神々
一方で。
植木鉢の底面の辺り、落下の衝撃で潰れたトマトのような赤の塊。その異形極まる物体の正体ががとことん叩きのめされた人間の姿だと気付くのに、一般にはどの程度の時間が必要だろう。辛うじて保たれた意識...いや、わざと意識を絶たないように適切に叩きのめされたというのが正しいか。霞がかった視界の端で、巨大な金属の塊がそれなりの大きさの何かを放り捨てる。
どちゃっ...と、粘着質な赤を撒き散らして、ホード・ナイルが倒れていた。大和はこの時初めて、心の底から泣きそうになっていた。彼の口が未だ正常に機能するのであれば、こっちを見ながら他人の心配をしている場合かと笑われたかもしれない。
だがもう無理だ。
仰向けに倒れたそれ――――...ホード・ナイルの少年的な体のあちこちから染み出している赤が、言外にその事実を伝えてしまう。もう自分は動けない。それどころか、息を吸って吐くだけの動作にすら激痛が走ると言葉無しでも理解できてしまう。
一連のやり取りは結局、一方的な蹂躙にしか化けることはなかったのだ。
相手は椎滝大和含めた『箱庭』の情報をある程度把握していたらしく、『万有引力』による攻撃はすべてスカされた。ホードも必死に戦うが、彼はもともと戦闘員でも何でもないインテリ少年、むしろここまで耐えきったことが既に偉業だった。
こんな時、一番頼りになるはずのあの少女はいない。
どんな手を使ってでも耐え抜けば、きっと直ぐにでも天井をぶち抜いて、あの尋常ならざる戦闘力を遺憾なく発揮して、このくそったれのメカをスクラップにしてくれると信じて立ち向かった。
希望は潰えていた。
『あーあーあー...思ったより時間くっちまったなこりゃ、あっち抑えてもらってるんだから手短に済ませるべきだったな』
そんな風に『襲撃者』は呟いていた。と言っても肉声を晒したわけではない。巨大な重機の集合体のようなパワードスーツの外装、何処かに外部とやりとりを行うためのスピーカーや集音マイクが設置されているのだろう。薄い鉄板をいくつも間に敷いたような、そんな機械的な合成音声の一言。
日常生活の中の一ページ...例えば通勤中にふと見つけた自販機で飲み物を買って、一口飲んだ後にふと呟いた。その程度の意味しか込められていない。その程度の気持ちでしか行動していない。
その程度の気の持ち方でも、簡単に叩きのめせる。そうとでも、言いたいのか。
「く...そ...」
しわがれた声しか捻りだせない。
悔しさのあまり握ろうとした拳も、指先だけががくがく震えてみっともなく開きっぱなし。骨もどのくらい折れてしまったのか、体のあちこちが裂けてしまったみたいに激痛を発している。
奴は、どうやらあのメタリックシルバーの中で嗤っているらしかった。
この地獄を創り出した張本人が、返り血で真っ赤に染まった鉄杭を地につけた。それだけで、ゴドンッッ!!?という轟音が辺りを埋めつくす。爆風が、横になったまま動くことのできない二人の『箱庭』を打ち付け、粉塵が再び舞い上がる。
岩盤突破用鉄杭。暴力の権化とも見て取れる、土木工事用の金属杭。本来であれば作業の邪魔となる岩盤や岩石質を外側から破壊するために用いられるモノ...コンクリート程度なら、たった一撃で事足りる。生身の人間に向けるなんてもってのほか。むしろ、アレを何度も喰らってこうして生存している二人は奇跡の中に居るのかもしれない。
或いは、己の目的のため。『襲撃者』がわざとこの程度にとどまらせたのかもしれないが。
鍵の掛けられた鉄の扉を無理やりこじ開けるような連続した音があった。
『では聞こう』
舞い上がった砂煙の向こう側。
何の気なしに掛けられた言葉に、辛うじて意識を保つ二人の『箱庭』がほぼ同時に表情を変える。驚愕か、或いは焦り。機械でくみ上げられた巨大な左手にすっぽりと収まった、小さな命。
ホードが偶然保護した、見た目だけの年齢で言えば一歳くらいに見える少女。周囲を埋めつくす殺気の渦に怯え泣くことも無く、これだけの騒ぎの中すやすやと眠り続けているそれを見せつけて、メタリックシルバーの『襲撃者』はまずこう尋ねてきた。
『こいつ、この子供。こいつの領収書を渡してもらおうか』
「...は?」
言ってる意味が、理解できない。
呆然と、もう一度脳を大きく揺さぶられたような衝撃に、大和は口を開けて呆けるばかりだった。
『だから、領収書だよ領収書。お前らが勝手にこいつ拾ったせいでよぉ...こっちは面倒な手順が増えちまってるんだ。そんで、その時に回収してるだろ?あれが無いとこいつの所有権は移ったままだ。せっかく苦労してまで競り落としたんだから『作戦の途中で盗まれました』じゃどうしようもねえんだよ』
書類整理の途中で出てきた問題点を部下に指摘するかのような口ぶりだった。
まずあの子の最初の受け取り手は大和じゃない。『箱庭』の情報処理を担うホード・ナイルのほうだ。大和は辛うじて回る首を回してその少年へと視線を向けるが、そもそも彼はまともに話すらできないほど衰弱しきっている。恐らく、血液を失い過ぎたことが原因だろう。
そもそも。
こいつの目的は自分たち『箱庭』の殲滅のはずだ。自分やホードといった『箱庭』の面々に並々ならぬ憎悪を抱いていて、そいつを晴らすため鈍重な兵器の塊まで持ち出してこの場に立ってるはずだ。そこで、一体どこに子供が必要となる?『箱庭』への怨念と、この子供がどこで結びつく?
どうしてそこまでして、この悲劇の中に少女を放り込みたい?
『んー...指定されてた個体名に誤りでもあったのか、それともくだんねえ正義感で知らんぷりを貫き通してるだけか。判断に迷うがそうだな、『ティファイ』と呼べばわかるのか?それともまんま『導火線』か、もっと掘り下げて『毒炉の実』か』
「何、を...」
『これ』
唯一まだ、辛うじて動ける程度の椎滝大和が目を剥いた。服の首裏の辺りを、金属の親指と人差し指でつまんで持ち上げる。つまり、ホードが拾って来た子供の姿だった。
その首の側面辺りに、針先で突いた程度の穴が生じていたのだ。
よくよく目を凝らしてみてようやく気が付く程度の変化。それに彼女の滑らかな柔肌をつるりと滑り落ちる大粒の汗。何時のタイミングかはわからないが、眠っているのではなく、眠らされている。睡眠薬のようなモノか、或いは単純に麻酔か。
だが問題はそこじゃない。
彼女の衣服。
二の腕、腹の下、左のつま先から。得体のしれない、血液ともまた違う『色』が染み出していたのだ。
もちろん大和は今まで何度も彼女の姿を見ていたが、そのいずれにもあんな『色』は無かった。となると、『色』ごく最近になって染み出したということ。トリガーの可能性となるモノは、二人の隙をつかれて彼女へと撃ち込まれた何らかの薬品。
目を剥く大和へ見せつけるように、メタリックシルバーの巨大兵器が軽く腕を振る。僅かな振動を得て滴り落ちた爪先の一滴が、地面に触れた瞬間には気味悪い音と煙と共に消え失せていた。ただの液体は、物体に触れただけで煙と共に蒸発したりはしない。例えば、その液体に酸性なりアルカリ性なりの特性が付与されていなければ、中性は物体にそれほど大きな影響を与えたりはしない。
つまりあれは...
「毒、かっ!?」
『知らずに甲斐甲斐しく世話し続けたんだったらこりゃもうある種の奇跡だな。最悪腕なんか使い物にならなくなってたぜ』
ががっ!ぴー...と、メタリックシルバーから唐突に不自然な機械音があった。その次に、重機を人型に改造したとすら思える巨大兵器のバイザーが赤と緑の点滅を繰り返す。
口で説明できるような明確な根拠はないが、『襲撃者』から掛けられた声に偽りは含まれてないように思えた。表情こそ伺えないものの、機械によって加工された声に含まれるのは憐れみ。無知なる子供たちが必死になって抗う姿を見て、仕方ないからヒントとして手を差し伸べたくなったという同情の延長線でしかない。
それはつまり、スラム街の汚い壁に寄りかかる子供が、そっと差し出したさかさまの帽子にコインを投げ入れるようなもの。善意としては受け取れても、感情の突起は拭い去れない同情のコインだ。
『『毒炉の実』は触れた物体がどんなものであろうとも『有害』の性質で上書きしちまう恐ろしい異能だ。それも、咎人自体が幼すぎる故に本人の意思とは無関係に顕現するっていうロシアンルーレット的なギャンブルの』
「嘘、だろ...?」
『実際に、俺はそいつを狙ってお前らを捻じ伏せただろうが』
そう、確かにその通りだ。
何の目的もなく、しかし敢えて言うなら『箱庭』の殲滅だけを目的と置いてるだけならば、大和を、ホードを。ここまで生き永らえさせる理由なんてない。彼らがこうして現在も生存している理由、あくまでも『箱庭』の殲滅が寄り道でしかない証明になるということでもある。
皮肉にも、自分たちで拾い上げて助けようとした命に、現在進行形で助けられていた。
『俺達はそいつの有毒性に目を付けた。大金はたいてせり落として輸送ついでに長年温めてた計画にも組み込んだ。お前らが『そいつ』を拾ったのはただの偶然かもしれねえが、それは俺達が看過できるほど軽度な問題じゃなかった』
「何を...」
『現在、そいつの所有権は『大道芸館』から離れている。本来はあの女に渡るはずだったもんが、いつの間にか知らない誰かのふざけた悪戯で台無しになっちまってる』
「所有権だって...?そいつは、その子は!人間なんだぞ!?」
『そうだな』
「モノじゃない。ちゃんとこの世界に生まれ落ちた、尊い命の一つだ。人間の命だ!それを、所有権?ふざけんな!!」
『『異界の勇者』だって、アルマテラスの道具だったじゃねえか』
あっという間に言葉に詰まる。
これも呪いのように付きまとう、否定することが出来ない過去のせいだ。忌々しいとすら思えてくる『道具』の時代。利用されるだけ利用されて散っていった仲間たちの姿。思い出すたびに、自分たちの犠牲の意味を問うてきた歴史。そこを突かれた。
『自分できちんと所有権を主張しないと、他の組織に横からかっさらわれても何も言えない。払った金も掛けた時間もすべてが無駄になるし、俺やあの女...とにかく大勢の『復讐』は成就しない』
復讐と言うのは、こんなにも醜いものなのか。かつて自分の脳の片隅で蠢き続けた感情が、外から見るとこんなにも汚らわしいものだったのか。絶望感に苛まれた大和の首が自然と下に傾いていく。激痛も無視して握りつけた拳が、ぶしゅうとガスを抜くような音を立ててグロテスクな赤を撒き散らしていく。
『しかし』
しかし。
『俺はあの女ほど世界に憎悪を抱いてない』
散々語った癖に、あっさりと言い放ちやがった。いっそのこと清々しいほどに、機械の中なので表情こそ読み取れないが、声質からして本当にそんな考え方で言葉を紡いでいるようにしか思えない。
氷より冷たい、機械のようにしか思えない。
『よって、別にあんたらを確実に殺したいという願望もない。あるのはそうだな...せいぜい、苦しみ転げまわる連中を見てざまあ見ろって言ってやれる程度の願望か』
だから大和に犠牲になれというのか。
くだらない『復讐』のために、赤の他人をどん底まで引きずり降ろそうとしているのか。
『だから、今なら見逃してやれる。あんたは俺らの知らないところへひっそり逃げていって、顔も戸籍も何もかも作り替えちまえばそれで助かる。今ならまだ許してやる。そこで、もう一度聞こう。子供か、命か』
差し出されたのは、最悪の一言に尽きる取引の手。
悪魔が囁くように、善意を押しつぶしてあるだけ食い散らかそうとするだけの魔手。この手を取った瞬間、そいつはクズ以下に落ちこぼれてしまうのだろう。
「ふざ、けるな...!!」
代弁する。
きっと、彼が口を開けていたなら語っていたであろう言葉を。少年の代わりとして、ボロボロになりながらも、掠れた声を振り絞って、血みどろの椎滝大和が吼えかかっていた。
かつての自分もそうだった。何の脈絡もなく勝手な都合で呼びつけられ、何も知らない子供だった自分たちに偽りを植え付け、戦争にすら利用した大人たち。無知は罪だと思い知らされ、結果として失ったモノは余りにも大きすぎた。そんな自分を鏡写しにしたような。ただ生まれてきただけの命を、悪意で踏み潰す『オトナ』に向かって。
『オトナ』に縛り付けられていた『コドモ』を代表するように。
『ほう』
「お前らがやってることは、最低の一言に尽きるって言ってんだよ。子供?命?お前らがやってるのはただの弱い者いじめだ」
予想外の答えだったのか、メタリックシルバーの巨人は微動だにせず、頭部だけをこちらに向けて佇むだけだった。その気になれば、いつでも踏みつぶせる程度の存在でしかない大和を。
「自分がこんな目にあったのはあいつらのせいだ。でもあいつらには向かうのはどうしようもなく恐ろしい。だったら自分よりも弱くて抵抗もできないような連中を『復讐』の枠組みに入れて、あいつらに見立てて殴る蹴る出来ればそれでいい。そんなの、ただの八つ当たりでしかない!」
『......』
「逃げてばかりで抗うことも忘れた臆病者が。お前がやってるのは、お前が一番嫌ってる奴と全く同じだよ!逃がしてやるだ?許してやるだ?くそったれの『オトナ』が、『コドモ』を舐めるなよ。テメエがやられて一番嫌だったことを、自分以外の誰かに知らんぷりして押し付けてんじゃねえ!」
這いつくばってても。
どれだけ惨めな姿を晒そうとも。
椎滝大和は『異界の勇者』で在り続ける。潜在的に内包する性質、他人の不幸も自分の不幸も隣に立って考えられる人間になる。恩人がそう言う人物であったように、彼もまた、どんな時で在れ『勇者』を貫き通す。
これが『椎滝大和』
この姿こそが本質。
そこだけは、二度と折れることはないから。
『いいぜ』
がごんっ!と、金属質な音が連結していた。次第に大きさも数も増していくそれの正体。うつ伏せになったまま、首だけ動かしてどうにか視界に収めようとしていた大和の体が、直後にどうしようもなく硬直させられる。
ごきんっ!がごんっ!?ががががぎぎぎぎぎがぎがぎっっ!!?と。
メタリックシルバーの上から、猛烈な勢いで線が広がっていく。
「こんだけ言ってもわからない程度の馬鹿だったってだけだ。俺が躊躇う意味はねえよ」
今までの機械音声を覆すように、どこにでも広がる至って普通の肉声だった。
メタリックシルバーの背中が上下に裂けて、中から金髪碧眼の男が飛び出した。ぴっちりとしたライダースーツのような恰好も、あの巨大兵器に乗り込むための装備の一つだろう。胸の前あたりでいくつか円筒状の突起が突き出しており、男はそこからするりと三本の注射器を取り出してこう言ったのだ。
「死骸になる覚悟はできたんだよな」
ドゴオオォォォォォッッ!!?と、大和の腹部に鈍い衝撃が発生した。
「がっはァ...ッ!?」
喉の奥が焼いた鉄板みたいに熱い。せり上がる肺の空気と内側からの出血が混じっているらしく、吐き出そうにも喉の奥で詰まってしまった血の塊がなかなか出て行かない。何度も何度も繰り返した咳の果てにようやくそれが吐き出されると、新しい空気が一気に空っぽだった気道へ送り込まれる。
小さな風の流れでさえも、内側の傷跡を掻きむしるかのような激痛が走る。
「このまま蹴り殺すだけでも構わない。けど、どうせならそう、面白いほうがいい」
奴は取り出したサイケデリックな紫の薬品を手の中で弄んで。空いたもう片方の手で大和の髪を乱雑につかみ上げる。小さな呻き声を零すだけの肉塊相手に、三本の針の先を突きつけて。
「咎人専用異能暴走化薬品、通称『万能薬』」
遠い異国の治癒の神の名を冠する劇薬だ。聞く者が知識を持っていたなら、思わず眉をひそめたかもしれない。構わず、男はしゃがみこんだ態勢のまま大和の顔を覗き込む。
邪悪な表情が画面いっぱいに映し出されて、もはや微かな光すら失われつつある青年も死を待つのみとなった。
「服用量によっては血液中の赤血球ごとヘモグロビンを破壊しちまうから血が半透明になるって劇薬を、一度にこんだけぶち込んだらどうなるのか。実験と行こうじゃねえか」
つまりはそういうことだったのだ。
数刻前に相まみえた『竜』の男も、この劇薬とやらに侵されていただけだった。経緯はわからなくとも、彼はそんなものの力を借りて椎滝大和を追い詰め、力尽きていっただけだったのだ。もはや抵抗するだけの意識も残されていない大和に、同じくずたぼろのホードが潤んだ瞳を向けていた。
幾度となく、戦場で眺めてきた瞳。
救われぬ者が縋る時の。
(ああくそ、そんな眼で見ないでくれよ。俺なんかに、縋らないでくれよ)
チクリと体が痛む。
突き刺された針の先、抗うことすら許されない死の薬が這い上ってくる。まさに、冥界の死のザクロ。喰らい付いたものを無理やり死に叩き落とし、冥界へ封じ込めてしまうという禁断の果実。
青年の瞳から、一切の光が消え失せた。
どぐんっっ!!と、内側からあっさり壊れる。もうここでおしまい、だからあとは全部任せると言うような、諦念の意識で埋め尽くされ、筋肉からこわばりが失われ、神経から命令が途絶える。
大和はたちまち薄れゆく自分の意識を掴めず、そのまま体の内部から侵食されるように激痛が和らいでいく。悲観にまみれたホードが、どうしようもないくらい叫んだところで。
ぽすり、と。
「あ、ああああああ」
せめ、て...最期くらい、は、潔く。
新しい......仲...間たちに、全ての想いを託して――――――――......。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
残酷で儚く恐ろしく冷たい世界の片隅で。
悪意に踏み潰される形で、一人の勇者がまた散った。
......
...............
......................
......本当に?




