死は雄弁に命を語る
どこまでも強く、どこまでも雄弁で、どこまでも恐ろしく。
白銀の毛皮と八本の尾を煌めかせ――――...一匹の魔獣が天高く吼え狂っていた。
もはや原形の欠片もない。
その凶悪極まる魔獣が一人の青年から派生していったものだと誰が気付けるだろうか。或いは、彼女が最初から知らずにいたのなら、青年は誰にもその真の姿を明かすことも無く呑み込まれていたのかもしれない。暗く、ただどこまでも続くような延々の闇の中をただ真っ逆さまに堕ち続けるだけだったかもしれない。
誰からも忘れられて、ただ堕ちていくなんて。
それはもう『死』と言い換えたって差し支えない。
「ヤマト...」
本当は、こんなことになる前に止めるべきだったのだ。例え椎滝大和に救われぬ命を守護り通すだけの力が無くたって。『怪物』と呼ばれる程度の力を身に宿らせずしたって。彼は、椎滝大和は椎滝大和で在り続けるべきだったのだ。
誰かを傷つけるよりも助けたいと。
奪うより奪われたいと。
戦うよりも守りたいと願うだけの『人間』の姿が一番似合っていた。最初の接点や目的がどうであったとしても、椎滝大和とシズク・ペンドルゴンは『箱庭』の仲間なのだから。青年が見せるあの鋭い目つきの中で、ただ当たり前のように他人を思いやれる青年の姿を重ねて、『怪物』と呼ばれた少女はそう思う。
だから、取り戻す。
「来いよ『怪物』、あまり『人間』を舐めるな!!」
瞬間、ゴオオオオオオオォォォォォォオオオオッッ!!!という、呼応するかのような空気の渦が生まれていた。当然、台風の目のように一点を中心に渦巻く見えない流れ。白銀の魔獣を中心に、文字通り空を裂く烈風の刃が渦巻いていたのだ。
少女が跳ね退くと同時だった。
視界に収まらぬ不可視の津波と化した烈風が辺り一帯を切り裂き、シズクの頬にも浅く赤色の線が掠めていく。気に留めるほどでもないダメージを無視したうえで、宙で回転しながら視線を預けた飲食店の壁が音を立てて崩れる。続けざまに横薙ぎの烈風がシズクの首から上下を分断しようと振るわれて、運悪く射線上に収まってしまった人工物が無慈悲にも両断されていた。アレではもはやダイヤモンドカッターの切れ味を帯びたかまいたちだ。
咄嗟に全身へと光のカーテンを巻き付けたシズクがぐるぐると回転しながら虚空を蹴り、そこからまた半月状の閃光が一直線に突き抜けた。
(ヤマトが完全に呑み込まれる前にケリをつけてやる!!)
閃光と風圧。
極大なる力と極大なる力の衝突が、超至近距離からのダイナマイトにも匹敵する爆音を轟かす。迫力だけでも誰かの意識を奪いかねない猛攻のぶつかり合い、少しでも攻撃の威力が相手より劣っていたならば、傾いた衝撃波を全身に叩きつけられてしまうほどの威力による牽制攻撃だ。
間髪入れずに、飛び散った衝撃波で未だ滞空状態のシズクが、片手を使って拳銃のジェスチャーを向けていた。ドパンッッ!!と発射された光の銃弾を悍しく唸る尾の一つに掻き消されながらも、少女の猛攻が次から次へと火を噴き続ける。
二発、三発、四発、五発、六発と。
空中で放った全ての銃弾を撃ち落とされながらも新体操のような体の使い方で着地に成功したシズクは止まらない。白銀色の魔獣もそれを予知していたのか、生物的に蠢く八本の尾が一斉に前方へ飛び出した。
「っ」
ガヅンッッ!!と
おおよそ肉と肉がぶつかった音とは思えない音を受け止め、しかしなおシズクは一歩も引かない。僅か一歩でも引いてしまった瞬間には、相手の膂力に押し負けるだろうと最初からわかっていたから。
「こいつっ、霊媒を得てより一層...ッ!?」
シズク・ペンドルゴンの化け物じみた破壊力をもってすれば、ただ相手を殺すこと一点に集中するという条件下でならこの状況も切り抜けられる。しかしそれは、椎滝大和を殺して自分たちの安全を得るという現実に等しい。仲間を殺して前に進んだところで、その先の未来で待ち受けているものなんてたかが知れている。
だったらやるべきことは最初から最後まで一本道だ。
ドガガガガガガガガガガガガガガガガガガッッ!!と八本の尾を鞭のようにしならせ叩きつけられた。一本一本が目で追いきれない速度であるが故、その先端速度は数値で表すとなると恐らくはとんでもないことになっているだろう。打たれた傍から当たり前のように鮮血が噴き出し、瞬く間に尾の先端も鮮やかな赤で染まる。
それでもシズクは、明確な防御を行うことも無く進み続ける。自身のダメージよりも大切なものを手にするために、眉一つとして動かすことなく簡単に耐え抜いている。
(三次元式の中に史実を軸とする即興の魔術式を組み込んだうえで、ヤマトを霊媒の状態に保ちつつ力だけ奪うとなれば)
槍の鋭さを帯びた鞭に身を削られ、びちゃびちゃとみずみずしい鮮血を撒き散らしている最中だというのに。在ろうことかシズクは、自身が『箱庭』の第二の王であると同時に、叡智を手にした魔法使いの一角でもあることを思い出していた。本人の意識とはまた別で、彼女の頭脳だけが青年を取り戻すべく奔走しているのだと。一身に背負う猛攻撃は苛烈の一言に尽きる。が、挑みかかる様に笑って見せた。あの日やったことを繰り返せばそれでいい。
このクソ忌々しい狐をヤマトから引っぺがし、元のように人懐っこく笑うあいつを取り戻す!
(封印術...三秒抑え込めればどうとでも!)
ドッッ!!という轟音と共に、シズクが動いた。光が、水面に垂らした一滴の絵具のように全身へと広がっていた。極彩色の四肢を振り回すだけで槍にも鞭にも化けていた『尾』の連打が途切れ、獣の全体が大きく後ろへと引きずられていく。
全ての動作はまさしく完璧に研ぎ澄まされ、もはや人間の目で追える速度は保たれなかった。
猛攻に次ぐ猛攻を加えるシズクは白銀の魔獣の反撃を紙一重の所でするりと回避し、教科書に記されたお手本をなぞるかのような動きで懐へと飛び込んでいく。
直後に、ガヅンッッ!!と獰猛なる肉食獣の顎が跳ねた。シズクが取った行動は単純明快で、ただ高速で潜り込んだ相手の懐から。今度は両手を逆さに地につけバネとして、両脚部をも折り曲げその一点だけに巡り廻る恒星の如き光を集中させた、地を蹴る両腕と折り曲げた脚部のバネから繰り出される一撃。
ゆらりと顎を上げる魔獣へと。更に続けて数発の光を纏う肢体を以て撃墜しようと跳ねるシズクに対し、次は自らのターンだと言わんばかりに魔獣が八本の尾を操った。操られて、蠢く尾の内の数本。意趣返しのように白銀を纏う光の尾が、目の前の仇敵目掛けて突き進む。
ガガガガッッ!!と。
取り囲むように全方位。鋭利で硬く艶めかしいまでの狂気が彩りつくす。
殺意の壁を叩きつけられ、それでも一歩たりとも躊躇を見せないシズクの拳が獣の顔面目掛けて飛んでいく。
選りすぐりの『怪物』が集まる『箱庭』という組織。更に火力のこと一点に置いて他のメンバーから絶対の信頼を受ける彼女の拳を正面から受け止めてしまったのなら、たとえ分厚い毛皮に覆われた魔獣だろうが数秒の意識の混濁...もしくは思考の乱れが生じるはずだ。どれだけ強い人間だろうが、或いは人間でなくしても生物である以上、攻撃されたという明確な事実が意識にもたらす影響というのは少なからず存在する。が、ふと見上げた瞬間だった。顎を打たれて宙を佇むその獣、がぱりと裂けるように広げた口と牙を向けていた。
いつしか『怪物』と呼ばれるようになった少女でさえも、己をも忘れていた。
時間が停止ししたのかと錯覚するほどまで圧縮された時の中だった。
火炎放射を何十倍にも圧縮したような大火炎が吹き荒れる。
空気を圧縮した末に辿り着く高温の砲弾などとは比べ物にもならない、まさに巨大怪獣が口から放つような熱光線がシズクの輪郭を呑み込んだ。
あらゆるダメージに対して、生命の危険信号であるはずの痛みそのものを久しく忘れていた体。星の中心核にも迫る高温に晒された周囲の環境の変貌っぷりなど語るまでもあるまい。触れた無機物はどろどろの溶岩状にまで溶け落ち、いくつもの階層、天井と床を突き抜けていた。少女の体もまた同様だった。
じゅぐじゅぐと沸騰する肉に、剥き出しの骨格。咄嗟に展開した光の盾すらも貫かれた。倒れこそしないものの、あの怪物が初めて膝をついて肉体の再生を待っていた。
だが同時に、次第に元の肌色を取り戻していく指先の一つに光が灯っていた。
「忘れたか、愚物」
ドパンッッ!!と。
子気味良い炸裂音が生じて、獣の腰から突き出た尾の一本が弾け飛んだ。
「私は、循環という万象の極致の内一つを極め尽くしてしまった『人間』だぞ」
この程度では、死ねない。
死なないのではなく、死ねない。例え彼女なら、ぐつぐつ煮えたぎる溶岩の湖で素潜りを決行しようが、人の骨までしゃぶりつくす猛獣の巣窟に足を踏み入れようが、灼熱照り付ける砂の高原に置き去りにされようが。
今度は、完全に修復が完了した右腕全体に異常現象が発生する。
真横に突き出すか細い腕を一本の軸として。その周りをぐるぐると公転軌道を描く幾つもの輝かしい恒星があった。聞こえていたのか、もしくはその獣が聞いてたとしても理解出来たのかは定かではない。しかし、シズクには、あの怪物が自身の言葉を受けて、白銀の魔獣も明確にスイッチを切り替えたように映っていた。
内側から爆ぜた尾が植物みたいに元の姿を取り戻すと――――。
「グガルルアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
「喚めくな」
数ある尾の一本が瞬きを発して、直後に不可視の熱の塊が押し寄せていた。狙っていたかのように拳を叩きつけるとそれはガラスにハンマーを振り下ろしたかのように粉々に砕けて、更には飛び散った破片というべき空気が周囲の空間を叩く。
次の瞬間だった。
ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッッッ!!!と、世界が崩れる音が爆散していた。押し寄せたのは無数の閃光。或いは風圧。或いは槍に化けた尾の先端。或いは灼熱の息吹...。そのいずれをとっても破格の威力で、一つでも受けようものなら致命傷は避けられない。当然、そんな攻撃を取ってしてもシズクが絶命するには至らないのだが、この状況で僅かでも行動を阻害されるのは好ましい状況ではないだろう。
だんっ!と、小さな音が掻き消えた。正面、左右上下はたまた背後からも。三百六十度逃げ場を失ったはずの少女が一瞬たりとも迷うことなく、その小柄な体で地面から僅か三センチといったところへ小さくジャンプしたらしかった。みるみるうちに光が少女の輪郭を包む。押し寄せる絶望の壁に対して、絶対の信頼を置く自身の肉体一つで立ち向かう。
「天上より下りて苛まれし哀れなる魂魄よ。業を以て異形を撃てッ!!」
直後に到来した破滅の咆哮だった。が、今度はシズクも呑み込まれることはない。両手をぐんと突き出して腰を深く落とし、衝撃に備えるように展開した球状の半透明な光が極彩のブレスを真っ二つに裂いていく。
(ぜんっっっっぜん隙が無い!!触る触れないの問題以前に、気を緩めた途端ミンチにされかねない!!)
キマイラを生かせたのはまずかったか、しかし今更後悔したところでもう遅かった。すぐそこに次の一手は迫る。展開された光のカーテンを突き抜けて、八本の白銀の魔獣の尾が少女の体を大きく後方へと弾き飛ばしたのだ。
吐き気にも似た感覚と共に、喉奥から真紅の塊がせり上がる。いっそ吐き出したほうが楽になるのだろうが、一瞬たりとも目を離すことのできない状況ではそれすらも許されなかった。
現在進行形で空を斬る人間砲弾シズクの眼前。
獣の表情から感情を読み解けるほど器用ではないが、さも当然みたいな顔で例の魔獣が一緒になって吹っ飛んでいた。というより、追撃のために自ら飛び跳ねたという表現が近いか。
そして至近距離ということはつまり、回避動作に移るまでの時間が圧倒的に足りないということでもある。ドッガッッ!!というレンガブロックをハンマーで叩き壊したかのような音があった。至近距離でがぱりと口を開く魔獣の咆哮を恐れたキマイラが、ぐるぐると宙を舞いながら魔獣の下顎を蹴り上げたのである。当然衝撃は下から上へと突き抜けた。
全長三メートル近くもあるような狐の化け物が高い高い天井へと突き刺さると同時に、シズクもまた身をひねって壁へと着地した。
今度は唄うこともなかった。突き刺さった頭を容易く引き抜き、そのまま天井へ張り付く得物をまっすぐに見つめて、無数の白銀の槍の隙間を潜り抜けて。一つ一つの言葉を強く、踏みしめる。
「輪廻とは即ち循環」
詠唱。
本来、彼女ほどのレベルに達したのなら、魔術回路を制御するためにわざわざ意味深な単語を繋ぐ必要もないだろう。だがしかし、それはあくまでも彼女の内側の話だ。彼女が自らの内側で発生しうる現象を自由に改変しようものならまだしも、外側の...ましてや他者の生命を左右するほどの減少を引きおこそうとなるとそうもいかない。
助けるべき命が、そこで救いを待っている。
「巡り廻る力の流れは如何なる道におけども一点に留まることすらなく、やがて衰え静かに朽ちる」
だが相手がそれを許すはずもなく、天井へ四肢をべったりと張り付けた獣が吼えていた。否...ただ吼えただけならよかったものを。一言で表すとなると、固定砲台。重力という万物共通の法則すら無視し、凶悪な犬歯がむき出しとなった口内。悍しさすら感じられる漆黒の光が一点へと集まり、解放の時を待っている。
ズドン!!と。
今までのどの攻撃ともまた違った異質、漆黒に塗り固められた砲撃だった。しかもそれが連弾として襲い掛かってきたのだ。詠唱は中断せざるを得ない。襲い掛かる球状の物体に対し弧を描くように身を転げさせて回避に徹底する。未知の攻撃は無暗に受けることは避けるというのは対人戦闘の定石である。が、風船のように広がったと思えば爆ぜ、着弾点から大きな範囲の物体を抉り取ってしまった黒色爆弾を見てしまうと自分の判断は正しいものだと再確認させられる。
続けざまに砲撃が轟いた。どうやら獣も獣なりに考えているらしく、ごろごろとシズクが転がって避けた先に放たれたひときわ膨らんだ砲弾が飛ぶ。対して転がりながら拾い上げた瓦礫を空中でぶつけることで体に触れる前に爆発させてやり過ごした少女だったが、闇が広がって視界を覆いつくした僅かな時間。その一瞬の視界の分断を利用した獣がいつの間にか少女が足を付ける地点の僅か後方へと這っている。
「まず...っ!?」
小さいながらも生まれた動揺のせいもあり反応が追い付かない。
攻撃を避けようと体を捻ったシズクの体へ、するりと何かが食い込んだ。刀剣以上に研ぎ澄まされた爪が肩から入って脇腹へと。水を通すホースの表面に切れ目を入れていくかのように、引き裂かれた傍から出血に伴う熱が外へと噴き出すのがわかる。
錯覚とはわかっていても、まるであの日の感覚がそのまま蘇ったような気がして呼吸が乱れていく。
あと少し。
気張って伸ばせば届きそうだというのに。
例えどれだけガードを重ねていたとしてもきっと結果は変わらなかっただろう。今度は引き裂かれた方とは逆の腹部に、鈍器で撃ち抜かれたような衝撃が突き抜けた。まともな受け身も取れず、衝撃を殺すこともままならない。砲弾にも迫る勢いで背中から壁に叩きつけられ、固い壁などクッションになるはずもなく一瞬にして亀裂が広がる。
ぞわりと...痛みと共に久しく忘れていた、悪寒が蘇った。
一歩、また一歩と踏みしめる獣の背後。蠢く幾本もの尾の中に、新たな影が現れつつあったのだ。それはまるで一本一本がそれぞれ意思を内包するかのような生物的な動き方で。最初に肉が生まれ、その上から毛皮が広がって徐々にシルエットが完成していく。
九本目。
完全なる『怪物』の完成間近を知らせる、即ちタイムリミットの報せだった。
シズクは壁の亀裂に体重を預けていた。背筋をなぞる悪寒を隠すように、立ち上がることすら忘れていたのだ。
(あと少し、本当に...ほんの数秒だけでいいのに...っ)
たったそれだけの時間、短いようでいて途方もないくらい永劫に近しい数秒間が稼げたのなら...。想うだけではあと一歩届かない。もう一歩踏み込めば手が届くというのに、そのいっぽがとてつもなく重く、苦しく感じてしまう。
獣の爪が、牙が、尾が。そこにいるというただそれだけのことで、とんでもない威圧感を放っていた。揺れる尾の影に、もはや椎滝大和のシルエットなど重なるはずもない。相手もそろそろ終わらせるつもりだ。次第に加速していく歩の中にシズクが明確な殺意を理解するときには始まっていた。
今までで一番の咆哮。呼応するかのように、新たに誕生しつつある九本目がぐにゃりと歪む。地を蹴り、空を斬る速度で、剥き出しの殺意を帯びた牙が飛び掛かる―――――――。
「――――...っ!!」
と、その時だった。
牙も剥き出しで飛びついた白銀色の狐。その爪があとわずかで少女の首を分断しようという奇跡のタイミング。当のシズクまでもが、その光景に目を剥いていた。白銀色が紛らわしかったが薄い線が獣の全体の至る所へと張り巡らされ、攻撃そのものを縛り抑えていたのだ。両腕を伸ばせばしっかりと届くほどの距離感、コンマ数秒も無駄にできないとわかっていても、耳が勝手にその声へと反応を示してしまう。
「今の、うち、に...大和さん...をっ...!!」
ホード・ナイル。
化けてしまった椎滝大和と行動を共にしていたことで生存は絶望的とすら考えられていた海獣族の少年。
その全体は頭から赤のペンキでも被ったのかというぐらい凄まじく。
釣竿の先から飛び出た糸は今にも千切れようとしていた。裂傷にまみれ、骨折に侵され、結果生まれた火事場の馬鹿力というわけでもあるまい。誰かを殴ったところで明確なダメージすら与えられない少年の、細く...薄っぺらな釣り糸がどうして怪物の力を押さえつけられものだろうか。
簡単な答えだ。
あの場に残されていたのはメタリックシルバーのスクラップやホード・ナイル......だけではなかった。椎滝大和を怪物へと変貌させてしまった要因。『襲撃者』が、白衣の女が万能薬と呼んだ怪しげな薬品だってあの場に残されていたはずだ。
異なる才を持ちえる咎人の、その才を更に高みへと強制的に引っ張り上げる劇薬。幸運なことにも、ホード・ナイルは咎人だ。その異能は『未来探索』と呼ばれ、間違っても肉体派と呼べるものではないだろう。
その薬品がもたらすステロイドにも勝る筋肉の増強だって、肉体の様々な部分を犠牲に捧げた結果だろう。既に瀕死と称するしかない状態の肉体に鞭を打ち、それでもここまで辿り着いた。
仲間の覚悟を受け継いで、煌めきを放つ両腕が伸びる。
ここから先はシズクの仕事だ。
「だからもう一度言わせてもらう」
まるで、恋人の頬を撫でるような仕草だった。
北の夜空に輝くオーロラにも類似した淡い発光。白銀に染まる獣の頬へと添えるようにして、シズクの手が触れる。『怪物』は、すうっと息を吐いた少女の突きつけるような宣言を聞いた。
「私たちを...『箱庭』を...人間を舐めるな!!」
封印と言えど、方法は多岐にわたる。ただ力を奪って鎖で押さえつける方法もあれば、肉体から魂を引き剥がしてしまうのだってある。しかし、そんな並の方法ではあの怪物が止まることはないだろう。
ではどうすればいいのか。
彼女は詠唱の中でこう言っていたではないか。
輪廻とは即ち循環。廻り巡る力の流れは如何なる道におけども一点に留まることすらなく、やがて衰え静かに朽ちると。
シズクはこの世に現存する魔法使いの中でも特に異質。魔法使いという生き物が求めてやまない叡智の片鱗とやらを垣間見ることで、ヒトの身には不相応極まりない力を獲得してしまった魔法使いだ。誰にも説明できない、何にも分類できない力は彼女の全身を血液のように巡り続けるし、結果として肉体は衰えることを忘れ、欠損は直ちに塞がれて元通りにまで修復されてしまうという忌々しいおまけつきではあるが。
だが同時に、シズク・ペンドルゴンはその肉体上の特性故に、この世のどの魔法使いよりも力の流れというジャンルに理解を置く魔法使いでもある。
だから彼女はこう考えた。
崖下へと崩れ落ちていく友へ差し伸べるように、両手をそれぞれ突き出して想いを巡らせた。
例えば。
椎滝大和を覆い尽くしているくそったれ極まりないエネルギーのその全てが、それぞれ全く違う方向へと循環を開始したのなら?一つの公転軌道を速度の違う複数の惑星が回り続けるのと同様で、しかも超高速で動き続ける未知の力であるが故に衝突を繰り返し......やがては対消滅を起こしてしまうのではないかと。
「止っ、まれええええええええええええええええェェェェェェェェェェェェェッッ!!」
今までで一番文字数が多いです
すいません




