真紅の大海
見慣れぬ世界の中心で、一人の青年は息が吞む。ここはどこだろう、と。そう思い首を振ってみたが、いつもの二人はどこにも見当たらない。『箱庭』という彼を示すもう一つの枠組みがどこにも存在しないかのようだった。
足元を浸しているのは正体不明の真紅に染まる流動体で、不思議と冷たいとかあったかいとかいう感覚は感じられない。それどころか触れてる感覚すらどこにもない。まるで空気のように当たり前に溶け込んで、しかし確かに自分の足は地についているらしい。
そしてもう一つ、空もまた現世とは程遠いほどに歪んでいる。
地平線...いや、この場合だと水平線か。とにかく景色の端から端まで満遍なく覆いつくす赤い水面。それを、そっくりそのまま映してしまったかのような紅色の大空には、漂う一片の雲すらもなく、ただ延々と夕焼けを何倍にも濃くしたような色だけが広がっている。
赤より紅く、流れ出る血液よりも残酷な景色がどこまでも続いていた。
「.........ここ、は......?」
夢かとも思ったが、それにしてはどうにもおかしかった。不思議に思った大和が試しに自分の頬をつねってみると、普通に触覚もあるしつねられたという明確な痛みすら感じられる。そもそも夢では痛みは感じないなんて話も眉唾モノで信じられるものではないのだ。が、話の通りではこの空間はどうも夢とは違うということになってしまう。
こういう時に必要なことといえば記憶の復唱だ。
記憶喪失の患者が過去の自分が触れてきた人物や家に接することで記憶を取り戻すことがある様に。取り戻したいものと深く関連付けられた何か。それを一から整理して、並べて、時には裏返す。すると立てつけの悪い記憶の引き出しはどういうわけかその固い口を開いて求めていたものを吐き出してくれる...こともある。実際にはどうなのだろう、経験もなければ身近な事例もないわけだから、アレが医学的に本当に意味のあるものなのかはちょっと不安である。が、他にやることも無いのだから仕方あるまい。椎滝大和は目を瞑ると、自分でも不思議なくらい落ち着いた平凡頭脳を張り巡らせてみることに。
れっつしんきんぐ!
ここに行き着くまでの過程を取り戻せ。
まず最後に見た景色を思い浮かべようとしたその時だった。まるで何かの拍子に栓が抜けたかのように、身に起こった全ての現実がどばどばと溢れ出した。
浮かび上がる姿、光景、人物のどれもが明確に。写真を焼いたように鮮明な形となって次々と、記憶の中に舞い戻る。あまりにも情報量が多すぎるせいか、途中で眩暈すらあった。。そしてとうとう最後の一枚。そこへくっきりと写っていたのは、肉人形と化した少年が手を伸ばす姿と、中身が抜けてくたりと意識を失ったメタリックシルバー
そして倒れ伏せた...血塗れの...ぼろ雑巾みたいな.........。
「...死んだのか、俺」
終わってしまえば意外とあっけなかった。
その事実を理解して、動悸が外付けのチューブから大量の酸素を送り込まれたかのようにばくばくと鳴り続けている。額から垂れた冷たい汗がそのまま足元どころか世界を埋めつくす赤にぽつりと落下して、溶けてなくなってしまう。
どうしようもない。
どこまでも広がる血の空と海に膝から崩れ落ちる。既に尽きたはずの命なのに、荒く脈打つ鼓動のせいでもう一度死んでしまうのではないかと疑いそうになる。じわじわと心臓から染み出してくるどす黒い感情に体が内側から侵されていくようだ。
天国とも地獄とも呼べない...敢えて呼ぶなら死後の世界だ。無限の真紅が突き抜ける淀んだ大空を見上げて、椎滝大和は本来受け入れがたいはずの現実を吟味するように、複雑な表情を取って立ち尽くす。
「......こんなものか」
大和はそっと息を吐いて、それから視線を足元の液体に映りこむ自身の顔へと投げかける。ついさっきまでの動揺が嘘だったみたいにぴったりと収まっていた。悲しげな表情を浮かべているのかと思いきや、酷く無表情を保ち続ける己の顔にぺたぺたと手を当てる。
水面の大和も同様に頬をさする。紛れもなく、自分の顔だ。思い残すこともまだまだ多いだろうに、どうして涙の一滴も流れないのだろう。どうして、自らの死に対して悲しみを抱くことも出来ないのだろう。
もしかすると大和は、自分が思ってるよりも現世に残すような未練もなかったということなんだろうか。大丈夫だ、どうせ『箱庭』の二人は自分なんかよりもよっぽど優秀なのだ。そんな自分でも意味が分からないほど楽観的な意見が飛び出てくることが何よりも驚かされる。
死後の世界は苦痛に塗れている。とか、死んだ人間は生前の業の数だけ罰を受ける、とか言った様子も今のところは見当たらない。地獄の閻魔様どころか他の人間一人だって見つからない。
どれだけ残酷に突きつけられた現実だろうが、見方によっては良かったと言えることもある。
この世界が地獄だとしても天国だとしても、いずれにせよ自分以外の影はどこにも見当たらない...つまり、自分並みにボロボロだったホードの姿も、だ。個人の勝手な考え方ではあるが、つまりホードは自分と違いしっかりと生き延びたとも解釈できるはずだ。
一人だけ先送りを喰らった大和はとりあえず腕を組んで、
「......この後ってどうすればいいんだ??」
そう。
果てしなく続く赤の中、ひとりぼっちの青年はどうすればいいのかわからなかったのだ。何せ360度どれだけ見渡してもグロテスクな赤色が広がっているだけの広大な空間。自分以外の人間どころか椎滝大和以外にこれといった特筆すべき存在もない。
赤絵の具を溶かしたみたいな水はただそこにあるだけ手で掬い取ろうとしても触れない。大空に手を伸ばしたところで、その先まで手は届かない。
ヒトは夜空を彩る数多の恒星に、逆立ちしたって触れられない。
誰に言われるわけでもなくこの広大な世界を歩き始めた大和だったが、頭の中は既に遅すぎる走馬灯でいっぱいだ。今まで暮らしてきた中培った経験。記憶......思い出。そのどれもが黄金色に輝いてるようで、一コマ一コマがどの瞬間良い尊く映る大和の内容物。
足を動かし続けていただけなのに、何時の間にやら懐かしむ事の出来る記憶も底をつく。
疲労こそないものの、流石に嫌な考えが頭をよぎる。
まさか永遠にこの世界を彷徨い続ける羽目になるのだろうか?となると、この場所は思った以上に残酷な世界なのかもしれない。というか今まで生きてきた中でそんな悪いことした覚えとかないのでここが地獄だとしても叩き落とされる理由もわからないのだが。身に覚えのないところで罪が重なったりでもしていたのだろうか。それにしても、死後の世界だとしてももうちょっと何かあっていいだろう。
このまま永遠に歩き続ける刑とかだったら今すぐにでも発狂しかねない。しかも身に覚えのない罪なんてどう懺悔しろというのだ。
そんなことを考えながらふらふらと足を動かしているその時だった。
無垢なる青年の魂がふと表情を上げる。ただ単に大和が気付かなかっただけなのか、或いは唐突に現れたのか。
『やあ』
突っ立っていたのは、人体からありとあらゆる無駄を排除したような簡略化されたシルエットだった。
色は無い......真っ白な全体。顔は無い......もはや人と人とを区別する際に用いられる概念そのものが欠落している。天使か、それとも悪魔か。
男か女かすら区別できない不思議な声だった。大和はどう反応していいのかもわからず、真っ白なシルエットの何かは気にすることも無くすたすたと歩み寄ってきた。まるで登校中に友人を見つけて、朝一番に声をかけてやろうと歩幅をそろえる少年のようだ。
そうして、得体の知れない何かは青年まで残り一メートル程度の距離で立ち止まる。
直後に、まさしく友人に声をかけるような調子で話しかけてきた。
『調子はどうだ』
肉声...と呼んでもいいのか?
相手は相手で大和の反応を待たずしてなんか色々話しかけてきてるが、あまりにもおかしな体験を喰らったためか。大和の耳の中に入っていく言葉は全て逆の耳へと通り抜けて、内容を理解することなく意識だけが吸い込まれていく。頭がおかしくなりそうだった。相手も大和の放心に気付いたのか、しばらくこっちの様子をうかがっている。
声、ではなかった。
まるで、男も女も少年も老婆も獣も機械も。それら全員がいっぺんに、しかもほんのわずかなズレすらなく同じ言葉を囁くような禍々しい音。ニュースの中のプライバシー保護を目的とした合成音声に似ているようで、何一つ似ていない。奴が言葉は使うというだけで脳がパンクしかけてるのだ。
『マトモな人間の知能では我を正しく認識などできんぞ』
『お前はまだマトモでいられているのだ』と、他でもない違和感の中心が教えてくれた。
しかし鼻で笑うようなその言葉もまた、大和の頭脳にとてつもない違和感と混濁を与えていることには気付いていないようだ。赤と白となんだかおめでたい配色になってしまった彼らの場所で。簡略化されたシルエットの持ち主の言葉だけが、広い空間の隅々にまで響いていた。
「あん、たは、いったい...?」
『どうでもいいだろうそんなことは』
天使にしては傲慢で、悪魔にしては怠惰。人間が勝手な理想をバームクーヘンみたいに重ね掛けて作った理想の神様像なんてお笑いだ。しかし目の前の何かのように、突っぱねるだけ突っぱねて迷える子羊を焼いて喰らう象徴も論外だ。現在の大和の対応を受け持つ者であるならせめて最低限の質問には答えてほしい。
するりと向けられた指先に、自然と視線が動いた。
突きつけられた人差し指もまた、赤一色の世界を拒むような白で埋め尽くされていた。
『そろそろ思い出したか?』
言葉の意図を理解しようとした瞬間だった。
ドスッッ!!という生々しい音の後から、椎滝大和の胸に何かが割り込んできた。
白色矮星の如く輝く何かが突き刺した指は意思のまま自由に動いて、青年の体内を探るメスのように振る舞っていたのだ。
ぐちゃぐちゃ、にちゃねちゃと掻き分けて、真紅の世界に浮かぶ白色は、徐々にその全体の色素を上書きしつつある。突き刺した指先を通して、大和から何かを吸い上げている。
声も出ない。
苦痛は確かに自分の胸にある。鋭利な刃物で内臓に触られているような、どうしようもない緊張も。しかしどうしても叫べない。震える口がそれを許してくれない。ゴパンッッ!!という衝撃が、中心である大和から波紋となって水面を揺らす。そして、
大和の中で何かが弾けて広がった。
『また会おう』
引き抜かれた指先から光の粒子と化して消滅していくそれはそう言って、いつの間にか水面から飛び出す無数の球体の影に埋もれて消えていた。椎滝大和とその球体を残して、電気のスイッチを切ったかのように。
それは血に染まったしゃぼん玉のような赤と半透明構成された球体だった。
当然ながら大和も得体のしれないいかにもな物体になど触れたくもなかったので、この辺り一帯から逃げ出したいという思いに駆られて足を動かそうと試みる。が、未だに胸を奔る謎の激痛と全身の震えが収まらない。ふらりと意識が眩暈に揺るがされて尻もちをついてしまった拍子に、右手が何か柔らかい感触をつかむ。
最初、ゴム風船でも置いてあったのかと錯覚した。しかし違う。今こうして水面から浮き出ようとしていた、赤い半透明の球体。そして、ぎぎぎぎぎぎぎと。大和の首が、壊れた人形みたいにそちらへ向けられたまま止まった。
否、動けなくなった。
しゃぼんの中には、映画フィルムの一コマのようなワンシーンが映され、そこには。
崩れ去った瓦礫、その中で泣き叫び、しかし周囲には誰一人として守ってくれる者はいない...赤ん坊。確かそう、メタリックシルバーの襲撃者がティファイという名で呼んだあの......
「あ、あああ」
浮き出るしゃぼんはいったい幾つある?
そしてその一つ一つの中には、何が映っている?
認識が、途絶する。決して目にしてはいけなかった光景が、青年の瞳へと吸い込まる。ここにきて大和へと牙を向けるのが『異界の勇者』の本質とは。そして、ようやく違う方向へと視線が動いた。
ぺたりと尻もちをついて、そのまま正面。
ぷかぷかと漂う幾つもの『絶望』の一つ。
関節があり得ない方向へと折れ曲がり、辛うじて無事なのは右手と頭程度...しかしそれでも、無事というよりは他よりましというだけに過ぎないような。大和もよく知る海獣族の少年の――――...。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
「ヤマト!!」
あり得ない声があった。
その次の瞬間に、ばしゃん!!!と冷たい液体に顔面を叩かれた。びっしょりと濡れた顔がベッドから跳ね起きて、それが頭から被せられた冷水か冷や汗かもわからない。
数十秒。それだけの時間をかけてようやくだ。自分が全体的に白で統一された清潔感漂う室内のベッドに寝かされていて、その上から冷水ぶっかけられて叩き起こされたと気付く。そしてベッドの隣に佇む少女。栗色の肩辺りまで伸ばした癖毛の少女がバケツ片手にこちらの顔を覗いている。妙に人を安心させてくれる、心強い女の子の顔だ。
椎滝大和の涙腺のダムが決壊しかけてた。というか、安心しきってほとんど半泣きであった。砂漠を我が身一つでうろつかさて見つけたオアシスのような安心感とはこのことか。いまいち実感が掴めないのか自分の体にぺたぺたと触って命を確認する大和。
シズク・ペンドルゴンがふんと鼻で息を吐く。




