶悪な風圧を纏い、男の眼前で地に伏せる。
ショベルカーとトラクターを足したような、四本腕のメタリックブラックを携えた巨人だった。既に片側の腕は半ばのところから切断されており、あちこちでぷすぷすと煙を上げているのが見て取れる。
不透明な氷の刃があちこちに突き刺さっている巨人の死体を踏み越えて黄金に輝くショートヘアの少女が。口から白い息を吐く少女が巨体の影から姿を見せる。
あれほど無数に用意していたドローンもいつの間にかひとつ残らず叩き潰され、格納庫の滑走路はスクラップ置き場と化していた。
墜落時の炎も、勢いを潜めつつある。
どちらに流れがあるかは言うまでも無く、しかしそれでも容易に逆転し得る神人を侮るような者などいるはずも無い。
「巨大ロボットの次は怪獣でも出すんすか?やめたほうがいいっすよ、あたし特撮モノには興味ないんで」
「ちゃんと警戒してください。引き出しがなくなったなら今度こそ本人ですよ」
感情が見える。強い、強い警戒。もうちっとも油断してやらないぞというはっきりした意思を感じるのは当然と言えば当然だ。
感情の根源の少女はあちこち氷柱に貫かれた巨人の死体から降りると同時、着地の瞬間足元の機械残骸を蹴り飛ばす。
板状のそれは縦回転を加えながら目標へ向かって真っすぐ飛来すると、スーツの上から男の肩に浅く赤黒い線を刻み付けた。布の上から血が薄っすらと滲むものの、表情は崩れない。
ラミルは反撃を警戒したのか咄嗟に身構えるが、対してキマイラは余裕だった。むしろ、自分たちの有利を確信しているかのように、にっと僅かに頬を吊り上げる。
携帯電話に似たスタンガンの、バチバチと電流を迸らせる先端を向けて、だ。
「やっぱりあんた、戦えないんすね」
きっぱりと言い放つ。
隣でそれを聞いたラミルは、最初、キマイラの願望がこじつけた勝手な決めつけだと思った。
しかし、額に夥しく汗の玉を浮かべながらも、決して眼前の敵から視線を動かさないキマイラの姿を見て、冷静になる。
自分たちの周囲の景色に視線を向けて、そして彼女も気が付いた。
前提、まず神人とは人でありながら己の一部と引き換えにある一つの道を極め尽くした果てに存在する生物である。人類である限り理論上は誰にでもそれに昇華する可能性は秘められていて、現状確認されている神人の数はたったの18人。その全員が全員全く異なる『道』を極め尽くした各ジャンルのエキスパートであり、『大罪の魔王』程ではないにせよ、とんでもない力を秘めている。
違和感の正体を見つける。
そう......奴は、神人ゲラルマギナは『賭博』を極めた神人だ。彼女自身は目撃したことは無いにせよ、サイコロと十二支?とやらを連動させた運任せの術式は強力無比、らしい。
じゃあ何故使わない。
機械なんかに任せるよりもよっぽど効率的な手段を。手元しても資金としても浪費でしかない機械に戦闘の一切を任せる理由は?自分で戦った方が何倍も楽なのに。
(誰も殺したくないから?いや、違います。キマイラさんの話ではサイコロの術式はある程度の調整が効くようですし、何より倒されたアルラさんは五体満足で生かされてる。つまり私たちに術式を行使しても、殺さず生かしたまま無力化する事自体は可能!)
「正確には、『今は』戦えない。十二支賽でしたっけ?何らかの理由があってその術式が使えない」
つまり。
つまり、だ。
戦えない。
戦わない、のではなく、戦えない。
何らかの理由があるには違いない。じゃなきゃ二人はとっくの昔に、恐らくは墜落してまもなくに攻撃を受けて倒されていた。そうしなかったのは、そうできなかったからだ。
行動と経緯、そしてゲラルマギナの態度の全てが合致していた。
キマイラの発現の全てを理解すると、ラミルも今まで警戒のあまり一歩遠かった足を前に踏み出した。
「無い返答は肯定と捉えますよ」
男は変わらず答えなかった。キマイラも、それ以上は聞こうとしなかった。たとえ返答があってそれがどんなものだろうと、そこに価値はないと判断した。
墜落時の炎もほとんどが消え失せて、周囲に闇夜の静けさが戻りつつある。炎が薄れたからか、本来あった夜の姿からか、もしくは白銀髪をたなびかせる少女の影響なのか、格納庫の敷地を取り囲む空気の流れはとても冷たく感じられる。
ガガガガガガッ!!?という不協和音があった。
二人の真横。まるで砂山を崩す時みたいに元の輪郭が崩れつつある、巨人の死骸。機械仕掛けの巨体のあちこちから青白い火花を散らし、主人のために与えられた任務を遂行しようとしているのだ。
外敵の排除。
護衛。
生物には無い、無機物の心無き機械だからこその執念。痛みを感じず、全身を構成するパーツの欠損も気に留めず、ただプログラムされた命令を実行する以外の全ての機能を捨て去った、究極の忠誠心。
メタリックブラックの巨人が、上体を起き上がらせる。残された剛腕を振るい、侵入者二人を圧し潰そうとする。仮に握った物体が貨物輸送用の大型コンテナであったとしても、容易く金属を歪ませて折りたたむほどの膂力を備えたそれは、容赦なく振るわれた。
が。
「それを動かすことが今あなたに出来る唯一の抵抗なのなら、勝ったのは私たちです」
もう1秒動いていたならラミルを叩き潰せていたという位置で、だ。
巨体の動きが、止まる。ゲームが途中でエラーを吐いて、画面がぴったり動かなくなった時のように。体表を這いまわるスパーク以外のあらゆる動作は停止していた。
『世界編集』がそれを止めたわけではない。世界編集は有効射程半径3メートルの制限があり、物体に影響を及ぼすには物体全てをその範囲内に入れる必要がある。腕だけ範囲内にあって体が範囲外に留まっているメタリックブラックは、そもそも止めようと思っても止められない。
では何が起こったのか?
簡単な話。結末はメタリックブラックが再始動する前から決まっていた、というだけに過ぎない。
ラミルとキマイラは、このメタリックブラックによく似た兵器が簡単に機能停止しないことを、上空一万メートルで目撃していたのだから。
「『世界編集』、突き刺したのは凍らせたオイル。飛んでる機械が壊れた時にこぼしたオイルです。内部深くまで食い込んだ氷柱は機械自体が発する熱で溶け出し、そして―――...」
機械は、特に一般家庭にありふれてるコンピューターを見ればわかる通り、基本的に熱を放つ。それは電気エネルギーを運動エネルギーに変換する過程で生まれる余剰エネルギーの変換による場合もあれば、電気をディスプレイの光エネルギーに変換する過程で発生する場合もある。
熱はある。凍らせたオイルをじわじわ溶かすだけの熱は。燃料の融点を超える程度の熱量があり、そしてメタリックブラックは外部だけでなく内部まで破損が行き渡っているのだ。
破断した電線から発生した、極々微小なスパーク。
機械骨格の背骨部分にに埋め込まれたマルチボールベアリング連結式重心調整機構の命令伝達用ケーブルから始まって、メタリックブラックの全身に駆け巡った。
全身至る所から活火山の噴火のように吹き上がったのは、禍々しいほどの赤だった。
グオンッッッッ!!?と。
「こうなる」
爆風が粉々に四散した機械部品を撒き散らしていた。ラミルとキマイラに向かっていくパーツだけが、空中でぴたりと速度を失った。空間中に『貼り付け』られ、あとは重力に従ってぱたぱたと落ちていく。
次の一手は、とても迅速に行われた。
メタリックブラック撃破の時点で既に用意されていた術式。指のスナップと同時に、空気中を伝わる細い電流の糸が無数に広がり、それらや迅速に、格納庫のあちこちに待機していた飛行機
に伝播する。
基盤の一部が欠けるだけでも、機械にとっては致命的だ。ましてやそれが全体を支配する指令系なら、人間に例えると動脈をぷっつり切断されるに等しい行為。時刻が来れば自動的に飛び立つように設定されていたAIは、そのどれもがエラーの中に沈んでいく。
無力化と同時に、代償もある。ただでさえキャパオーバーの体で、更に三つ以上の術式組み合わせて使った。やってること自体は折れた腕で瓦を割ろうとしたも同じだった。
吐き捨てた唾液は、真っ赤に塗れていた。
「ふんッッ!!」
「...っ!」
みぎぎぎぎっ!?と言う不快な音を間近に聞く。たっぷりと助走をつけた上で繰り出されたキマイラ渾身の飛び蹴りが、男の鳩尾に食い込んだのだ。足先が確かに肉の奥深くまで到達したのを確認し、まばたきの次には男の体はサッカーボールのようにごろごろとアスファルト上を転がって行った。
男の内ポケットからこぼれ落ちた何かが、キマイラの足元へ転がった。何の変哲もない二種一対のサイコロだった。
やがて転がった先で仰向けに倒れた奴の方へ向き返ると、一瞬だけ足元のそれを拾おうとして、だが思い直したキマイラは力いっぱいに踵をサイコロに押し付ける。
べきっ!?という軽快な音が鳴って、サイコロは粉々になった。
起き上がる気配を見せないゲラルマギナに警戒を向けていると、ラミルがキマイラの元へ走り寄ってきた。彼女も、決して警戒を解く気は無いようだった。相手は『神人』、何を隠し持っているのかわかったもんじゃない。
雪山を登るなら耐寒着を用意するように。ジャングルを進むなら虫除けを手放さないように。無法地帯へ出向くなら銃を握りしめるように。『神人』と対峙するなら『こう』といった明確な対策は無いが、他で補おうとするのは間違いではない。
彼女等にとって、それは術式。あるいは異能。
スタンガンの画面上に写された、次の術式の構成式。大気に縫い付けられつつ、鋭い尖端をむける氷。
ぱき、ぱきという、薄氷が割れるかのような音が鳴っていた。
「潮時か......」
短く言葉を付けて、男は仰向けに転がったまま微笑を浮かべた。
ようやく言葉を発した神人を前に、二人の警戒度のレベルがぐんと跳ね上がる。特にキマイラの方は既に術式の過剰利用でぼろぼろの体を顧みず、既に頭にスタンガンを押し付けようとしていた。
にも拘わらず。
奴の方はというと余裕気に状態を起こし、いつの間にかその手の中にはトウオウならどこにでも売られている携帯端末が握られている。
メタリックブラックにはあれで指示を出していたのかもしれない。となると奴は、また別の兵器を何処からか呼び出そうとしているのか。キマイラがそこまで考えた、まさしくその時だった。
ぱき、という音が鳴っていた。
ラミルが侍らせている氷の音かと気に留めなかったが、それにしてはやけに遠く小さな音だと今更気が付いた。
男の顔には、小さくひびが入っていた。
「現れたのが一人だけならもう少し頑張れた。そっちの彼女のデータは不足していた」
ひび割れが加速して、やがて顔だけじゃなくなって、スーツの下からも同様の音が漏れ出した。あまりの想定外に、ラミルとキマイラの二人も黙ってその光景を傍観していた。
剥がれ落ちる。
奴の顔の一部が。皮が魚のウロコみたいに、ひびわれたところからぺりぺりと落下する。
骨格までもが変貌しつつあった。ぶかぶかになりつつあるスーツが、元あったそれと偽ろうとしていたそれの差を物語る。
「【憎悪】の彼を無力化した時点で、今この場のこの状況、そしてこの結末は決定していた...のです。君たちがこの一件にここまで関わることが出来たのも、最初からこうなることが決まっていたからに過ぎない」
変化とは言い難い。さながら、脱皮。不必要な皮を脱ぎ捨てて、本来の姿をさらけ出す行為。薄っぺらく剥がれ落ちる皮膚の下から現れたのは、筋肉質かつ勇壮とした雰囲気を醸す神人ゲラルマギナとは真逆の、どこにでもいるような中肉中背。
「誰、ですか?神人じゃない!?」
「ええ。神人じゃ、ない。鉄板に肩を切り裂かれるほど脆く、飛び蹴りで肋骨を何本もへし折られるほど貧弱な、ただの人間です。そちらの金髪のお嬢さんには、一度煮え湯を飲まされている」
「.........あんた、は......っ!?」
二人を嘲笑うように見つめるその男...神人ゲラルマギナの秘書、カララ・オフィウクスは見せびらかすように、携帯端末の画面をこちらへ示していた。
表示されているのは何らかの操作パネル。遠目でわかりずらいが、ずらりと四角形の中に数字が刻まれたボタンのようなものが縦横にびっしりと表示されているようだった。
瞬間、キマイラはわずか数時間前の記憶から、奴の『術式』とこの『場所』の意味を思い出す。
この場所は格納庫だ。
一般人から企業まで。定められた金額を運営会社に支払うことで、所持しているものの置き場に困るという飛行機やヘリを長期間に渡って保管しておけるという施設。高層マンションで見かけるタイプの駐車場の、空専門バージョンと言っていい。オプションで技術者による定期整備も行ってもらえるサービスの良さが売りで、普段は当然盗難防止のため、使われない格納庫のシャッターは閉ざされている。
奴が、携帯端末上に表示されたボタンの一つを指でタップすると同時に。
「九怨」
呪術『コトリバコ』。
音という概念は消し飛んだ。星明りが編み出した僅かな影すら奪い取るほどの白光が、何もかもを呑み込もうとしている。
格納庫全体が、無限の起爆に呑み込まれた。




