夜霧の引力
「うん、うん、ううーん?この資料ほんとーに合ってる?ちゃんと照合したの?ねえー、棟敷ぃー」
「知らん。自分で調べろ。こっちも暇じゃない」
一番近くで本棚を漁っていた男性に冷たくあしらわれ、少女は唇を尖らした。何もそこまで言い放つことはないじゃないか...とぶーたれるが、あいつは見向きもしない。多分感情がいくつか腐ってるんだと思う。そんな風に考えながら、面倒な書類の照らし合わせの作業に戻った黒髪の少女。
仲津木穏歩。
この世界とは異なる世界に生まれながらも、運命のいたずらによりその世界を離れた異邦人。つまり、転移の際に様々な贈り物を受け取った『異界の勇者』の一人であった。
贈り物は人それぞれだが、彼女の場合は異能。『0/0拍子』と呼ぶ異能の力は、彼女が体を動かせば動かすほどに身体を倍々に加速させる。足し算ではなく乗算だ。故に、最高速まで達するともはや人の目では捉えきれなくなる。
そんな、一言ではっきり言ってしまえば『人外』な少女は、やたらと装飾の主張が激しい個室のベッド上で一冊の書類を手に取っていた。ちなみに彼女を冷たくあしらったのは棟敷関将。彼もまた、『異界の勇者』の一人であり、現在部屋の床にべたりと尻を付けてどこぞの求人雑誌か電話帳並に分厚い書類と格闘している。
とある王国の王都の端。しかし広大な庭とブラウン管テレビみたいな形を備えた独自の施設の中だった。ここは彼らが住む家でもあり、また任務を受け取る職場でもある。
彼らは誰が決めるわけでもなく『学校』と呼ばれていた施設。『異界の勇者』個人個人に与えられた個室の一つに、五人程の『異界の勇者』が集まっていた。
一人一人が極大の戦力を抱える生物兵器がぞろぞろ集まって、何をやっているのかというと、だ。
「面倒くさいねえ、人一人分の行動ログの精査って」
「前例が無いからだ。あったらあったで問題だが」
淡々とこなしているように見えて実のところそうでもないようで、棟敷は分厚すぎるファイルが嫌になったのかこめかみを抑えてそんな風に言う。
訳あって、誰もが上の空である。どんな感情を向ければいいのか分からない、その感情が怒りなのか或いは悲しみなのか、それすらわかっていないといったムラだらけの思考。当然彼が...彼らが理由はある。
互いに信頼し合っていたはずの仲間の一人が、あろうことか行方を眩ませたのだ。
書類走査の仕事を請け負った『異界の勇者』の一人...詩季春夏が呟いた。
「他の人ならともかく。まさか椎滝くんが、ね...」
『裏切り』が確定してから、もう直一カ月になる。
とある青年は休暇に出かけると言い残したっきり、帰ってこなかった。そして誰も、その眼つきの悪い青年の行方は知らない。何処へ向かったのか。何を目指しているのか、全て。
それを解き明かすための精査作業でもある。現在時点で約10年、彼ら『異界の勇者』がこの世界に飛ばされてから10年分の記録を確かめ、それらしきログを探しているのだ。インターネットの検索履歴から、その人がどのような趣味嗜好を持つのかを洗い出すようなものだった。本流を見つけられなかったとしても、枝分かれで生じた思考の『癖』みたいなものが見つかる可能性は高い。
「何を企んでるんだろーねえー。だってあの椎滝だよ?勇者序列第29位、つまり最下位。ずっとわたしたちと一緒に行動していたから戦力もわかってるだろーにさー」
「穏歩、何が言いたいの?」
「本当に彼なのかってハ・ナ・シ」
その質問に、誰も答えようとはしない。
否、答えようがない。
疑っているのは、何も彼女一人じゃない。
「......正直のところ、まだわたしは信じたわけじゃない。『異界の勇者』ってレッテルに惑わされた悪い奴らの計画に巻き込まれたって可能性の方がよっぽど信じられる」
個人毎に順位付けされた『異界の勇者』の中、最弱も最弱。流石に一般人よりはまだ強いだろうが、それにしても『異界の勇者』と呼ぶには余りにも戦力が低すぎる青年。
しかし彼は、周りを支え続けた。
傷付いた仲間を拠点まで連れ帰って治療したり、おぼつかない槍術で撤退までの時間を稼いだり、とにかくそういう『誰かのための行動』を率先して行う奴だった。だから隠れた人徳を持っていて、彼を嫌う人は殆どいなかった。
だから仲間の彼らは誰も信じられなかったのだ。椎滝大和がヘブンライト王国を抜け出して、国外逃亡したという話を。
そしてただそれだけなら、ここにいる5人を除いた全ての異界の勇者を捜索に駆り出すほど必死になって探していない。
つまり。
「......国宝泥棒。私達がどれだけ彼を信じてようと、他に容疑者がいないんじゃ、彼を調べるしかないのも事実だよ」
「何より。椎滝が消えた日と国宝が消えた日は同時期だ。ほぼほぼ確定している」
「決めつけは良くないぞ」
「今ある情報を。照らし合わせた結果だ」
また、誰も何も言わない。
彼の罪を証明できないということはつまり、彼の無実を証明できないということでもある。ゲーム感覚のお気楽な善悪二元論で片づけられる話じゃない。
これは、深海よりも更に深いところに位置する問題だ。救っても救っても底が見えない汚泥の中に飛び込むような。
忌々し気の中に、若干の憐れみを含んだ声だった。
「マーリン・レンズ。かつて国の高名な魔法使いが使ったとされる水晶玉」
ヘブンライト王国が保有する無数の国宝。
その内の一つ。
「限定的ながらも確かな未来を映し出すとされる『神器』って話だよねー、それって」
「......盗み出したのが椎滝くんだと仮定して、そんなものを何に使うっていうの...?」
かつてはどこにでもいるただの高校生だった『異界の勇者』たちは少しだけ考えて。
分かってはいても敢えて触れなかったブラックボックスに、ようやく手を触れた。
「神器を使う相手によっては。椎滝には動機がある」
人を衝動的に動かす感情はいくつか存在するが、中でもじわじわと内側を攻め続けて爆発する遅効性が数種類ある。例えばそれは他者に対する優劣へ向けられる『嫉妬』であったり、後はそう......『憎悪』なんかが当てはまるだろう。神経毒みたいに体を回り続け、倫理観を徐々に麻痺させて、正常な思考を奪うという特異性。
椎滝大和が内包する可能性は十分にあったのだ。
かつて、彼は戦争で恋人を失った。
その傷もすっかり癒えたように振舞っていたかもしれないが、実のところはやせ我慢であり、癒えるどころか日に日に傷口は拡大し続けていたのを知っている。
どこかでそれが爆発したのだとしたら。必死に押しとどめていた負の感情が、何かしらのきっかけで器の外まであふれてしまったのだとしたら。
彼のそれは動機になりえる。
大切な存在を失って狂ってしまう人間の例なんて、この世界ではごく普通だ。ありふれている。
この場の『異界の勇者』の一人......詩季春夏の双子の弟の詩季秋冬は、小さく舌打ちした。
「くそっ...。この国の『国宝』はどれも対魔王への切り札だってのに...!」
「そもそも誰に使うつもりなのかなー。用途が復讐だとしたらやっぱし『傲慢の魔王』?それとも無理に戦争を強行したわたしたち?」
「どっちにしたって脅威さ。椎滝は『異能』こそ大したことはないけど、先代はヤバかった。それと同質の力を秘めてるってだけでも警戒すべき」
「......決まったわけじゃない」
俯き、力ない声で。
すっかり彼が悪者ムードの中で、しかしそれを許したくないと願う者もいる。
「彼が敵だって...泥棒だって決まったわけじゃないよ」
彼女は決めつけたくなかった。
数年前、戦うことが嫌になって。ただの学生に戻りたいって思いながら泣いていた自分を慰めてくれた彼が。あの時まさに、おぞましい黒の感情のさなかにあったなんて、思いたくなかった。
「それはそうだけど―――...」
その時だ。
ばさばさばさっ!!という鳥の羽音が窓際に表れた。正体は異常に見えるほどの純白の鳩で、足に通信筒が取り付けられていたので国側の伝書鳩だろう。魔工学なんてものを推進させてる国のはずが、こういうところだけ変にアナログだ。
一番窓に近かった詩季春夏が筒の中から巻物みたいに撒かれた小さな紙切れを取り出し、無造作に開く。今後自分たちはどう動くべきかと計算しながら。
しかしそれも、次の瞬間にあっけなく崩れた。
報せの内容はこうだった。
『東の島国トウオウへ向かう飛行船にて大規模テロが発生。また、『異界の勇者』と思われる人物の関連を確認。至急調査されたし』
絶句するっきゃない。
こっちが必死に電話帳みたいに分厚い書類の束をかき分けて探していた情報を、現場班の連中ときたら惨めになるくらいあっさりと見つけてきやがった。まあ、情報収集のエキスパートである跳飛止...無機物の声を聴く山尾雲母といったその手のプロが動いていたのだ。もしかしたらこうなるのでは?と思っていた部分はあった。嫌な予感が的中してしまった。
「......あっけなく見つかったね。どうする?」
「どうするってったって、行くっきゃないでしょ。見つかったからには」
「なんだっけトウオウって。確かいろんなジャンルの技術を世界中から収集して発展させまくってるって国でしょ?なんでもホログラム投影で操作できるスマホやボタン一つで目的地まで運んでくれる車が実際に民間で運用されてるっていう」
「なんだそりゃ!?いいなあ憧れるなあ異世界の未来技術!持って帰れるといいなあ...」
「こら秋冬。遠足じゃないんだから」
ばささっ!と伝書鳩が飛び立った。
窓から闇夜の冷気が手を伸ばしてきた。『異界の勇者』の表情は、まさに闇夜が似合おう程に『陽』から遠ざかっている。
「確かめるんだ」
かつてその眼つきの悪い青年によって救われた少女は俯くのをやめた。
棟敷関将は冷静に。今あるピースだけで考えられる真実を考察し続けていた。
偶然にも棟敷関将がその時考えていたことは、全く同じタイミングで、しかし全く離れたところのとある灰色の青年が相手にしようとしている『何か』にも当てはまることだった。
曰く。
(怪物的な力を持つ敵が、魔王だけとは限らない、か)




