苦痛の味
かつんかつんという足音がまばらに散っている。
区画で言えば、ここは先ほどまで彼女が戦っていた北区...乗客が長旅の暇をつぶすために解放されるレジャー施設が立ち並ぶ区域だ。上中下とある階層で言えば最下層の下層に当たる。広大な運動場は中層に該当するので、彼女は一階層下へ降りてきたということになる。
「う...ぐぁっ!?」
寿ヶ原小隈は喉の奥から込み上げる灼熱とも錯覚するほどの熱量に思わず口を片手で押さえるが、次の瞬間にはこらえ切れず血の塊を吐き出してしまう。
びちゃびちゃびちゃ!!と、薄っすら彼女の顔が反射するほど磨かれた真っ白な床がみるみる染まっていく。
薬の影響で血の色は不完全に抜け落ちていた。おぞましいほど透き通った血液に濡れる直前の床に反射した表情は、自分でも見たことないくらい情けないものだった。ここまで大きな肉体的ダメージを負ったのは初めてだ。が、あの日の精神的ダメージに比べればまだこんなものはマシにも思えてくる。
震える膝と手放しかけた意識を、まるでイラつきを自分に当てるかのように親指へとかみついて覚醒させる。
『毒炉の実』に汚染された足だけならよかったものの、目の前の景色すら薄っすらぼやけてきた。直後の戦闘でダメージを負いすぎたのだと、こと戦闘に関しては大和だけでなくアルラよりも先輩の寿ヶ原は直感で理解する。
毒が全身に回る前に、決着を突かねばなるまい。
浸食の速度はそこまで速くないが、放置してしまうといずれ全身に回ってしまうのはわかりきっている事実。解毒するにしてもこれは『毒炉の実』の異能で生み出された汚染物質だ、一般に出回っているような解毒薬で簡単に解毒できるはずはない。唯一思いついたのは毒の抗体を体内に取り込む方法だが、毒の大本の赤ん坊をもう一度手に入れて大量の汚染物質の『原液』を入手しなければそもそも抗体も作れないだろう。どっちにしろ、あの赤ん坊はもう一度奪い返す必要がある。
しかし、その前にだ。
(何故だ...ッ!?)
寿ヶ原はどうしてもわからないことに狼狽し、大きく舌打ちした。
頭を使えば使う程、怒れば怒るほど血が脳まで昇って痛みが強くなるが、そこまで考えは回らないらしい。
(何故起爆が止まった!?イカロスは確かに作動したはずだ。前半の爆破でメインの動力源は確かに爆ぜた、なのにどうして後半が起爆しない!?)
彼女が異世界人の仲間の知識と自らの錬金術で開発したイカロスという名の爆発物は、飛行船の外周下部に取り付けられた無数の観測装置によって、一度記録した気圧より現在の気圧が上昇した場合に作動する。飛び上がったが最後、爆破から逃れるためには常に飛行船は上へ上へと上昇する必要がある。
そして、気圧は地上からの距離が離れていれば離れているほど低下する。飛行船タイタンホエール号は常に一定の高度を保つことなく、出発地点から目的地までを逆U字の軌道で進んでいく。つまり、飛行している間は常に気圧に変化が生じているはずだ。イカロスはそれを観測することで、数十センチ四方程度に収まるサイズからは予想がつかないほどの巨大な爆発を引き起こす。
(イカロスの破壊力はダイナマイトやそこらの火薬なんかとは比べ物にはならない。いかにトウオウの重装甲に守られているとはいえ、爆発が二度以上は起こったのは確かだ。メインの動力は確実に落ちている。なのに、どうしてそこから急に爆破が止まった...?)
設置されていたイカロスそのものが取り外されたとは考えにくい。敵も爆弾の形状まではわからないだろうし、例え発見されていたとしてもどんな条件で起爆するかを知っているのは自分とあの場にいた椎滝たちだけだ。起爆の条件が分からない以上、不用意に接触するとは思えない。
最初の数発は確かに起爆していた。
その数発が動力源と予備動力を破壊することで、機体を上昇させようにもできない状況を作り出した。あとは高度の低下とともに、指定の区域に設置されたイカロスが爆ぜる...予定だった。
それが起きないということは、
(高度が...落ちてない...?)
高度が下がらない。
当然、気圧も上昇しない。気圧の変化は観測装置に記録されず、起爆もしない。
現状で、最も考えられるのはこれしかない。
だがどうやって?
ガソリン無しでは車は動かない。エネルギー無くして物体は仕事を行うことなどできないというのは全世界共通のルール。しかも、これほどまでに巨大な飛行物体だ。必要なエネルギーは車や飛行機のそれとはわけが違う。メインもサブも動力源を潰されているのに、どうやって高度を維持するだけの動力を維持させるというのだ。
そこまで思考を巡らせて、寿ヶ原は考えるのをやめた。
自分の常識が通用しないことなど、両手の指だけで数え切れないほど体験した。きっと今回もその一つに数えられる。
「...とにかく、一度奴と合流する必要があるな」
ありえない。は、通用しないのだ。
彼女が身をひそめた業界では、そんな風に状況を過信した者から先に消えていく。ここは異世界。地球の概念に縛られていては、まともに身動きすら取れなくなってしまう。慎重に現状を見極め、あらゆるリスクを片っ端から排除したとしても、気付けば背中に危険が張り付いているような理不尽が蔓延している。
油断はイコールで死だ。
そして、ありとあらゆる危険分子にも蓋をすべきである。
手元に残っているモノを一から確認しなおして、寿ヶ原は額にしわを寄せた。
アンチワールドモールド...食人カビのカプセルはとっくに使い果たしてしまった。培養しようにも一旦コンテナへ戻ってサンプルを取ろうにも手間と時間が掛かってしまう。その他にも少なくない機材を体中に仕込んではいるが、どれもあの新しいイレギュラーに通用するかというと...
(新しく練成するには陣と材料が必要だ...陣はともかく、材料を一から集めなおす時間は今の私にはない)
錬金術には頼りにくい。
錬金術は化学と魔法のハイブリッドとも呼べる技術。魔法と同様に陣や文章式を必要とし、物体に素粒子レベルのミクロな視点から変化を与えて物体そのものを変質させる術だ。陣が大きければ大きいほど出力は増すし、材料が多ければ多いほど完成品の質も向上する。しかし、いくら何でも質量保存の法則までは破れない。
一に一を足して二にすることは出来ても、ゼロから一は作れないように。
あらかじめコピー用紙に写して大量に持ち歩いている錬成陣を床に広げたところで、材料が無くてはどうにもならない。
寿ヶ原小隈は羽織っていた白衣の膝から下の部分をびりびりと手で引き裂き、包帯代わりに体中に巻き付けていく。何もしないよりはマシだろう。少しでも出血を抑えられれば、意識を保ってられる時間も伸びる。
白衣の少女がよろよろと不安が残る足取りで前へ進んだその時だった。
小さくだが、キュイィィィィイイン...というモーター音を聞く。
寿ヶ原小隈がゆっくり振り返るとそこには、巨大なアームを腰に当てもう片方のアームを壁に押し当てるようにしてメタリックシルバーの巨人が佇んでいる。
やけに人間臭いモーションに鼻から軽くため息を吐いて寿ヶ原が小さく尋ねる。
「......機体は完全にロストしたんじゃなかったの」
『初期タイプはな。仮組のこいつも異能で分離されこそしたが、破壊されたわけじゃあない。口頭命令で形状こそ変わったものの、機能は基本的に同じだ』
「国の犬は」
『対機煙幕弾で視界情報だけ奪って逃げてきた。10発以上撃ったし、最低でも奴らのスーツのメンテナンスには一時間かかる』
対機煙幕弾というのは通常のスモークグレネードとは違い、モニターを通じて視覚情報を得ているスーツ型の兵装や搭乗するタイプの兵器の視界を奪うための兵器のことだ。噴出される微細な機械を含んだ煙幕は付近の機械の内部にまで侵入し、配線やパーツに誤作動を誘発させるという効果を発揮する。
『......何が起こってるんだ?』
「知らない。むしろそっちの情報を期待してお前を探してたんだがな」
『こっちもそんなこと知るかよ。なぜイカロスが途中で止まる?てめえの発明品だろうが!!」
「知るかっつってんの!!こっちだってイレギュラーに手ェ焼いてんだよ!!」
『チッ』
相変わらず表情は見えないが、隻腕の男の苛立ちだけは透けて見えるようだった。
互いにギリギリなのだ。しょうがないとはわかっていても、このイラつきを抑え込むには時間が掛かる。
『そういえば、結局ボルダの奴はどうなんだ。こっちへ来る途中にも何度も信号を送ってみたんだが』
「奴はもうやられてた。今も信号を発信してるなら止めといて。逆探知される可能性がある」
『...何があった?』
「イレギュラー」
簡潔すぎて、メタリックシルバーの中身には伝わっていないようだ。
イレギュラー。
言わずもがなあの灰色頭の男のことだ。
『空圧変換』の砲弾を蹴りで弾くわ、受けてもまるで痛みを感じていないかのようにぴんぴんしてるわで行動と精神が全く読めないあの男。
どうして自分の計画には、あんな予想もできないイレギュラーばかり集まってくるか。真剣に、お祓いを受けることを考えさせられる。
「私の異能を受けても爆ぜるどころかダメージもなく、圧縮空気を蹴り弾き、空気の鎧を蹴りで貫通させてくるような『怪物』が首突っ込んできた。ボルダをやったのはそいつだよ」
『...人間か?そいつ』
「見た限りはな」
見た目だけでは判断突かない、ということは、逆に内側に何を秘めているかはわからないということでもある。人を見た目で判断するなとはよく言うが、アレは見た目だけじゃなく中身もやばそうだ。
目を見ればわかる。
自分たちと同じ目だった。やると言ったら死んでもやる、何か、石炭みたいに真っ黒な何かに憑りつかれた人間の目。自分たちと同じだから、そのヤバさも、中途半端に手を出したときにどう噛みつかれるかもある程度は見当がついてしまう。
少し考えて、寿ヶ原は結論を出す。ぺしぺしと隣のメタリックシルバーを手のひらで叩いて、歩き始めてから改めて『命令』を下した。
「とにかく、移動するぞ」
『移動するって何処へ?決まった目的地なんて俺らにゃもうねえだろ』
「どこでもいい。とにかく今はこの場から離れるのが最優先だ。
いまだに引っかかっていることはある。
納得もいってない。納得してしまったら、この状況を甘んじて受け入れてしまったら、今まで積み重ねてきたどす黒い感情の山がジェンガみたいに一瞬で崩れてしまう気がして。
さっきの戦闘でどこかの壁の中の配線でも切れてしまったのか、照明がやけに大人しい。微妙な光が赤と半透明の二色に侵された少女の後ろで、メタリックシルバーの体に反射していた。
半透明な血液を垂らして、少女は考える。
あのイレギュラーは、一体どのタイミングからこのストーリーに関わっていた?
(イレギュラーの登場にイカロスの不発...いくら何でも不自然すぎる。ここまできれいに相手に都合がよいと)
言葉で表現できない、何かを見落としているような違和感が確かに胸のあたりでつっかえてる。
歯茎に挟まったホウレンソウのような、犬の糞でも踏んづけてしまったかのような気持ち悪い感覚。見落としていることには気づいていても、それが何かはわからない。自分が何に悩んでいるのかもわからないのだ。解決策が浮かぶはずがない。
初めから、並べなおしてみる。
まず最初の異変はイレギュラーだ。灰被りの男とでも呼ぶべきか、向こう側の助っ人が連れてきたらしい。椎滝に手を貸しているというより、自分たちに都合が悪いから私たちを叩きに来ているように見えた。
奴が体に纏っていた極彩色。
どこかで見覚えがある。箱庭と本格的に接触した、確かあのレストラン街で。
あの光は、確か......?
「......そうか」
はっと、思い出す。
いいや、箪笥の奥に眠っていた記憶を無理やり引っ張り出したとでもいうべきか。
見覚えのあった極彩色。
そして、『箱庭』の怪物が操る魔法の力。盗んだ情報をあれだけ頭の中に叩きこんでいたというのに、何故忘れていたのか不思議でならない。これも予想外のダメージと疲労の弊害なのだろうか。
だとしたら、奴らにはまんまとしてやられた。
『?』
「イカロスの不発...どこから供給されてるのかもわからないエネルギー!それしか考えられない...ッ、あの女ッ!!クソッ、やられた!!」
その言葉だけでは、隻腕の男は彼女が何を言っているのかわからなかったようだ。巨大な兵装の首の可動部と傾けて、疑問を表現している。
ここまで焦ってる自分たちのボスを見るのは初めてだった。
復讐の概念の憑りつかれた彼女とて人間だ。今までだって計画に支障をきたすようなミスは何度もやってる。しかしミスはすれども、彼女が狼狽え、困惑し、ここまで感情をむき出しにしたのは初めてだ。
感情は伝染する。
メタリックシルバーの中で何が何だかわからず、彼女に引っ張られるように叫びだす。
『頼むからわかるように説明しろ!!』
「奴だ、『箱庭』のサブリーダーの女。イレギュラーは今はいい、あいつが何よりもやばい問題因子だ!!」
『その女がどうしたって!?確か奴だけを狙って誘爆、処理するシステムを作動させたんだろ!?だったら...ッ」
「甘かった...もっと徹底的にやっておくべきだったんだ。忘れたのか!?奴の魔法は...ッ!!」
彼女が叫び終わる前に、だ。
ドグオォォォォォォォォォォォォオオオオン!!!と。寿ヶ原小隈の言葉は突如として押し寄せた轟音と粉塵にかき消され、飛び散った無数の瓦礫が横殴りに押し寄せたのだ。
チィッ!!と少女が舌打ちした。
自分達の体にぶつかりそうな瓦礫だけを圧縮空気の防壁で防ぎながら、しかし内心では冷静でいられない自分の存在を確かに感じ取った寿ヶ原は即座に『空圧変換』を構える
ズパァンッッ!!という破裂音と共に、粉塵が裂けた。
その向こうに現れた極彩色は誰かにとってのヒーローでも、白衣の少女を救うヒーローには成りえない。




